その522 『一つの別れ』
「そんなの、無視したら良いじゃない」
真っ先にイユは、ラビリの言葉を否定した。
悲しそうな顔をするぐらいなら、むしろフェンドリックなど無視して、イユたちと一緒にいれば良いのだ。
「そうそう。せめて、あと少しぐらい長居しても良いんじゃない?」
クルトも同じ気持ちらしく、ラビリにそう提案する。
だが、ラビリは首を横に振った。
「フェンドリック様の話だと、イクシウスで『魔術師』が処刑されたらしいの」
それが、どうしたというのだろう。
イユの心を読んだように、ラビリは続ける。
「処刑の理由は、ブライトが魔術書を盗んだ行為を見逃した罪だって」
かたんと、ワイズの手から弁当の容器が崩れ落ちた。
「失礼しました」
何事もなかったように、その手に弁当を持ち直す。
ワイズの様子を眺めていたイユは、彼が何気なく食べ始めるのを見て、ラビリへと向き直った。
「当のブライトが生きているのに、関係した『魔術師』が死んじゃったの。これって、ブライトの立場からしたら、不味いことだと思う。フェンドリック様も詳しい情報を得るために今すぐにでも戻る必要があるとお考えなの」
「ブライトなんて関係は……」
ないと、そう言い切りたかった。しかし、ワイズを前に言葉に出すのは躊躇われた。ワイズが弁当を食べるふりをして、ずっと会話を聞いているのであれば猶更だ。
「ないなんて言えないよ。セーレも関係者だもん。イクシウスにいたら、立場上不味いかもしれない」
だから、『龍族』や『異能者』に限らず、関係者は気を付けたほうがよいと、ラビリは忠告する。
「そんな情報、ここにいても手に入らないでしょ?」
ラビリは静かに言い切った。イクシウスの情報を手に入れて、セーレの皆に告げるのは自分自身だと、その表情は告げていた。
「でも、その理屈なら姉さんだって、イクシウスにいたら不味いでしょ?」
クルトの反論に、イユも頷きたい。セーレの皆がイクシウスにいることが立場上不味いのであれば、ラビリも仲間の一人だ。一緒に逃げるべきである。
ところが、ラビリの決意は揺るがない。
「フェンドリック様はセーレを支援すると言ってくれた。だから、私は安全だと思う。むしろ、私がいることで、フェンドリック様は後に引けなくなった。だって、召使いがブライトの関係者で、自分自身はシェイレスタに裏切り者の縁者がいるんだから」
イユたちの前では悠然としていたフェンドリックだが、立場を考えると決して良くはない。だから、フェンドリックはラビリの存在を隠し守るだろう。実際、本来なら弱みになるはずのセーレとの関係を、サロウを落とすための武器にできないか画策していたぐらいである。フェンドリックの性格を考慮したうえで、ラビリはそこまでの判断をしているようだ。
「クルトは立派に皆の役に立ってる。レッサやライムたちもそう。でも、私はそうじゃない。ここでは、掃除かシェルを看病することでしか役に立てない」
「自己評価低すぎよ」
イユは思わずそう口走った。役に立たないなど、とんでもない。戦えなくとも、知識や手先の器用さを活かせなくとも、ラビリにはラビリにしかできないことがある。
「ありがと」
ラビリはしかし、社交辞令とでも思ったのか、にこりと笑って取り合わない。
「情報を制するものが勝つ。私はそう思ってる。だから、掃除マスターになるより、私にしか出来ないことを続けたいんだ」
克望に捕まった仲間の位置を掴むだけの話ではないのだろう。ラビリは今までと同様、風切り峡谷から自分のできることを続けると、改めて宣言する。
「勿論、そのせいで迷惑を掛けたし、今後も掛けるかもしれない。けれど、そうすることでしか、私は大事な妹に私を誇れないから」
ラビリの語りは、クルトのまだ不満そうな顔に向けて告げたものなのだろう。
「姉さん」
どこか辛そうなクルトの声に、
「この船にくる前に話したでしょ?」
とラビリは優しい笑みを浮かべたままだ。
「大丈夫。私は、十二年前も『龍族』の襲撃からクルトを守り抜いたお姉ちゃんなんだから、心配無用だよ」
不器用なことだと、つくづく思う。妹を大事に思っているのに、離れる道しか選べない。それが、ラビリという人間なのだ。
「決意は揺らがないのか」
「はい」
レパードの問いかけにも、やはり、はっきりと肯定する。
「私はお昼ご飯を食べ終わったら直ぐに荷物をまとめて、マゾンダに戻ります。魔物の問題があるので、土嚢を運び込むときにご一緒させてください」
