その5 『信じた道の先(終)』
「さてと……、そろそろ、行きましょうか」
立ち上がり、ドレスの汚れを払う。
「えぇ」
本当のことを言えば、もっと休息が欲しい。異能で自分の疲労を押さえつけながらここまできている。異能による誤魔化しはいつまでも通用しないものだ。しかしそれが分かっていても、甘えることはできなかった。長居をすればするほど見つかる可能性が増えることも、また事実だ。
時折上空を通過する偵察船をやり過ごしながら二人は進んだ。いまだに人気はない。とはいえ、全くの無人という感じもなく、人が潜んでいるような気配は絶えずする。屋根の作る影へと身を潜めながら、通路を通る。
家の中にいる人たちは実際のところ、どうなっているのだろう。兵士たちは問答無用で撃ってきたのだ。そうなると、どこか安全な場所に避難させられていると考えるのが妥当だが、ひょっとすると何人かは避難が間に合わずに残っているのかもしれない。僅かに感じる人の気配からこの都市の本来の活気が垣間見える気がして何とも言えない気持ちになった。
「そろそろ、港が近いです」
少年のささやき声にはっとした。
目の前の通路から眩しい光が零れている。せめて、その時に気付いておくべきだった。
「あんたのお仲間だけど」
港で二人はお別れだ。少女は船を探さなくてはならない。少年には仲間がいる。
「どう合流する気なの」
頭の中では、少年の行動から自分の指針を決めるつもりでいた。港で船に乗るにはどうすればいいか、自分よりも安全回りにしっかりしているようにみえるこの少年を、手本にしようというわけだ。
「港はひらけた場所ですから、遠くからでもすぐに分かるって聞いています」
しかし、返ってきた少年の内容には違和感を覚えずにはいられなかった。
遠くからでもわかる……?
「何それ? まるで、港には後から来る……みたいな」
少女たちは追われているのだ。呑気に人を待ってはいられない。
「僕も、聞いているだけでして……」
なんとも頼りない返事が返ってきた。その仲間とやらが原因か、手本も何も、いい加減さでは少女以上である。
「そんな曖昧で、よくまぁ信じられるものね」
思わず、呆れ声で呟いてしまう。とはいえ、今更怖気付いても遅い。それに見本があてにならなくても少女がしっかりしていれば何も問題はない。少年の仲間事情なんて放っておいて、さっさと船に乗り込めばいい。汽車から見た限り、港は広かった。一隻ぐらいは忍び込める船があるはずだ。
前方からの眩しい光が少女を招いている。覚悟をし、そのまままっすぐ突き進む。
後ろ姿を見ながら、少年は一人呟く。
「そうかもしれません。ですが……」
少女を見やる。
前だけをみて進む少女は、その視線には気づかない。
出会ったとき、少女は怒っていた。だから、老婆のいう人物とは別だと思ったのだ。そして、無関係な少女を巻き込みたくなくてあのような態度をとった。
ところがどういうわけだろう。手を差し伸べている少女の瞳が揺れていたのは。少年の腕を引っ張って進む少女が泣いている姿を見られまいと背中を向けているように見えたのは。錯覚だと思う。短い間だが、彼女がいかに強気な人物であるかは身に染みてわかっていたから。だが、そうだとしても、そう感じてしまった以上懸けてみたくなったのだ。
「……だから、信じることにしたんです」
そして少年も、光へと足を運ぶ。
急に、視界が開けた。あまりの眩しさに目を細める。青空一色に染め上げられた光の世界に踏み込んだような気がした。先ほどまであった家は一軒もない。白い地面が太陽の光を反射させ、その遥か先でいくつもの船が紐で繋がれている。ミニチュアのごとき小ささだがあの船のどれかにたどり着きさえすれば、安泰だ。そう思うと、まるで光輝いているかのように映る。あれはきっと、希望の明かりだ。
しかし、そこまでたどり着くための道には何もなかった。汽車から覗いたときにはあったはずだ。他の島からの積み荷や、その積み荷を運ぶための荷車、船が運んだものを日の光から守るための日よけも、それらが全て片付けられている。
「おかしいわ」
そう言うことはできた。商人たちが騒動を聞いて慌てて片付けたとしても、全く何も残っていないのはおかしいと。罠かもしれないという思いがちくりと少女の心を刺す。
しかしながら、少女は細々と広大な光の世界を進むよりなかった。今更立ち止まって来た道を戻ったところで、都市の中を逃げていてはいつか必ず捕まることを心の中でよく理解していたのだ。
背後から一陣の風が吹き付ける。
帽子が飛んで行ってしまわないように、慌てて抑えた。この港とて、空に浮いた島なのだ。島から突き出したその場所の眼下に別の島は存在せず、この港で飛ばされた暁には深い深い奈落の海へと落ちていってしまうよりほかにない。
そして、その風は同時に無数の足音を運んできた。
その音に気づいて、振り返る。風が止むのと同時にまるで待ちかまえていたかのように、先ほどまで少女たちがいた路地からわらわらと兵士たちがでてくる。異能者と龍族、たった二人を捕まえるには十分すぎるほどの人数だった。兵士はきっと待ち構えていたのだ。二人が港に出ようとしていることに気が付いていたのだ。
「まずいわね」
呟いた声が乾いていた。
兵士たちの誰もがその手に銃を抱えている。もっと少ない数であればどうにかなったかもしれない。しかしこの数は、いくら少女でも一斉に撃たれでもしたら命はない。少年でもこの数では同じことだろう。そしてここはだだっ広いだけの港だ。
