その483 『祈りの先』
リュイスがシリエの脈を診ている。
血管が僅かに浮いている、シリエの白い肌を見ながら、イユはごくりと唾を呑み込む。リュイスの言葉が待ち遠しかった。
「大丈夫です。気を失っているだけだと」
ようやく、一呼吸つけた。ふぅと、息を吐き切って、砂漠の嫌らしい空気を吸い込む。不思議と、砂っぽさが気にならなかった。
そこに、リュイスがぽつりと言うのだ。
「あの奥にいるの、アンナさんだと思いませんか?」
続けてリュイスが示した先を見て、息が詰まった。瓦礫に埋もれたすぐ先に、確かにアンナらしき特徴が垣間見える。
「アンナ! すぐ助けるから」
アンナもまた、ぴくりとも動かない。頭を庇うように蹲っているからか、記憶の中のアンナより一回り小さく見えた。それが、イユの不安を誘う。瓦礫を引きはがすように持ち上げていき、アンナのすぐ頭上に圧し掛かっていたマストもどかす。リュイスがシリエのときと同様に、アンナをそこから引っ張り出した。
「リュイス、どう……?」
アンナにも外傷らしい外傷が見えない。二人とも、大砲の隙間に埋もれる形で倒れていたからだ。だからこそ、アンナも無事であることを祈りたい。
だが、シリエと違い、頭部を覆うようにマストが圧し掛かっていた。血こそ出ていないものの、強く頭に衝撃を受けて元気でいられるとは思えなかった。
リュイスの返事を聞くのが、怖いような気がした。これで首を横にでも振られたらどうしようかと思った。おかしなことに、同時に早く答えを聞きたいと考える自身もいた。アンナは無事だというその声を、はっきりと聞いて安心したいという思いが消えなかった。
何回か呼吸を繰り返した後、リュイスはイユへとその視線をやった。
「大丈夫です。気を失っているだけのようです」
ふっと、身体から力が抜けた。膝頭にまで砂を感じる。
「頭を守るように蹲ったのが良かったんだと思います。マストの直撃を逃れていたようです」
アンナの咄嗟の判断が活きたのだろう。シリエのように運が良いか、アンナのように機転が効かなければ、きっと助からなかった。
ほっとして屈みこんだ状態のイユに、リュイスはそっと手を差し伸べる。
「あとは、シェイクスさんですね」
何気ないリュイスの一言に、イユの顔が強張った。途端に世界が色を失っていったようだった。生きていると信じてやまないリュイスのその手を、もはや掴む気にはなれない。
「シリエとアンナは無事だったわ」
イユの呟きを理解していないリュイスが、ぽかんとした顔をしているのが分かった。それでも、止められない。
「ヴェインも、レンドも無事だった」
リュイスは無邪気に「そうですね、良かったです」と答える。どこまでも遠回りなイユに、リュイスは文面をそのまま受けとるだけだ。
イユの歯が、噛みしめすぎて、ぎりっと鳴った。
「レパードも、リュイスも、……私も無事よ」
血の味がする。
「でも、シェイクスは……、そうじゃない」
そこでようやく、リュイスの瞳が揺れた。
「私を庇うみたいに、乗り掛かって、身体を貫かれていたわ」
色褪せていた世界に、色が戻ってくる。同時にその世界が滲み始めた。
「なんで、私を庇ったのよ! 同じギルドでもないのに。ましてや、私なら多少の怪我ぐらい、平気なのに!」
イユならば、異能がある。致命傷でも、その気になれば治せたのだ。だから、シェイクスのやったことは無駄だと、声高に叫んでやりたかった。できれば、船が貫かれた直前に時を戻して、そこで伝えてやりたい。そうすれば、愚かな男は、イユを助けようとはしなかっただろう。
「こんなの、あんまりよ」
イユは気が付いている。イユさえシリエたちのもとに行かなければ、シェイクスはこのような目には遭わずにすんだ。誰かを助けたいと思ったイユの思いが、逆にシェイクスという男を死へと導いたのだ。
「イユ……」
掛けるべき言葉が見つからないのか、リュイスが名前だけを呼んで固まっている。
それを感じながらも、沸き出す激情を抑えられなかった。
「私の、せいよ」
「違います」
呟いた言葉を耳聡く拾って、リュイスが否定する。
「イユを庇ったのはシェイクスさんの意思です」
「じゃあ、シェイクスの自業自得だっていうの」
選んだ言葉が、責め立てるようなものになってしまったのは、激情の捌け口を求めていたからだ。
「それも違います」
そこも、きっぱり否定されて、イユは次なる捌け口を探しに掛かる。
「それなら、誰のせいで死んだっていうのよ!」
「誰のせいでも」
リュイスの否定はあまりにもはっきりしていた。
「大蠍が僕らの乗っていた飛行船に針を撃ち込みました。そのせいで、今、僕らはここにいます。ただ、それだけです」
リュイスの淡々とした物言いは、イユを突き放しているようにも取れた。
しかし、リュイスはそういう人間ではないことを知っている。彼は人に当たるということをしない。いつでも優しく他人を慮っている。
だから、イユは冷静になった。それが、リュイスなりの優しさだと理解したからだ。今イユが欲していたものは、現実を直視した発言を、冷や水のように頭から被せられることだったのである。
「私はただ、誰にも死んでほしくなかっただけなの」
イユの吐露を、リュイスは首肯で答えた。
「難しいのは分かっていたわ。でも、認められなかった」
イユが認め、諦めてしまったら、その決意が歪む気がした。
「その思いは、間違っていないと思います」
「分かっているわ」
遮るようにイユは続けた。
「でも、悔しいのよ」
思いの強さで全てがどうにかなるほど、この世界は甘くない。だから、血が滲み出るほど、悔しいのだ。叶えられなかった自分が不甲斐ないのだ。
「おいおい、それはずるいだろ」
ヴェインの言葉はイユに向けたものではない。シェイクスの倒れている瓦礫の上に立って、ヴェインは一人、大仰に声を張ったのだ。ヴェインはどうも、シェイクスを探して瓦礫内を歩いていたようであった。
当然、起きている全員の視線を、ヴェインは受けることになる。
「見てみろよ。シェイクスの右手」
そう言いつつも、ヴェインは自分の親指をピンと立て、それ以外を閉じる。それが、シェイクスの手の形だとすぐに分かった。
そのポーズの意味、死ぬ前の最期のメッセージを、言葉として発する。
「グッドラックだとよ」
「グッドラック?」
理解していないイユに、リュイスがぽつんと答えた。
「シェイクスさんは、イユの幸せを祈ってくれたんです」
そんなものはいらないと、反射的に叫び返しそうになる。それで、シェイクスが死んだのならば、幸運など祈らなければ良かったのに、と。
「イユと何も変わりません」
ところが、リュイスの言葉に、はっとした。
「シェイクスさんの思いを汲むことも、一つの答えだと僕は思います」
終わっていないのだと思った。
誰も死んでほしくないという願いは、何もイユだけのものではない。シェイクスもまた、祈っていたのだ。だから、その思いは潰えたのではなく、むしろ、幸運を祈られる形で託されたのだ。