段取りをつけるラビリを見て、イユにはもう反論の言葉が何も浮かばなかった。
別れまでの時間はあっという間だった。
一通り荷物をまとめて挨拶をして回るラビリは、最後に航海室で挨拶が最後になった面々と別れを惜しむ。残りの土嚢を詰め込み終わったレパードたちが、ラビリの様子を見ながら、声を掛けずにじっと待っていた。
それを見て、イユは嫌でも気づかされる。時間は、永遠ではない。ずっと話していたい気分であったが、そうもいかないのだと。
ラビリも分かっているのだろう。だからこそ、言いたいことを言ってしまおうと、クルトに対し饒舌だ。
「じゃあ、元気でね。ちゃんとご飯食べて歯磨きして、寝ないと駄目だよ。クルトはレッサたちに影響されたのかすぐ夢中になっちゃうんだから」
まさにライムが機械に齧りついているところだ。残念ながら、ラビリが挨拶をしても聞こえていないようだった。ライムは恐らく、目の前で大々的な別れをしているにも関わらず、ラビリの別れを知らぬままに過ごすのだろう。
ライムの様子を遠目に見たクルトは、肩を竦めて、あくまでいつものように文句を言う。
「いろいろ言い過ぎ。これじゃあ、姉さんっていうより母さんだよ」
「いいの。私はクルトのお母さんとお父さんの代わりでもあるんだから。ちょっとぐらいお小言言わせてよ」
「自分だって人のこと言えないのに?」
「うっ。自覚はあるけど、こういうときは大人しく聞いておくべきなの。雰囲気的に!」
いつもの距離感を感じさせない姉妹のやり取りが、微笑ましい。だからこそ、これから寂しくなると感じた。セーレの皆がばらばらになってから、誰かがいなくなるのはやはりどこか抵抗がある。それが、必要なことだと分かっていても、胸に残る喪失感は消せない。
「おっと、そうだった。イユにお願いがあるんだけど」
心の内が漏れていたわけではないと思いたい。ラビリの目は、クルトだけでなくイユに対してもどこか優しかった。
それにしても、唐突なラビリのお願いという言葉には、思い当たる節がない。
「何?」
ラビリのえくぼがいつも以上に深くなった。
「ぎゅっとさせて!」
次の瞬間、視界一杯にラビリの服が迫る。飛びつかれたと気づいたときには、肌をすりすりされていた。
「イユったらいつも撤去作業頑張っているから、ずっとずうっと我慢してたの。やっぱり可愛い子は抱きつきたい!」
抵抗したいものの、敵対して襲われているわけではないので、抵抗しづらい。だが、別の身の危険を感じるのは何故だろう。
「あぁ、姉さんの残念なところがとうとう出た」
「何だとぅ! クルトだって、可愛いから私の餌食だもん!」
ラビリはクルトに飛びつこうとする。解放されたイユは、ほぅっと息をついた。
その間、ラビリは、動きを読んでいたらしいクルトに、さらりと避けられていた。代わりに床に激突する羽目になったため、痛々しい音が響く。
「うぅ、我が妹が冷たい」
悲しみの声を出そうとして、喜びが隠しきれていない。
「馬鹿やってないでそろそろ行くぞ」
レパードに声を掛けられたラビリは、さぞ未練がましくクルトを見やる。
溜息をついたクルトが、ラビリを助け起こした。
「姉さん。頼むからその飛びつき癖で風切り峡谷の人たちに迷惑を掛けないでね」
「うっ」
顔を引き攣らせたラビリは、懲りずにクルトに抱きつこうとしていた手を所在なさげに漂わせる。立場が逆転しているうえ、何とも残念な姿だった。
「ほら。いつまでもここにいないで、行った、行った」
挙句の果てに、体の向きを百八十度、レパードとレンドがいる側へと向けられて背中を押される。これでは姉妹の別離に嘆く様はなく、むしろ鬱陶しく追い出されているような絵面である。
それでも、クルトはクルトらしく、ラビリはラビリらしく、最後には互いに顔を見合わせた。
「元気でね」
「うん」
「いってらっしゃい」
先日のようにセーレが燃えてしまうようなことは、幾らでもあり得る。だから、この別れが今生のものになることも考えられた。
そして、現実主義の姉妹たちのことだ。そこまで分かっていて、敢えて、明るく少し残念な別れ方を選んだのだろう。
それは、何も失いたくないと思うイユには信じられない生き方だ。
「いってきます!」
だからだろうか。妹に見せるため、満面の笑みで答えるラビリの姿が、その声が、心に焼きつく。