光の世界? 希望の明かり? 幻想にすぎない。それはたどり着いたものにしか意味をなさない。ここでは、銃弾から身を隠せるようなものは何もない。今はただの射撃場だ。そして少女は、的だ。撃ち放題の射撃の的にしかなれない。
無意識に一歩後ずさった。それにあわせて兵士たちが一歩進んだように見えたのは、目の錯覚だろうか。
ごくりと、息を呑む。希望を求めて隣の少年を見るが、同じように息を呑み呆然と突っ立っている。とてもでないが、頼りになりそうには思えない。
兵士たちが一斉に銃を構え、銃口を向ける。動きに一切のばらつきがない。
その乱れのなさがこれほどの恐怖を募らせるものだということを初めて知った。
逃げたい。今すぐこの場から逃げ切りたい。
しかし、少女がどう思おうと、現実は非情だ。今からどのように足掻いたところで、敵に背を向けたら最後、撃たれる未来しか待っていない。
ここで、終わるのだろうかと、自問する。
蜂の巣にされて終わりの人生とはなんと情けないことか。ここで死んだら、自分で自分が許せない。
救いを求めて、辺りを見回す。本当に、何もないのだ。いるとしても、兵士だけである。後方も望んでも、目的の船が小物になっているだけだ。これらの光景から絶望が霞み見えてくる。それを必死の思いで振り払う。
生きなくては、どうにかして。生き延びなくてはならない。
自身にそう言い聞かせたそのとき、少女のいる地面が陰った。
それはあっという間の出来事だった。再び地面が明るくなったかと思うと、風がうねった。周囲に響き渡るただただ激しい音がする。少女の髪が風にかき乱され、視界に入り邪魔をする。何が何だかよくわからなかった。飛ばされそうになった帽子ごと、邪魔な髪を抑えつける。
そして、それを見た。
飛行船だ。巨大なマストを中心に添え、そこから張られた幾つもの帆が風に煽られている。偵察船とはまるで違う、大海原をかけずり回っている物語によくでてきそうな、木造の船だ。
それが、空から横滑りに兵士たちへと衝突していった。
飛行船を呆然と眺めていると、兵士たちの悲鳴に紛れて、男の声が聞こえた。こちらに向かって叫んでいる。
「リュイス、無事か!」
隣で「はい!」と叫び返す少年を見て、少女は初めて少年の名前を知った。
「早く、梯子に捕まってください!」
少年に叫ばれて、見れば、いつの間にか少女にだいぶ近づいていたその飛行船から梯子が伸びている。もともと同乗させてもらうつもりはなかった。だが、この状態でこの梯子に飛び付かない者がいるだろうか。
少年に返事をする暇すら惜しんで、その梯子へと走る。少年がすぐ横を通り過ぎる気配を感じた。兵士のわめき声と剣と銃がぶつかる音が聞こえる。今の混乱状態の中、被害を免れた兵士の何人かがこちらの妨害をしているのだろうと気付いた。少年は、それを阻止しているのだ。兵士よりも少女の方が突然の船の出現で混乱していたが、とにもかくにも必死に梯子へ食らいつく。これが生への唯一の道だ。一段一段踏み外さぬよう死に物狂いで上がる。上空で男が何やら叫んでいるが、もうよくわからない。
そうこうするうちに、体がふわっと浮く感じがして急に風が勢いを増してきた。梯子ともども何度も風に叩きつけられる。耐えながら、一心不乱に手をのばし、一段、一段上がっていく。空の光景などみている暇はないが、おそらく船が上空に退避しようとしているのだろう。
兵士のわめき声が若干小さくなってきた。少年も下のほうで梯子にしがみついているのだろうか。
「つっ!」
ちょうど伸ばそうとした手のすぐ上を銃弾が通り過ぎ、少女は息を呑んだ。
その銃弾は梯子の一部をいとも簡単にふきとばした。
少女は慌てて開いている方の手で梯子をつかむ。風の中で安定しない足場がさらに不安定になりかねない。
そして、下のわめき声に混じり、いつの間にか銃声が響いているのに気付く。命の危機を感じながらしかし、恐怖をこらえ上へと上がる。唇をきつくかみしめ、一段、一段と。
上をみると、毛むくじゃらの男が必死に手を伸ばしていた。片目は眼帯をしているが、もう片方の目はアメジストのような色をしている。その色の奥に鋭い瞳孔があるのを見て、男が少年の言っていた仲間の、レパードなのだと分かった。
そして、そう、そこまで確認できるほどに近付いた。
だが、兵士の腕は甘くはなかった。
伸ばした手を梯子にかけようとしたところで、痛覚を制御していても耐えられない『痛み』を感じた。それは背中から少女を貫き、一瞬何も感じられなくなる。
勢いで放された手を、しかし男が掴むには少し足りない。男の顔がつかみ損ねた手に唖然としており、その奥で近かったはずの青空が遠ざかっていく。
落ちていく。体が重力にしたがって真っ逆さまに落下していく。
かぶっていた帽子が下へ吸い込まれていく。
吹きつける風が少女を煽り、突き出した手が虚しく空をつかんだ。
と、その手をつかむものがあった。
「リュイス、無事か?!」
「平気……で……す」
絞り出すような声は、少女の重みに耐えている。
少女は今この瞬間が信じられなかった。
生きている……?
自身にそう問いかける。
気付けば、港は遥か下にあり、兵士だった小さな固まりが群れている。その状態で、少年の助けを借りて、なんとか梯子をつかんだのは覚えている。そして、ぼんやりとした頭でいつの間にか男の手を借りて船の中へと入り込んだらしい。