その478 『(番外)縋るもの(アンナ編2)』
まさしく、悪夢だった。どうして、自分が最後なのだろうと、愕然としていた。一番足が遅くて体力のない無力な人間だ。そんな自分が最後になってしまったせいで、見たくもない人の死に様を眺めている。家族も、知り合ったばかりの人間も、魔物にしてみれば同じ御馳走で遊び道具だ。今になって、フランの言葉が蘇った。
「あなたは、好きなように生きているのですか」
生きられるわけがない。こんな状況で、好きなように生きるための選択肢などあるはずがない。『魔術師』など目指して、何になるというのだ?
「に、逃げなきゃ」
震える声で自分のやるべきことを、述べる。それが、動けなくなった自分に最も効果的なものだと知っていた。
だから、辛うじて、立ち上がる。
だが、それだけだ。これ以上は、何もする気になれなかった。分かってしまったのだ。ここから逃げたところで、何もできない。魔物がフランを食べ、母を食べたらすぐにでも駆け付けてくる。アンナには飛行船を操縦できるような知識もなければ、魔物と戦えるような力もない。いつも両親が、アンナのことを優秀な成績だと褒めてくれたのを思い出した。ここで役に立たないのならば、何のための勉学だというのだろう。
「うぅ……」
うめき声が聞こえてはっとする。前足で転がされているフランから聞こえたのだ。魔物もそれに気がついたようで、生きているのか探るように鼻面を近づける。きっと、生き物だと分かったらその口で頭からフランを食らうつもりなのだ。
魔物に背中を向けて逃げ出したいところだったが、フランが生きているのならば話は別だった。どのみち一人で生き残っても死ぬだけだ。せめて、誰かを救おうとして死にたい。それが唯一の『好きなように生きる』行為だ と思ったのだ。
だから、アンナは近くに転がっていた積み荷を投げた。それが『魔術師』から渡された手荷物だとは知っていたし、両親が大事にしていたことも知っていた。だが、ここまできたらどうせ届かない物だ。ちょうど、アンナの手でも持てる重さで、当たったら痛そうだと感じる程度の重みがあったというだけである。
だが、投げられると思ったものは、魔物には届かず、その少し手前で転がった。元々、運動は苦手な部類だ。投げて当てられるほど器用でないことも知っていた。それでも、このときばかりは当たりもしない現実に、悲鳴を上げたくなる。
何より、投げたことで魔物の関心を確実に引いてしまった。視線を魔物に向けたアンナの目と、魔物のぎろりとした黄色い目が、合う。狼の血塗れの口が嗤うように大きく開いた。
(食べられる!)
危機感が頭のなかを真っ白に染め上げる。身構えたもののどうすることもできないアンナは、自身の死の瞬間を見ていられず、目を閉じた。
咀嚼音が、聞こえる。自分が食べられているのだと、そう疑わなかった。だが、それにしては痛みを感じられない。死を目前にすると、人は痛みから解放されると聞くが、そういう状態なのだろうか。
それにしては、咀嚼音が長い。まだ、続いている。食べられているのはもしかすると、フランかもしれない。そこまで考えて、ようやく現実を直視する気になった。
「え……?」
うっすらと瞼を開けたアンナは、目の前の光景に唖然となる。魔物は、フランを食べているわけでも、アンナを食べているわけでもなかった。
アンナが投げた積み荷。そこから零れた液体を、愛おしそうに舐めているのだ。
さすがの事態に、頭がついていかなかった。逃げることさえ忘れて、魔物を観察してしまう。まるで、猫に与えるマタタビだ。酔うように、そのどろどろとした黄色の透き通った液体を魔物が舐め続けている。
一体、どういうことだろう。『魔術師』からの積み荷が、まさか好物なのだろうか。
アンナが感じたのは、助かったことの安堵ではなく、得体のしれないものを見てしまったことへの嫌な予感だった。
