その525 『海の名』
まずはこの事実を皆に告げなければならない。
イユは、改めてライムに向き直った。
「私、この船の所有者になったみたい」
一瞬、室内に沈黙が落ちた。
「は?」
全員のぽかんとした顔が中々見物である。
イユは直ぐにライムに確認するように告げた。ライムであれば、所有者がテイシアという人物からイユに変わったことを確認できるはずである。
ところが、慌てて機械に駆け込んだライムは、驚きのあまり自失した。
「ちょっと、ライム」
返答を急かせたイユの前で、ライムの唇がふるふると震えている。
「嘘っ、嘘っ、何で、何で?」
うわ言のように繰り返した後で、
「本当に所有者が変わってるぅ!」
悲鳴に近い声で叫んだ。
そこでようやく、皆が驚いた顔を浮かべる。特に、クルトやラダ、航海室で辛酸を舐めていた面々は、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていた。
「これ、ライムたちでも操作できるようにできないかしら」
椅子の前に浮かんだ文字を指さしてライムに訴える。
「イユには何が見えてるの」
「たくさんの文字と、パネルみたいなもの」
はじめに浮かんでいたイユを歓迎する古代語は消え、代わりに椅子の前を覆う形で正方形のパネルが整列している。そのパネルの一つ一つには絵が描かれ、その下に古代語が浮かび上がっている。
「右端に、歯車みたいな絵があって……」
イユは一通り、ライムに口頭で説明する。駆け寄ったライムは、イユの視線と説明に合わせて、幾つか操作を促した。
「操作……?」
「画面に触るだけ。アイコンに触れると何かしら反応があると思うの」
言われた通り指で触れると、パネルが点滅し、別の画面が浮かび上がる。
「出来たみたいだわ」
そこから更に何回か言われた通りに動かしたところで、ライムがクルトを呼んだ。
「これで皆にも権限委譲されたと思うから」
「うわっ、本当だ。全部触れるようになっている!」
ライムの話を遮る勢いで、クルトが歓声を上げる。
「これなら、触り放題だよ! イユ、凄い。どうなっているの?」
「……私も、自分でよくわかってはいないのだけれど」
聞かれても答えられない。考えられるとしたら、この中で最初に古代語に触れたのがイユであるということだろうか。触れた当初は反応がなかったが、電源が復旧したから古代語に近づいたイユに反応するようになった。
「ライム。後はどうすればいいの?」
イユの言葉に、ライムは首を横に振った。
「権限移譲したから、もう大丈夫」
気付けば、ライムは腕まくりしている。つい先ほどまでの悔しそうな顔は消え、代わりに獲物を前にした猫のような顔つきになっている。その表情で言い切ってみせるのだ。
「充分すぎる活躍だよ。これで船は掌握できる」
再び機械の元へと走ったライムは、絶え間なく手を動かし始める。その様子に、皆が圧倒されている。
イユはそれらを見て、ただ感心した。ライムなら後は全て任せても大丈夫だと言えてしまう、不思議な安心感がある。
「ラダ、手伝って。ワイズも翻訳」
ライムの言葉に、ラダ、加えてワイズも機械へと向かう。クルトはとうに手を動かしていた。
「まさか、飛べそうなのか」
レパードの言葉に、ライムは慎重だ。掌握することと飛ぶことは同じではないと考えているようである。
「まだ分からない。でも、可能性は高いよ」
ふいに、ライムの手が止まる。
「待って、名前だけつけて」
「名前?」
意外な言葉に、イユは首を傾げた。
「この子、イユのことを持ち主として認めてるの。だから、イユがこの子に名前をつけてあげて。それで、全部掌握できる」
急に言われて、イユは悩んだ。
「セーレじゃだめなの?」
「いや、できれば変えてもらえないかい」
イユの言葉に真っ先に否定したのは、ラダだ。
「セーレは、燃えてしまったあの船だけの名前であるべきだ」
ラダの声には、激情を無理に抑え込んだ響きがある。イユはその勢いに呑まれた。
「分かったわ」
そうはいうものの、突然名前をつけろと言われてすぐに思い浮かぶものはない。
「そうね……」
