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カルタータ  作者: 希矢
第八章 『手繰り寄せて』
513/994

その513 『無情な世界』

 

「この船とも、お別れね」


 その声は、唐突にイユの頭に響いた。


「貴方には、世話になったわ」

 目の前に、琥珀色の髪を背中まで伸ばした女がいる。背を向けているため、表情までは見えなかった。

 だが、その手は甲板の手すりを優しく撫でている。

 『貴方』とは、この船のことなのだろうと、理解した。


「海の名を与えておきながら、空ばかり飛んでしまったわね」


 何かを後悔するように呟いた女は、そっと手すりから手を離した。

「さようなら。次の主が貴方を大切にしてくれますように」

 意を決したように、女が振り返る。

 だからイユは女の顔を見たはずだった。それなのに、印象がぼやけてしまって、記憶に残らない。

「私も貴方より長生きして、貴方のことを見守っているから」

 声とともに、イユの視界が眩しく染まった。

 光に潰されるような感覚に耐えきれず、ぎゅっと目を瞑る。


 そして、イユの意識は、医務室に引き戻った。誰かのいびきが聞こえる。すぅすぅと、小さな寝息が幾つか聞こえてくる。医務室での雑魚寝は、ここ数日で定着したいつもの光景だ。それにどこかほっとしながらも、今の夢は何だったのだろうと不思議な感覚に囚われた。

 やたらと、現実味のある夢だった。そのせいで、目を閉じながらも中々寝つけない自分を感じる。目の前で風船でも割ったかのように、頭の中が冴えてしまっているのだ。

 そうすると、振り返るのは先ほどの強烈な夢だ。しかしおかしなことに、あれほどの印象があった夢の記憶は既に、女の顔や服装、印象までもが――、朧になっている。雲を掴もうとして、中途半端に指に絡まってしまったような有り得ない可笑しさが、そこにあった。

 だが、明日も早いのだ。自分にそう言い聞かせ、余計なことを考えまいと、ぎゅっと目を閉じる。

 今日は結局、ろくに土砂の撤去をする時間を確保できず、眠ることになってしまった。だからこそ、明日からも頑張らなければならない。そのために、眠って少しでも疲れを取る必要がある。


 ところが、中々寝つけないイユは、とうとう人が起きる気配を察知して、目元を擦ることになった。

 それにしても、誰だろう。布の擦る音が続けて聞こえてくる。

「ごめん、ねぇちゃん。起こしちゃった?」

 はっとして、身体を起こした。

 視線の先で、包帯だらけの顔と目が合う。青色の瞳が片目だけ、薄水色の髪の合間から覗いている。

「シェル、起きたのね!」

 慌てて駆け寄った拍子に、地べたで眠っている誰かを蹴ってしまったが、それどころではなかった。寝たままのシェルに、迫る勢いで駆け付ける。

「う、うん」

 声が記憶のなかのものより、はるかに枯れていた。

「水、いる?」

「いいの?」

「遠慮なんかいらないわよ」

 すぐに医務室の隅に固めておいてある水を取りに行く。コップに水を汲んでいると、急に時間が気になった。ラビリが買ってきた時計が、受付カウンターに置いてある。それを確認して、いつもの起床時間より数時間早いことを知る。思ったより寝ていたことに驚きつつも、それならば、あまり騒いで起こしてもいけないと考える。

 水を持ってきてから、シェルが寝たままなことに気がついた。起き上がる力が残っていないのだろうと判断し、なるべく負担を掛けないようにしながらシェルを起き上がらせる。

「はい、水。……持てる?」

 シェルに水を手渡そうとしてから、それも出来ないかもしれないと思い尋ねた。

「大丈夫だよ」

 子供じゃないのだから、と言わんばかりの口調でシェルは返すが、中々コップを持とうとしない。

「シェル?」

「あ、うん」

 シェルは利き手とは逆の手を動かした。

 本当に持てるのだろうか? 握った途端、コップを落としてしまわないか?

