その460 『死へと誘う救いの手』
「哀れ哉」
意識を失うブライトを見下ろして、克望はぽつりと呟いた。
克望の隣には、赤いドレスを着た桃色の髪を結った女、ベルガモットの姿がある。まつ毛の長い赤い瞳は、娘を連想させるほどに似ているが、よく見ると、娘に比べて切れ長で、鋭い。同時に、尖った顎や痩せこけた頬からも、きつめの印象を人に与える。
扇でぱたぱたと煽ぎながらも、その唇に冷笑が浮かんでいるのを見て、薄ら寒い思いがした。
「魔術書はなかったのだな?」
克望の確認に、女は首を縦に振った。
克望は、小さく舌打ちする。使えない女め。そんな声が僅かに漏れた。記憶を読むのは、気が進まないのだ。克望の手の内には何十人もの待ち人がいる。一人あたりに掛かる手間を思えば、ぞっとするよりない。
(たとえ、数人は抗輝に送るとしてもだ)
忌々しい男を思い浮かべて、ぐっと唇を噛みしめる。あの男がいなければ、こんなことをしなくとも良かった。全てを覆されたのは、あの男の野心のせいだ。
「約束は違えぬな?」
ベルガモットがそう書き綴った紙を、克望に見せた。赤い切れ長の瞳が、探るように克望を見ている。この女は、疑心暗鬼の塊なだけではなく、意外と抜け目がない。扇には、いくつもの法陣が描かれていて、手出しされないよう用心を重ねている。伊達にアイリオールの魔女を裏から操っていたわけではない。それを克望は知っている。ブライトの記憶を視ただろうに、魔術書の在り処を自ら口にしないのはそのせいだ。紙で書けることなど、幾らでも欺けることを知っている。
それでも、紙を読み上げた克望は、ほくそ笑む。
「勿論だとも。心配せずとも、娘に裏切られた可哀想な母親には行くところを用意してある」
それを聞いたベルガモットは、非常に満足そうな顔をした。倒れる娘の近くで愉悦に浸る女の気分を想像して、克望は吐き気を覚える。
どちらが裏切ったのか明白だというのに、この女の理屈では逆になるのだ。
(哀れ哉)
今度は口に出さずに、心の中でその思いを呟いた。
克望が最も嫌う相手、それが今目の前にいる女のような醜い存在だった。可能であれば、克望が手助けをしたいのはブライトで、裏切りたいのはベルガモットである。正直にいうと、女の顔をみるたびに胃がむかむかとした。それほどに、嫌悪していた。
「刹那」
吐き出した言葉に、刹那は反応した。瞬く間だった。
あっという間に、ベルガモットが持っていた扇がばらばらの紙片になって地面に落ちた。法陣など完成させる暇もない。
喉元に当てられたナイフを見て、ベルガモットがようやく顔色を変える。事実を理解するのが、一拍遅かった。克望を見て、助けを求めるような顔をした。
(その顔を、貴様がするのか)
思わず出そうになった言葉を押し留め、代わりに別の言葉を投げる。
「何故、我に殺されなくてはならないのか、という顔だな」
女の喉にナイフが刺さる。その瞬間を想像しながら、克望は続ける。
「むしろ、何故助かると思った? 貴様が亡命したところで、我々には何の利点もない」
話をつけるのは容易かった。はじめから、この女はブライトが何をしでかすつもりか大方読んでいた。だから、アイリオール家は、ブライトによって滅ぼされると恐れていた。それは、事実だ。ブライトの目的は、アイリオール家の終焉である。
しかし、そこに母の命はあったのだ。ブライトについていけば、少なくとも殺されることはなかった。それだけの計算は、されていた。だが、この女は娘を信用しなかった。だから、克望が、ブライトを差し出さないかといったとき、簡単に頷いたのだろう。受け取った手紙を見て、驚いたのは克望のほうだ。逆に裏がないかと思ったのである。
ベルガモットの顔色を見て、何が言いたいかを悟る。克望は、「あぁ」と頷いた。
「そうとも。我らはとんでもない裏切り者だ」
あとは、克望が頷くだけでよかった。都合の良い式神は、いとも簡単にベルガモットの命を刈り取るだろう。
ところが、その瞬間、刹那はナイフをその手から離した。
ナイフが床に落ちる音が響く。ぎょっとしたのは克望だけではなかった。そこにいるはずのない者を見て、ベルガモットの瞳が、大きく見開かれる。
「退くがよい、シェパングの者よ」
よく通る、少年の声だった。
はっと振り返った克望は、ブライトが倒れたままになっている扉の前に、金髪の少年が立っているのを見た。年齢は十三歳だったか。シェイレスタでは大人の儀を終えたばかりの、幼さを残した顔だ。利発そうでありながら、どこか腕白さを感じさせた。赤茶色の瞳で、きりっと克望を睨んでいる。
克望も何回か会ったことがある。国のトップ同士の会談の席で、幼さを感じさせないやり取りに何度辛酸を舐めたことかは分からない。そう、目の前にいたのは、シェイレスタの国王、エドワードだった。
