その479 『(番外)謀略(アンナ編3)』
全く、どうして自分はこんなにも不甲斐ないのだろう。
アンナは心のなかで、そう自身を叱咤した。足が震えて、力が入らない。折角、フランが作ってくれた機会だというのに、身体が言うことをきかない。やることは分かっていた。フランに駆け寄り、彼を起こし、そして一緒に逃げるのだ。たった、三工程で完了する。
しかし、それだけのことが、できない。
痛みのあまりのたうち回る魔物にまで怯えている暇はないのだと、何度も心に叫ぶのだが、滲む視界は鮮明さを取り戻しはしなかった。
一方で、魔物は少しずつ冷静になっていくかのように、呻き声を小さくしていく。
視線の先にいるフランは、それを見ているはずだが、動かないままだった。恐らく、もう動けないのだろう。身体中を散々魔物に転がされた結果、骨を折られていても不思議ではない。それに、どのみち、フランの手には、武器がないのだ。戦う手段は残っていない。
魔物が怒りの瞳をフランに向けた。呻き声が、唸り声に変じていく。
フランの稼いだ時間が刻一刻と零へ近づいていくのを感じた。少しの間遠ざかったはずの死が、再びやってくる。フランの荒い息遣いが、カウントダウンのようであった。
そして、カウントダウンが零を刻む瞬間、魔物が咆哮を上げた。皮膚を針が無数に突き刺すかのような殺気が、部屋中に充満する。
魔物は顎にナイフを生やしたまま、大きく牙を剥く。二人を食い殺すことしか考えていないのだろうと分かる、狂暴な目付きだ。豪腕で床を潰すように進むと、フランへと飛びかかっていく。
「フラン!」
アンナは辛うじて、叫び声を上げた。だが、それだけだ。この期に及んでも、震えた足は立ち上がるだけの力を持たなかった。
フランが食べられる瞬間を、なすすべもなく、見守るしかないのだ。父に、母に、そして出会ったばかりの自分より年下の少年。全員の死を一通り眺めてから、自身もその仲間入りをする。あまりの無力さに、アンナは自分を呪い殺したくなった。
「女の子を背にかばうなんて随分紳士じゃないか、少年」
そのときの声が、忘れられない。力強い女の声が、からかうかのようだった。
突然の第三者の声に振り返れば、アンナと同じ赤髪の、屈強な女が立っていた。腰のベルトにはナイフをさし、片手で大きな手斧を掲げている。浅黒い肌には、挑戦的な顔が浮かんでいた。にっと笑みを深くする。
アンナの瞳には、突然現れたこの女が、輝いているかのように映った。絶望に立たされ怯え切った人間に、女の凄惨な笑みは、この場に漂う死の空気を全て覆してみせる英雄のようにすら見受けられたのだ。
そして、実際に女は、現状を覆してみせた。
アンナには次の瞬間、女が消えたように見えた。勿論、そうではない。女が魔物へと駆け寄る勇ましい足音が、アンナのすぐ横を通り抜けていく。
振り返ったアンナは、赤髪をなびかせる女の背を捉えた。自身の身の丈より遥かに大きな魔物に、怖気づく様子はまるでない。
それどころか、真っ直ぐに突き進んでくる女を見た魔物が、警戒感を露わにして、フランを襲う手を止めていた。今までは人間が魔物を警戒していた。勝てないと分かって挑むしかなかった。その力関係が、戦ってもいないのに、逆転していたのだ。
迫ってくる女に、魔物が剛腕を振るう。
母を一撫でで葬った力だ。知らず、手を強く握りしめたアンナは、しかし女に警告の声を上げることさえもできない。むしろ、余計なことを言ってしまって女の気を散らせてはならないと、頭のどこかがアンナの口を塞いだ。それが、恐怖で満足に口を開けることのできないアンナ自身への言い訳なのか、本当にそうすべき事実なのか、アンナには判断がつかなかった。
結果として、アンナの警告は必要なかった。
女は、魔物の動きが見えているかのようだった。身を低くして剛腕を避けると、ナイフを抜き取り、魔物の腹部へと向けて投げる。その動きがあまりにも洗練されていて、まるで豹のようにしなやかだ。
ナイフは魔物に命中したのだろう。腹部を守ろうと、呻きながらも背中を丸めようとする魔物の仕草から、そう判断できる。
「これで、しまいだ」
女は魔物に向かって宣言すると、魔物の顎、ナイフがささっていたところを蹴り上げた。ちょうど、魔物が背中を丸めたことで顎に刺さったままのナイフが、女の目の前に落ちてきた位置関係だ。
痛みが走ったとみえて、魔物の首が大きく上へと伸び上がる。そのために、喉元が女に晒される形になった。
狙っていたのだとしたら、女には魔物の動向が全て手に取るように分かっていたということになる。魔物は紛れもなく、翻弄されていた。
魔物に向かって、斧が一閃されていく。
