その476 『大蠍と砲弾』
「リュイス、大丈夫か!」
ふらふらとよろめくリュイスには、レパードが一足早く駆けつけた。
イユまで駆けつけたところで、あまり意味はないだろう。そう判断し、大砲近くのマストまで戻ったイユは、再び船外へと意識をやる。
リュイスの呼び起こした風もまた、役目を終えたとばかりに以前までの勢いを失っていた。吹き付ける風が弱まり、代わりに頬にねっとりとした熱を感じ始める。空は晴れ渡り、太陽がはっきりと顔を覗かせていた。ぎらぎらと輝く太陽には、先ほどのような神々しさは微塵もない。代わりに全てを熱で溶かさんとする悪意すら見え隠れしている。
風が完全に消え、乾燥した空気に全身を包まれたところで、はっきりと思い出す。ここは、灼熱の砂漠地帯であった。
砂嵐がやんだとしても、大蠍に逃げるつもりはないらしい。剥き出しになった黒光りする巨体を震わせて、その尾から針が射出される。
真っ直ぐに飛んでくるそれを見てか、通信機器からヴェインの声が掛かった。
「撃って、撃って、撃ちまくれよ!」
「「はい!」」
シリエとアンナが、元気に返事をする。
シリエが装填した弾を、アンナが狙いを定めて放つ。安定しない船の上、額に汗を浮かべながらも、その動きは洗練されている。日頃の訓練の成果が現れているだろうことが、素人のイユでさえはっきりと分かった。
爆音が耳を貫き、船が小刻みに振動する。大砲が弧を描くように、飛んでいく。それは、ちょうど針にぶつかり、黒煙を撒き散らす。そして、次の瞬間、船がかくんと揺れた。前のめりに落ちるように、地面へと突っ込んでいく。
「ちょっと!」
大慌てでマストを掴まなかったら投げ飛ばされていたかもしれない。魔法を使ったばかりでへろへろなリュイスなど、レパードが支えなければ飛んでいっていたところだろう。
だが、その動きが必要なことであることは、ここ数回の急な動きで思い知っている。案の定、視界が一段陰った。それは一瞬のことだったから、イユが上空を見たときには、既に数秒遅かった。ぎらついた太陽を阻むものは、いなくなっている。
仲間の振り返る気配に合わせて首を動かしたところで、ようやく船の後方へと飛んでいく針を見つけた。針は、何もない青空に向かって突き進んでいくようだ。
だが、いつまでも針の行方を追っている余裕はなかった。続けてやってくる横向きのGに、イユは必死になって船にしがみついた。続けざまに感じる風圧が、船を狙って飛んでくる針だということが分かる。連発されているのだ。それを、ヴェインが舵を切ることでどうにか避けている状況である。
砂嵐がなくなったことでスナメリは大砲を撃ちやすくなったかもしれないが、大蠍もまた狙いを定めやすくなったのではないか。そのような不安が頭を掠めた。
右に、左に、上に、下へと、煽られるように動く船に、イユはしがみつく以外のことができない。息を吸うことすら危うかった。そんな中で、爆音が響き渡る。耳元で聞こえる大音量から、すぐに分かる。驚いたことに、この状況下で、シリエとアンナの手が止まっていない。弾の装填も、狙いを定めて撃つことも、平らな地面でさえ相当の難易度だろう。というのも、大砲は真っ直ぐには飛ばない。風向きに風量に、温度に、天候に、あらゆる条件に左右される。そして、この場ではその全てが覆っているのだ。イユはその難易度を、実を言うと微塵も理解していなかったが、彼女たちの腕の良さだけはその動きから感じ取ることができた。ヴェインの言うとおりに撃ちまくり、おまけにそれなりの命中精度を保っているのだ。スナメリの大砲は、ただの人間が大型魔物を倒すための、真に強力な武器であり、それを扱う人間は選ばれた存在なのだと思わされる。
イユの視界がどうにか空を捉えると、スナメリの他の飛行船もまた、大砲を撃っている様子が垣間見えた。飛行船の数に、そこから放たれる多量の砲弾。まさしく、集中砲火である。
彼らの的になった大蠍は、果たしてどのような状態なのだろう。
大蠍を探そうとしたところで、イユの視界、その正面に大蠍のシルエットが映った。飛行船は、針の攻撃を大きく迂回することで避けた後、最も敵の見える位置、大蠍の目の前へと立ち戻ったのだ。
しかし、大蠍の様子ははっきりと確認できなかった。次から次へと撃ち込まれる大砲が、その姿を砂埃のなかに隠してしまっていて、ぼやけた輪郭しか認知できないのだ。
(また、無傷じゃないでしょうね?)
言葉にするにはあまりにおぞましい想像は、口の中に留めるに限る。
半ば願いながら、スナメリの大砲を撃つ音を聞き続ける。そのとき、がたんと目の前の大蠍の輪郭が揺れた。
「あっ!」
イユの声は大砲の音に掻き消された。
大蠍の輪郭が崩れていく。それと同時に砂煙から大蠍の身体が飛び出していく。黒かったはずの身体は、砂色の体液に埋もれている。高く掲げている鋏は、凹んでいた。
確実に、大砲が効いていたのだ。
イユは、安堵の、ため息をつく。これでまだ無傷であったら、砂嵐を払った甲斐がない。それどころか、勝ち筋が全く見えなくなるところだ。
やがて、砲弾を雨やあられのごとく浴びせられた大蠍から、鋏が落ちていく。それを眺めながら、これで終わったのだと漠然と感じていた。
少なくとも、イユたちの出番はもうない。スナメリが最後の最後まで、大砲という名前の物量で圧して掛かるのをただ見ているだけだ。
この後どうしようかとまで考える。大蠍は倒したが、あの派手なリュイスの魔法では、風の魔法石だと言い張ることはもうできないだろう。レンドのお墨付きもあり、シリエたちは魔法のことを黙って見過ごしてくれそうだったが、他はそう上手くいかない。たとえば、スナメリでなくともマゾンダの街の住民が偶然遠くからスナメリと大蠍の戦いを目撃していたら、まず噂になる。そして、噂からリュイスたちに辿り着く可能性は零ではない。
そうなると、下手に腕の立つギルドが大勢いる街に居続けることは得策ではない。フェンドリックは事情を知っているからジェシカにイユたちを取り押さえろとは言わない。だが、街の人々が噂をしているのに全く動かないわけにもいかないだろう。
マゾンダには、なるべくいないほうが良い。レパードの言っていた、合流地点とやらに行くほうが良さそうだ。そう、結論付ける。
そして、その結論はすぐにそれどころではなくなった。
イユはこのとき間違いなく能天気だった。大蠍という脅威を前にして、未来のことを考える余裕があった。いつしか、大蠍の針の攻撃はなくなり、危機感が薄れていたのだ。
ひょっとすると、イユは忘れていたのかもしれない。この世界がどれほど無情で過酷な場所なのかということを。勿論、意識はしていたはずだ。異能者施設にいた頃も、セーレが燃えてしまったときも、血を吐くような絶望を、感じていた。
だというのに、自分の手から離れたことで、足を掬われた。
余裕は油断に変じたのだ。
そして、油断はいとも簡単に、人の命を刈り取っていく――――。