エドワードの周囲には、付き人と思われる男たちがいて、克望が何かしでかそうものならすぐにでも締め上げると言わんばかりの顔つきをしている。
「国賊と一緒にいるということは、いらぬ疑いを掛けられることになるだろう」
明朗と、エドワードは告げた。
「たとえ貴殿がアイリオールの国賊を捕らえるつもりでここに立ち寄ったとしても、シェイレスタの貴族区域に許可なく入り込んだことになる。大人しく退くことをお勧めしよう」
さも知らない人であるように語っているが、エドワードも克望のことは覚えているだろう。敢えて知らぬ存ぜぬで通してやるといわれているのだ。そうしなければ、シェイレスタとシェパングの間で問題が起きる。お前はそれを望んでいないはずだと、この強かな国王は告げているのである。
(ふっ、まさか国王直々とはな)
完敗だ。ここまで手を回されてしまっては、もうブライトを捕らえることはできない。克望がブライトを手中に収めたほうが、ブライトの命だけは助かったかもしれない。だが、余計な女を殺すのに気を向けた克望自身の失態だ。
(それに比べて……)
感心するように克望はエドワードを見つめ返した。
(若いくせに、意外と気骨のある)
以前から思っていたことだ。抗輝のような野蛮さとはまた違う。エドワードには、王としての器が見える。このような人物がシェパングにいればよかったのにと、克望は内心で溜息をつき、そっと手を挙げた。
「そうさせていただこう、寛容なシェイレスタの『魔術師』殿」
克望は克望で、エドワード国王とブライトの屋敷で会った事実は伏せると約束する。
「お送りしろ」
国王直下の者らしい、付き人の一人がそう指示を出した。
「さて」
大人しく立ち去っていく克望を見送って、エドワードが視線をベルガモットに移す。ごくりとベルガモットの喉が鳴った。
(黙ってブライトの言う通りに動いていれば、安泰だったというのに)
余計なことに手をだしたものだと、エドワードは呆れた。
克望を引き入れ揉め事を起こされたせいで、エドワードは部下をたくさん連れて直接赴くことになってしまった。お忍びだったらよかったのだ。どうにか手配できた。しかし、エドワードの部下にはいろいろな派閥が入り乱れている。ここで、ベルガモットだけを無罪にはできまい。
「娘を屋敷で庇っているとは、情にほだされたか、愚かな女よ」
ベルガモットは首を横に振っている。それもそうだろう。情があれば、裏切りなどしない。
「捕えろ。こいつも厳罰の対象だ」
ベルガモットが、必死にブライトを指さした。否、ブライトではない。ブライトに施された法陣だ。エドワードには、ベルガモットが何を言いたいか、それだけで分かった。
(私は娘を庇ったわけではなく、逆に捕らえていたのです)
と言ったところだろうか。
だが、言葉の発せられないベルガモットに、誰も何も言わなかった。エドワードの配下に紛れている、ブライト派の者たちは、既にブライトが手を打ってしまっていて、僅かしかいない。その者たちも、指名手配と聞いて、擁護できるほどの立場にはない。また、ここにいる大半は、ワイズ派やフェンドリック家に連ねる者たち、それ以外の少数貴族たちである。ここで、娘が手を打ったことがしっぺ返しのように返ってきているのだから、皮肉である。
ベルガモットが瞬く間に、男たちに捕まる。必死に声を発しようと赤い顔をしているが、誰も気にも留めない。わざとだ。気づいていないことにすれば、愚かな女として処罰できる。
「陛下。こちらの指名手配犯は」
自身の『手』に声を掛けられ、エドワードは初めてブライトを見下ろした。桃色の髪の少女が、床の上で倒れている。ぴくりともしないのは、死んでいるのではなく法陣が起動したままだからだ。最も意識もないだろう。動けたら、何が何でもベルガモットを救おうとしたはずだ。
ブライトはエドワードに、自分の生き残る手段は手に入れてくると言っていた。だが、この事態は本当にブライトの想定内だろうか? と、エドワードは考える。
ベルガモットが連れていかれるのを目の前に見ながら、内心溜息をついた。
あり得まい。ブライトは、ベルガモットを第一優先に考える。つまり、この事態は想定されていない。ブライトの処刑は免れないのだから、彼女はこのままいけば間違いなく死ぬだろう。
それを悪名高いアイリオールの魔女の因果応報、自業自得の結果だと一部の者は言うだろう。結局、こうなってしまった。エドワードは苦汁を舐めたような顔をした。この女は本当は初めはこうするつもりだったのだ。だから、引き留めたかったのに、力不足で何もできなかった。
「連れていけ。シェイレスタの大恥だ。大々的に処刑を執り行う」
せめて、ブライトの思う通りにその命を使うしかないのだろう。
一杯食わされたような気持ちで、エドワードは皆に命令した。