だが、これは千載一遇の機会と言えた。意を決したアンナはゆっくりと魔物の背後に回っていく。こうなると、魔物にぶつけず、その手前に積み荷を投げられたことは、幸運だった。魔物が液体を舐めるために、フランから距離を取っている。フランを回収する余裕があるわけだ。
尤も冷静に考えれば、フランを置いて逃げるという選択肢も再び浮び上がる。動けない人間を抱えて体力のないアンナが逃げられるわけがない。だから、一人でこの場を逃げたほうが生存率は上がるだろう。魔物が液体に夢中になっている時間を使って、甲板に出て、駄目元で助けを呼ぶのだ。アンナたちは街から街へ移動する飛行船に乗っているわけなので、偶然通りかかった飛行船が異常に気が付く可能性も零ではない。
しかし、フランが生きていると分かった手前、見過ごすことはできない。たとえ体中が恐怖で震えていても、本当にやりたいことからは逃げたくなかった。アンナは昔から負けず嫌いなのだ。勉強でも常に一番でないと自分が許せなかった。今回も、フランから言われたことがずっと引っ掛かっていて、それ故に納得のいく選択をしようとしてしまう。条件が、勉強で一位をとることから、自分が好きなように生きるということに変わっただけだ。
忍び足で、フランに近づく。フランは血だらけで酷い有り様だが、呻いていたから生きていてくれているはずだ。だが、今は静かで反応一つない。その顔は俯いており、状況が確認しづらい。
一歩一歩、慎重に近づく。
魔物の背中が揺れている。舐める動作でそう見えるのだろう。筋肉質な身体が体毛越しにもはっきりとわかる。母を一薙ぎで払った巨腕が、怖かった。
もし、アンナに力があれば、きっとこの魔物に復讐ができるのだろう。だが、アンナはあまりに無力だ。剣も持てず、持ったところで満足に振るえるかすら、分からない。口惜しさに口を歪めながらも、アンナはフランへと手を伸ばした。
復讐について考えたのがいけなかったのだろうか。そのとき、くるりと魔物の血走った眼がこちらを向いた。
アンナのなかで、時間は凍りついたようだった。
魔物の黄色い瞳に、はっきりとアンナの姿が映されている。赤毛の怯えた顔の少女は、今にも卒倒しそうだ。
同時に、魔物は魔物で、目の前でフランという獲物を取り上げようとする子供に業を煮やしたようだった。びりびりと空気が震えるような咆哮を上げると、くるりと体を捻る。
アンナに逃げる暇などは、皆無だった。真っ直ぐにアンナに向かって飛びかかってくる魔物の姿が、視界いっぱいに広がる。今度こそ、助からない。命の危機を感じたアンナは、しかし、咆哮にあてられたせいで、足に力が入らずにいる。満足に逃げることもできないまま、襲いかかる現実から目を閉じることだけで精一杯だ。
死の帳が落ちてくる予感があった。
ところが、その予感を掻き消すような悲鳴が部屋中を木霊する。驚いたことに、その悲鳴は自分のものではなかった。
「な、に……?」
涙目になっていたせいで、視界が覚束ない。何度も瞬きをすると、ようやく魔物が痛みに呻いている姿を捉える。苦しみ喘ぐ魔物の顎にナイフが生えているのを見つけた。そのナイフに見覚えがあった。他でもない、フランが持っていたもののはずだ。
そう、ナイフを投げたのは、意識がないと思っていたフランだった。アンナが伸ばした手の先に、ふらりと身体を起こす少年の姿があった。床に手をつきながらも、視線は魔物へと向いている。だから、アンナに見えるのは、後ろ姿だけだ。
それが、意外なほどに頼もしくは、残念なことに見えなかった。震えていたフランを知っていたというだけではない。フランが動けるような状態には見えなかったのだ。いつまた、ぐらりと傾いて地面に倒れてしまうか分からないと感じるほどに、その姿はぼろぼろだった。
だが、紛れもなく持っていたナイフを投擲したのは、フランだろう。そのフランのナイフが、魔物の顎を貫通したのも事実である。全く、彼のどこにそんな力が残っていたというのだろうか。
涙が中々引かないせいで、視界はいつまでも滲んだままだ。アンナはその場に崩れ落ちた。