横向きに倒れる魔物を見ても、アンナには暫くそれがどういうことか理解ができなかった。魔物を前に何もできないでいた時間に比べて、あまりにもあっけない幕引きだったのだ。それが、女の手腕を物語ると同時に、アンナの心に空虚と呼ぶべき穴を空けた。無力なアンナは、起き上がることさえできず、ただじっと女の様子を眺めるだけであった。
女が母の亡骸に気が付いて、生きているか確認すべく近付く。屈み込み、脈を取ろうとして、あらぬ方向に曲がった首に気が付いたようだった。
「駄目だ、死んでいるね」
そうあっさりと呟かれて、初めて自分の命が助かり、母の命が助からなかったことを意識した。
沈黙が、部屋のなかを漂っている。それは、アンナの心のなかの沸々とした感情を煮込むのに一役買った。何でもよい。何か話さなくてはならないと感じたのだ。
「母です、私の」
一方で、そんな情報を与えられたところで女は困るだろうとも思うアンナがいる。しかしながら、他に掛ける言葉は思い付かなかった。
「そうかい。それは、残念だったね」
女の言い方は至極あっさりとしていた。そこに労りは、感じられなかった。目の前の女にとって、アンナの母の死は、たくさんある人の死の一つでしかないのだろう。
そこまで考えてから、手の甲に痛みを感じた。いつの間にかアンナの右手の爪が、左手の甲に食い込んでいる。そっと両手を離したアンナは、言うべきことを言っていないことに気が付いた。
「あの、助けて下さってありがとうございます」
しかし、当の女は、アンナの礼よりも、他のものに関心をもったようである。魔物の亡骸の近くにある液体を指で掬い取ったのだ。べっとりとした透明感のある黄色い液体が、その太い指に纏わりつく。
「ん、こいつは魔物寄せの蜜じゃないかい。なんだってこんな危険なものがここに……」
女は近くに転がっている液体の入った器に気付いたようで、肩を落とした。
「こんなところに入っていても、匂いは少しずつ漏れ出る。時間が経てば、匂いを嗅ぎ付けた奴らに襲われる。魔物狩りのなかでは、常識だがね」
その言葉を聞いて、アンナの心のなかで何かがすとんと音を立てて収まった。危険な物を運ばせるなら、一言連絡があってもよい。それがなかったということは、意図的なものなのだ。両親はシェパングに貢献できることを喜んでいたが、少なくともその『魔術師』はそうは思っていなかったらしい。
だが、そのことに大して動じていないアンナがいる。魔物が液体に飛び付いた時点で薄々察していたのだ。
むしろ、女の発言に反応し余計なことを言って、女を巻き込むのは良くない。そう思ったから、女の言葉など聞こえなかったように、話を振る相手を探す。
「フラン。フランも、礼を」
ところが、そのフランからは返事がない。怪しむアンナには、女から声が掛かった。
「気絶しているよ」
身体を起こしたまま、魔物を睨み付けたままの状態である。しかし、言われてみればいつの間にか、荒い息遣いは消えていた。驚きがアンナの口から零れる。
「よほど、守りたかったと見える。大した少年だね。大事にしな」
「雇ったギルドの人間です。今日だけの付き合いです」
下手な勘違いをされている気がして、アンナははっきりと否定した。そうするうちに、アンナの思考を押さえつけていた恐怖や緊張の糸が緩んでいく。ようやく、言うべき言葉を思い出す。
「あの、私はアンナです。あなたには窮地を助けていただき感謝しています。ですが、あなたは……、どちら様ですか?」
自己紹介も満足に出来ていなかったのだ。名も知らない子供たちを、目の前の女は船に乗り込んでまで助けに来た。尤もアンナたちがいるとは知らなかったはずだ。もし知っていたら、母が或いは父がやられてしまう前に、助けに来てほしかった。
アンナは心のなかで、ごっちゃに煮込まれた自分の欲望を捻り潰す。ようやく、自分の心が料理したものに理解が及んだのだ。それは、あまりに甘過ぎる考えだった。出来る人間に何かをしてほしいと頼むときは、それだけの見返りを相手に与えるべきである。アンナは、偶然助かっただけだ。命の恩人に、我が儘を述べる権利はない。どうして助けてくれなかったのかなどとふざけた言葉を口にするぐらいなら、自分の無力さを嘆くのが先のはずである。
アンナの心の葛藤を知ってか知らでか、目の前の女は、さらりと答えた。
「あぁ、私かい? 大した者じゃないさ」
そう名乗る女の目が真っ直ぐにアンナを見ていた。ばれているとすぐに悟った。アンナの心のうちを知りつつも敢えて何もなかったように、詳しい話題に踏み込んでこないだけだ。女は、アンナが堪えていることを知って、その意思を尊重している。
「魔物狩りギルド、『スナメリ』のアダルタだよ」
それが、アンナが『スナメリ』の存在を初めて知った瞬間だった。




