その477 『(番外)目指すもの(アンナ編1)』
「本当に、退学してしまうのかい?」
退学届けを押し付けられた形になった校長は、冴えない顔に戸惑いを浮かべて、その書類を眺めることもせず、アンナに不安げな視線を送っている。
「はい」
はっきりとしたアンナの答えに、自身の丸眼鏡に受け入れられない現実を映すので精一杯のようだ。肩を震わせて深緑色の革の椅子にしゃがみ込むようにして座っている。
手のなかの書類が、わなわなと震えていた。
「両親がいなくなったことで、お金のことを気にしているのならば、問題ない。君の優秀な成績ならば、補助金を使うことができる。もし生活に苦しくなったのであれば、相談してくれれば幾らでも追加で補助金を……」
「校長先生」
アンナは苛々を言葉に出さないように気を付けながらも、校長の言葉を遮った。
「私は、金に困って学び舎を辞めるわけではありません」
反対されることが目に見えているから、校長に具体的な話をすることは伏せた。それにしても、何度も送った退学届けを無視されたから、こうして直談判しに来たのだ。今更驚いた顔をされる謂れもない。むしろ、金の心配を持ち出すのであれば、ここまでの書類代を立て替えてほしいぐらいである。
「他にやりたいことができたから、その道を行くのです」
ぐしゃり。校長の手の中の書類が、歪んだ。震えた拳が、硝子テーブルの上で、僅かに影を作っている。
「それは、学びを止めてまですることなのかね。君のように若い者たちは、もう少し見識を広めてからでも、遅くはない」
遅いか遅くないかを決めるのは、それこそアンナ自身の問題だ。校長に、アンナの人生の責任が負えるとは到底思えない。
そう言ってやりたくなった心を宥めて、「はい、今すぐにやるべきことです」と答えるに留めた。
こうした問答を無駄な時間だと、校長の向かいの席に着きながら――、アンナは考えている。
最も校長側が言いたいことも、アンナには理解ができる。シェパングの学校――、学び舎は、子供に教育を受けさせたいと考えた善人からなる施設というわけではない。学び舎の本質は、シェパングの国に必要な人材の育成、愛国心を育てることにある。途中で退学されたらそれは叶わない。だからなんとしても、辞めさせたくはない。
そもそも、学び舎の校長は、シェパングから派遣された『魔術師』なのだ。
そして、学校では、シェパングは自国の民に如何に尽くしているかを語る。だから、シェパングの民は、シェパングをより豊かにするために貢献してほしいとお願いする。
アンナの両親も、そうした思想に強く共感した人たちだった。円卓の朋の一人、『魔術師』の人間に、大事な積み荷を運ぶよう頼まれたということで、舞い上がって大喜びしていたものだ。挙げ句の果てに、言いつけどおり飛行船に乗ってしまって、あの様だ。アンナもそれに乗ったわけだが、生まれてはじめて乗った飛行船での思い出は、おかげさまで、最悪の一言に尽きた。
「明里。杏奈を連れて奥に逃げるんだ」
母の名前を呼ぶ父の姿は、今でも記憶に鮮明に残っている。深緑色のマントが動きに合わせてなびいていて、そのときだけはいつも人が良いだけの父に、勇ましさを感じたのだ。
場所は小型飛行船の、廊下だった。目の前には、慣れない剣を構える父がいて、その奥には、口から涎を垂らした大きな狼がいる。黄色く濁った眼をしていて、黒い体毛からは父の持つ剣と同じくらいの長さの赤黒い爪が伸びている。体毛と同じ色の翼は折り畳まれていたが、天井に擦っていた。生まれてはじめて見たが、すぐに魔物だと分かる。おぞましい姿であった。
「ですが……!」
