その459 『裏切りの味』
(全く領土なんてあげるから……、なんて言い出したら昔の人間に愚痴らないといけないしねぇ)
シェイレスタの興りは、新天地に逃げ出したことに端を発する。そこで純民や貴族たちに褒美を与えたことで、今までの労苦を労った。右腕となってエルヴィスを支えたアイリオール家はシェイレスタの都の半分を統括し、フランドリック家にはマゾンダの地を与えた。最もマゾンダに行かせたのは体の良い厄介払いだろう。エルヴィスは自国を裏切ったフランドリック家を信じていなかったに違いない。マゾンダは当時、死の土地と呼ばれるほどに過酷な状況にあったと聞くからだ。
何はともあれ、二大貴族に領土という報酬を与えたから、領土を『魔術師』に与えるという慣習がこのときに根付いた。アイリオール家がイクシウスでは地位の低い貴族だったこともあって、他の『魔術師』にも何らかの土地の贈与が必要になったのだ。それに、砂漠の地ではあったものの、シェイレスタは広かった。そして暮らしてみて分かったのは、魔法石が取れる鉱山が眠っているということだった。だから、エルヴィスは他の貴族にも報酬を分け与えた。
つまり、国を興したときから、そういう風習が出来上がってしまったのだから、今更反論してみたところで誰も納得しないのだ。
(さてと)
何度か法陣を描きながら、ようやく廊下の端へとたどり着いた。あとは階段を登るだけだ。人の気配が全く感じられない。それを実感しながら、音を立てないように、慎重に上がっていく。
(せめて、克望みたいに自国のために働く『異能者』を作ればいいんだよ)
音を立てないように最大限の注意を払いながらも、ブライトの頭はいつも別のことを考えている。並列して同時の物事を考えられるというよりは、ぽんぽんと思考が移り変わりやすい。それでも体に言いつけたことはきちんと動作するのだから、ブライトは自分自身を褒めてやりたい。きっと心を読める『異能者』がいたら、ブライトを見て当惑することだろう。
(ただ、それをやっちゃうと、『魔術師』がいるんだよなぁ)
克望は暗示には掛かっていないはずだ。他の『魔術師』の力を感じない。それで自国のために働くのだから、本当はシェイレスタも暗示ではない別のやり方を模索すべきなのだろう。しかし、今のシェイレスタは暗示頼みだ。増え続ける『異能者』に対して、『魔術師』の数は限られている。全員への暗示は到底間に合わない。そのうえ、『魔術師』は自分の手足になる『異能者』は求める傾向にあるが、自国に役立つ『異能者』を重用することには抵抗する。自分たちの存在意義がなくなると思っているのだろう。シェパングを見習えと言ってやりたい。
そんなことを考えているうちに、踊り場へとたどり着いた。折り返し地点だ。耳を澄ますが、音は静かなままだ。
法陣を刻んでから、残りの階段を上がり始める。
(さすがに、妙かも)
下の階ならともかく、廊下の音が一切聞こえないとなると、怪しすぎる。警戒感を強くするが、ここで退き返すという選択肢はない。気を付けながら進む。それしか手はないだろう。
(それ以外に、打てる手といえば……)
念のため、法陣を服に刻んでおいた。折角の服がこれで台無しだが、そんなことはいっていられない。
段を一段ずつ慎重に上がっていく。ブライトの目にも、廊下が見えてきた。いつもは何気なく歩いている廊下が、今日はやたらと遠くに感じる。こんなに時間をかけて歩いたのは、足を骨折したとき以来だ。
最後の一段を上がりきってから慎重に、廊下の様子を窺った。
(やっぱり、いない?)
そんなはずはない。だが、ブライトを探す間に廊下の角を曲がった可能性は高い。
忍び足でゆっくりと廊下に進み出る。光の当たり具合が大きく異なるから、法陣も続けて描いた。
ブライトの視線の先に、母の部屋が見えた。先ほど出ていったときから何も変わった様子は見られない。扉が開けられていたら、既に刹那が中に入った後だったろうが、そうではないので少しだけ安心した。とはいえ、まだ安心しきるところまではいかない。母の顔を拝むまでは、到底安堵はできない。
扉までの距離を一歩、一歩、最大の警戒心を持って進む。足音を立てないよう、極力気を配る。
そうしてたどり着いた扉の前で、ブライトは思わず深呼吸した。部屋の中が安全か確認したい。だが、ドアノブを回す音が知られたら、気配のないはずの刹那に悟られてしまうかもしれないとの不安があったからだ。
そうはいっても、刹那に見つかっていないうちに合流が必要だ。早く中に入って、母に事情を説明し、可能であれば法陣で罠を張って、刹那たちが入ってきたら逆に襲い掛かるぐらいの手立ては打っておきたい。
ブライトはノブをくるりと回した。音を立てないように、ゆっくりと扉を引いていく。
その先で、きらりと何かが光った。
「っ!」
言い様もない恐怖を感じて、ブライトは反射的に一歩下がる。その隣を何かが通り過ぎた。
「やっぱり、ここに来た」
背後に感じた気配と同時に、ブライトの背に何かがぺたっと当てられる。
「あぅ」
身体に感じた衝撃に、足の力が抜けていく。立っていられなくなったブライトの身体が、床に沈んだ。
「今度は囲んでいるから、逃げられない」
ブライトの真上で、刹那が蒼い瞳で見下ろしている。
(なんで……)
ブライトの視線は、刹那を通り過ぎて、その先にいた母と克望に向いている。克望は、腕を組んで、母の隣で悠然と立っていた。母は、扇を手にして仰いでいる。きらりと光った何かは、母の鉄扇の光だ。ブライトは彼女に左目をその扇で叩かれそうになったのだ。
動揺する心とは別に、思考がどんどん鈍っていく。
ブライトの身体を取り囲むように用意されていた法陣が鈍い色で光っていた。ブライトも相手の心を読むときによく使う、体の動きを縛る法陣だった。どうりで、指すらも動かすことができないはずだ。服に描いた法陣が、発動に至らず空しく淡い光を放っている。
「貴様は何故と思うだろうが」
克望が口元を歪ませながら、ブライトの心を読むように告げた。
「ベルガモット殿とは、文通仲間よ。貴様の裏切りに気が付いて、よく相談を受けていた」
裏切り……?
あり得ない単語に、理解が追いつかない。
そもそも、そんなことは絶対に起こり得ない。何故なら、ブライトの心はそうならないように……。
「暗示があっても、人の心の中を全て操作することはできまい」
その言葉に、ブライトはがつんと頭を殴られた。暗示だけではない。ブライトの記憶も逐一確認されている。それなのに、まだ、疑心暗鬼に満ちた母の心を晴らすには、足りないというのだろうか。
口惜しさに、視界が滲んだ。背中に当てられたのは、最初と同じ眠りの札なのだろう。まんまと、克望の手の中に落ちていく。それが分かっていて、しかしもうどうしようもない。
刹那がブライトを見下ろして、呟いた。
「おやすみ」
刹那の手が、ブライトに覆い被さっていく。視界から光を取り除くように。
次に目が覚めたら、きっと克望に記憶を覗かれるのだろうと分かっていた。母がブライトに掛けた暗示を解かれ、ブライトには別の暗示を施される可能性も大きかった。
魔術書の在り処を、母は口頭では伝えない代わりにブライトを差し出した。母はブライトを売って何かを得るはずだ。それがせめて、彼女に幸せをもたらしてくれるものであると良い。
冷たい手の感触を瞼に感じる。希望のない闇へと、突き進んだ気がした。