記憶を辿ったイユは、悩んだ末、こう名付けた。
「タラサ」
――――認証、完了シマシタ
どこかで、機械的な言葉が聞こえ、照明が一段明るくなった。ライムの目の前にある機械から、ホログラムが映し出され、くるくるとその絵が回転する。
「……古代語で、『真なる海』ですか。あなたらしい、ちぐはぐな名前ですね」
ワイズの辛辣な感想に、イユは当然だなと納得する。
「上手くいえないけど、この船には、海に関する名前がつけられていたの。その名前には意味があったと思うから、安易に塗り替えたくはなかったの」
海の名前をつけながら、空ばかり飛んでしまったと、夢の中の人物は言っていた。あの人物が、イユの妄想の産物であれば、確かにおかしな名前をつけたと一笑されるものだろう。だが、夢だと断じるにはあまりにも現実的だったから、なかったことにはできなかった。
「でも、よく古代語で名付けられたね?」
クルトの鋭い発言に、イユの息が詰まった。今となっては隠していたつもりはない。だが、言うタイミングを逃していたのも事実だ。
「昔、クルトに嘘をついたわ」
イユの告白に、クルトは目をぱちくりさせている。
「私、古代語が読めるみたいなの」
周りには驚かれると思っていた。だが、意外にも返ってきた言葉はワイズからの「そうでしょうね」という同意である。
「『魔術師』にとって、古代語は日常言語より重要です。子供に文字を教える前に古代語をマスターさせるなんてことは、意外とやっているものですよ」
レパードは、「ふむ」と納得した顔をすると、腕を組む。
「『魔術師』の関係者だと思われたくなかったか」
声音は意外なほどに優しい。
「そうね。認めたくなかったわ。それに、あのときは余計なことを言うと追い出されると思っていたから」
言いたくなかった。身勝手だと分かってはいた。
「そう! なら、全部読み上げてもらうことも可能だね」
嬉しそうなライムには、イユを責める様子は見られない。他の仲間たちもだ。平然と受け入れられていることに、イユはほっと息をつく。尤も、どこかでイユはこうなることを見越していた。甘えだと分かりつつ、甘えきっていたわけだ。
「えっと、ここ。飛ぶって書いてあるわ」
イユが読み上げたのは、イユにしか見えない古代語だ。古代語とともに、紋章が浮かんでいる。イユはその紋章を見て、反射的に腕を抑えた。
「イユ?」
真っ白な紋章だった。大きな翼を柄から生やした剣が地面に突き立てられている。見間違うはずがなかった。ついこないだまで、イユ自身に烙かれていたものだ。
「これ、イクシウスの紋章だわ」
触れたつもりはなかった。遠目に見えたそれに、手を翳しただけだ。
だが、それは、イユの手が近付いた途端に、赤色へと変じていった。まるで、イユの血が紋章に吸われたかのように、真っ白な紋章が中央から外側へと向かって、滲んでいく。
それを確認したイユの頭が、くらっとした。何かに吸い込まれそうな感触があった。
そして、ぐにゃりと、イユの目の前の景色が歪んだ。周囲からも悲鳴のような声があがる。それを確認する余裕もないまま、込み上げる吐き気にただ、耐えた。
そして、視界がひらけた―――。
「何が起こったんだ?」
気持ち悪さを抑え込んだ声を発して、レパードは呆然と呟いた。
イユは、それに答えられない。言葉を失ってしまっていた。
今、目の前にはそれほどにあり得ない光景が広がっている。
イユの前には古代語で書かれた幾つかのパネルと、その奥には舵がある。だがその先には、坑道の岩壁が見える霞んだ窓があったはずなのだ。
そうだというのに、今のイユは眩しさで目を瞑りたくなっている。幾ら『それ』があるとはいえ、全体的に明るくなったのだ。
「何、プラネタリウムよろしく映像が浮かんでいるわけじゃないよね?」
クルトも動揺を隠せていない。
だが、それもそのはずだ。
イユの前には、空が広がっていた。白い雲が霧のように時折船の前を流れていく。
そして、その先には、雲を食らおうとする禍々しい黒い渦があった。
「どうして、『深淵』がここに……」
その場にいる誰もが、その問いに、答えられなかった。