母は目尻に涙を浮かべて、拒絶しようとする。当然だ。雇ったはずの護衛ギルドの人間は、甲板にいたはずだ。それが、やってこない。さぼったなら腹を立てるところだが、そうでないことは魔物の血濡れた牙を見れば十分に察せられた。戦のプロですら防げないような狂暴な魔物がこの船を運悪く襲ったのだと、理解していたのだ。そして、そんな魔物を前に、剣をろくに握ったことのない人間が突っ込んでいったらどうなるかも、言うまでもなく予想できていた。
「早く行け! フラン、二人を頼む!」
だが、父は居残ることを選んだ。他でもない家族のためにだ。
「は、はい!」
フランと呼ばれた少年が、母とアンナの手を引こうとした。アンナより幼い鴬色の髪の細身の少年で、アンナ以上にかたかたと魔物を見て震えている。父と比べても存外、頼りない。この少年は今回の護衛ギルドに、新入りということでついてきた。そして、あろうことか仲間に邪魔だからと言われ、アンナたちと同じように、部屋で待機をしていたのだった。
年が近いのだ。アンナも一度声を掛けはした。だから、彼が孤児で行き場がないからギルドに志願したことは聞いている。シェパングならば孤児院があるが、他国は全員が全員、孤児院には入れないのだそうだ。運が悪かったフランは危険な魔物狩りギルドに入り、嫌々魔物と戦うらしい。
「嫌なら止めればいいじゃない。ギルドなんて他にもたくさんあるでしょう」
と聞いたのは、純粋な好奇心でだ。
ところが、そのときのフランは、こう言い切った。
「自分の能力からいって、そんな選択肢はありませんよ、期待するだけ無駄です」
全くおかしなことを言うものだ。その気になれば、フランは好きなギルドに入れるはずである。魔物を狩らなくても、住み込みでどこかの飛行船に乗せてもらって、航海の仕方の一つでも覚えられれば良いのだ。雑用係を欲しがるギルドも、探せばあるだろう。
そう思ってしまったから、アンナには、フランの発言は、いじけているようにしか聞こえなかった。
「あなた、卑屈なのね。つまらないわ」
断言するアンナに、フランは、
「それでは、あなたは、好きなように生きているのですか」
と尋ね返す。
「自由があるなんて、自分には羨ましい話です。よほどあらゆることに恵まれていらっしゃる」
アンナは、胸を張った。フランの発言を、皮肉だとも嫌みだとも捉えず、正直に言えば気にもしていなかった。だから、断言したのである。
「当然よ。私は好きなだけ勉強をして、『魔術師』を目指すんだから」
冗談ではない。ここで死んでしまったら、目指すも何も、ないのだ。
アンナは当時を振り返ったことで、いつのまにか地面と一体になっていた足が動くようになったことに気が付いた。
「早く!」
フランが叫んでいる声が耳に入る。
とにかく、頼りないフランが、父の言葉に従って、歯をがちがちと鳴らしながら、二人の手を引こうとしている。その事実が、アンナの震えを不思議と収めさせた。
母もまた、それを見て冷静になったようだった。抱えていた『魔術師』からの積み荷、それは重たい割にはちょうど脇に抱えられるほどの大きさだった――、を抱え直し、アンナの手をしっかりと握って、走り出す。
「こっちです!」
それでも、気になってしまうのだろう。後ろ髪をひかれる思いで、何度も振り返る母の姿があった。
そんな彼女を幾度も叱咤しながら、フランは走っていく。アンナも大人しくついていきながら、しかし心のどこかで分かっていた。
この先は行き止まりだ。魔物が父を食べたら、すぐにアンナたちを襲ってくる。父が庇ったところで、食べられるのが遅いか早いかの違いでしかないのだ。
「どうして、こんなことに」
母は悔しそうに呟いた。だが、答えは出ないのだろう。運命とやらを幾ら呪っても、悲しいほどに現実は変わらないのを知って、目元を拭った。
「あと少しだから、杏奈も頑張って」