 イユの不安は、幸い外れた。シェルは片手でコップを手に取るとそれをゆっくりと口まで運ぶ。包帯のせいで飲みづらそうだが、確かに自力で水を飲むことができた。

「あの、ねぇちゃん」

 シェルは言いづらそうに声を発する。多少声が聞きやすくなっていた。水で喉が潤ったのだろう。

「ちょっと、近い……」

「そう?」

 距離感がそんなに気になるのだろうか。仕方なく、イユは一歩後ろへ身を引く。

「水はもういいの?」

 シェルはコップを口から離している。

「うん」

 コップを持つ手が僅かに揺れている。コップの中の水面がそれに合わせて、さざ波を立てている。

 イユは、すぐにそれを回収しようとした。ずっと寝ていた人間の筋力がどれだけ落ちているものなのか、イユにはよく分からない。だが、震えているということは無理をさせているのだろう。だからこそ、早めに片づけたほうがよいのだと判断したのである。


「ねぇちゃん」

 呼ばれて、イユは振り返った。シェルの片目が、ふるふると震えている。

「何……? どこか痛いの?」

 シェルのためにクルトが薬を調合したと言っていた。あの中には痛み止めもあったはずだ。

「ううん、何でもない」

 シェルは続けた。

「まだ朝早いんだよね? 寝ていてもいいよ」

 何故、シェルがイユを気遣うのだろう。そう怪訝に思ったところで、イユは固まった。

 シェルの表情が崩れそうだったからだ。

「どうしたのよ」

「……何でもないって」

「駄目よ、言いなさい」

「だから、何でもないって」

 シェルは、答えようとしない。

「意地なんて張らなくていいわよ」

「……」

 シェルから反応はない。イユには言いたくないのだろうか。もやもやとしたものが心の中に湧き上がる。どうして、頑なに何も言おうとしないのだろう。それが、逆にイユの不安を掻き立てるというのに。

 観念したイユは、横になろうとした。確かに、まだ朝早いのだ。皆が起きるまで時間がかかる。


「……動かない」


 はっとした。視界の中のシェルが、固まったまま呆然としている。

「右手が、右足も……、全部、動かない」

 ため込んだ嘆きが呟きとなって零れる。そしてそれは、イユの心にもじんわりと沁み込んでいくのだった。




「……こうなりますか」

 ワイズがシェルの前で考え込む。すぐにワイズを起こしたのだが、ワイズは医者ではない。原因が分かるのだろうか。

 待っていられず、床に転がって寝ていたクルトも叩き起こした。

「どういう状態なの?」

「本人の言う通り、右半身が全く動かない状態です。ただ、これだと起き上がるのもできなかったと思いますが……」

「それは、私がやったけど」

 ワイズが、「なるほど」という顔を浮かべる。さすがにこの場に来て、毒を吐く気はなかったらしく、それだけに留めた。

「……動くようになるのよね?」

 寝ぼけたクルトがようやく駆け付けてくる気配を、背後に感じながら、イユは尋ねた。

「……」

 しかし、ワイズは何とも答えない。

「ワイズ」

「分かりません。僕は医者ではありませんので」

 怪我の治療はできても、後遺症までは専門外だと言いたいらしい。

「アグルのときはリハビリで治ったから、同じことじゃないの?」

 専門外のクルトが、横から入る。話は途中からだったが、大体察したようだ。

「そうですね。僕のほうも治療は引き続き行っていきますが……」

 ワイズも分からないことが多いのだろう。

 シェルはそれを聞いて俯いている。治療する側が治ると断言できなければ、不安だろう。

「マゾンダの医者には診せられないの?」

 イユの質問に、「それも手ですね」とワイズは同意する。

「今日、早いうちにマゾンダに赴いて、医者を連れてきましょう」

 てっきり病院にシェルを連れていかなくてはならないのかと思ったが、ワイズは医者をここに呼ぶつもりらしい。こういうとき、『魔術師』権限が使えるのは有り難いとイユは感謝する。

 ところが、何が不満なのか、クルトは唸り出した。

「うーん、一回診せて、あの反応だったから、いまいち信用ならないんだけど」

 そういえば、クルトたちは以前、医者にシェルを診せたことがあるのだ。

「あのときとは状況が違います。打てる手は打ったほうがいいですよ。たとえ、相手があれでも」

 ワイズの言葉に、「それもそっか」と納得したようだ。

 イユとしても、藁に縋りたい思いである。

「皆、ごめん……。なんか、オレ……」

 らしくもなく謝るシェルの言葉を、聞きたくはなかった。

「大丈夫よ、すぐに治るわ」

 シェルの手を握ってやる。思い出したのだ。


『こうすれば、悲しいのなくなる』


 刹那がそう言って、イユの手を握ってくれたときのことを。

 どうして今、イユはそれを思い出したのだろう。同じぐらいの年の刹那とシェルとで、姿を重ねてしまったのだろうか。

 イユの胸中は複雑だ。

 刹那は裏切ったのだ。それどころか、刹那と似た外見をした者たちが、シェルをこんな風に傷つけてしまった。それなのに、何故思い出すのが、あの頃の刹那の言葉なのだろうか。

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