アンナには返事をする余裕はない。元々体力はないほうなのだ。廊下を走るだけで息が上がってしまっている。
そうこうするうちに、フランが行き止まり、最奥の部屋に辿り着いた。すかさず扉を開け、「さぁ、入って!」と声を掛ける。
それに従って部屋に入った二人は、崩れ落ちるようにその場で荒い息をついた。
「何か、重いものを!」
扉を押さえるフランの声に、はっとした。一足早く息を整えた母が、動き出す気配を感じる。息がすっかり上がったアンナには、動けるような余裕はない。部屋の様子を視界に入れるのでやっとだった。
狭くて、薄暗い部屋だった。ハンモックが揺られ、天井の明かりが鈍く光っている。ハンモックの近くには、荷解きをしなかったのだろう、荷物がたくさん詰められたままの鞄が転がっている。ここは、フランが使っていた部屋なのだ。
それにしても、驚くほど質素だった。魔物を防ぐほどの重さになるものがあるとは到底思えない。
アンナは、母がハンモックとは反対側にあった、戸棚を運ぼうとしているのを見つけた。だが、それは船の揺れに耐えられるよう、壁に固定されているようである。とてもでないが、動きそうには見えなかった。
ふいに、鈍い音が扉から響いた。
「ひっ」
引き攣った声を上げたのが誰だったかは、分からない。
次の瞬間、扉が薄い板のようにはじけ飛ぶ。扉を押さえていたフランを、当然のように、巻き込んだ。
「フラン!」
母の悲鳴が響き渡る。遅れて、地面に叩きつけられた際の、骨の折れる嫌な音がした。
ぎろり。フランに駆けつけようとしたアンナは視線を感じて、立ち止まる。
部屋の向こう側から、魔物の黄色の瞳が覗いていた。
身体が大きすぎてすぐに部屋に入ってこられないことが唯一の救いだった。だが、扉を一回で破った魔物だ。木造船の壁など簡単に壊していく。おまけに、扉の先に獲物を見つけた魔物は、壁にぶつかることを止めない。何度かぶつかる度、衝撃で船が揺れ、壁の一部が吹き飛んでいく。魔物が通れるようになるまで、大して時間はかからなかった。
アンナは魔物の牙に、緑色の服の切れ端がついていることを確認する。それが何を示すかは一目瞭然だ。慣れない剣を振るうのは、やはり無理があったのだろう。やりきれず、胸を抑えた。
魔物は、獲物の三人が戦えないことを知っているのかもしれない。扉があった場所を少し屈んで入ると、ゆっくりとした足取りで、残りの距離を詰めてくる。
そうして、そのまま飛ばされた扉の下敷きになっているフランを踏み倒した。
くぐもった悲鳴が、漏れ聞こえる。
「やめて!」
慌てて駆け寄った母が、次の瞬間、魔物の前足で払われる。薙ぎ飛ばされた母が、視界いっぱいに映る。
そこで感じたのは、衝撃だった。意識が飛ぶ。背中に痛みを感じたところで、ずっしりと腹部に重さを感じた。呻きながらも、目を開けて確認した。
アンナと同じ赤色の髪が、目の前に広がっている。感じていたそれは、母の重みだったのだ。
「お母さん?」
呼びかけるが、返事はない。脈を取ろうと腕を握ったところで、首があらぬ方向を向いていることに気がついてしまった。
たった一回飛ばされただけだ。それだけで、母はこうも容易く、自分のもとを去ってしまったのである。
衝撃に震えている暇はなかった。このままでは、母の亡骸ごと食べられる。
そうした危機感から、アンナは母を脇にやり、逃げ出そうとした。そこに、魔物の唸り声が振りかかる。
見上げたアンナの目に飛び込んできたのは、魔物がフランを見つけ、その体を転がしている姿だった。彼に覆いかぶさっていたはずの扉が近くで転がっているのを見るに、魔物がやったのだろう。扉の下に人間がいたことに気が付いたのだ。生死を確認しているつもりなのかもしれないが、少年を転がしている様は、遊んでいるようにさえみえた。




