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カルタータ  作者: 希矢
第八章 『手繰り寄せて』
457/994

その457 『逃走の終わり』

(どこに、逃げる?)

 ブライトは自問する。歪む視界に文句を言っている時間はない。刹那ならばすぐに追いついてくる。式神が欲しかったが、今はそれどころではない。

 欲張ることができないと分かったら、すぐにその選択肢は捨てるべきだ。何事も引き際が肝心である。

 そういう意味で言えば、ブライトには既に決断を誤った自覚があった。初めから克望を狙わず、遠くへ逃げ出せばよかったのだ。

 だが、そんなことを後悔している暇はない。

 歯を食いしばり、腕へと少しずつ法陣を足していく。素肌は既に使い物にならないため、手袋に描いている。法陣も白チョークなせいで同じ色の手袋では目立たないが、皺ぐらいは入る。

 しかし、既に切り刻まれた腕の上に書くのだから、安定して描けるわけがない。

 何とか歪まないようにして描ききった頃には、刹那は克望を飛び越えて、ブライトのすぐ背後まで迫ってきている。

(芸がないのは、百も承知だけど!)

 すかさず口のなかで、呪文を唱える。

分かれよ(ディスパーション)!」

 複製した法陣はすぐにでも使う。走っているのだから当然だ。

「いっけぇ!」

 掛け声は、ブラフだった。攻撃魔術でも使うような勢いで叫べば、刹那が警戒してくれるだろうと思ったわけだ。実際、人でないにしてはあまりに、刹那は思慮深い。

 それがうまくいったかどうか確かめる余裕もなく、ブライトの身体は闇へと吸い込まれた。

(本日二回目!)

 ぐにゃりと歪んだ身体が、外へとはじき出される感覚を味わう。見ると、先ほどまで遠くにあった行き止まりがすぐ近くに迫っていた。後ろから、再び刹那の走る音が聞こえる。見えない範囲に飛べたらよかったのだが、まだそれほど方向性を操作できていない。

 近くにあった扉を開け放つと、すぐに入り込んだ。

(借りるよ!)

 誰かがいればよかったが、お手伝いは殆ど返してしまっている。母が、召し使いをあまり信用していないせいだ。召し使いに夫を奪われたのだから気持ちはわかるが、今はそれが仇となって助けも呼べない。

 だから、この部屋も無人だった。開いているだけで、見事なまでに誰も利用していない。茶色の丸テーブルに、埃が積もっているほどだ。

 すかさずテーブルにかじりつくと、法陣を描き進める。指が、埃を吸い取るように、線を描いていく。

「いた」

 刹那のぽつりと呟いた言葉に、はっとした。先ほど入ったばかりの扉の前に、既に刹那の姿がある。その手にナイフが構えられている。

 呪文を唱えている時間もない。大慌てで、法陣を発動したブライトの目の前で、刹那の投げたナイフが大きくなっていった。距離を稼ぐために、投擲されたのだ。




 次の瞬間、ブライトの視界が真っ暗になり、廊下に立ち戻っていた。

(間に合った?)

 当たっていたなら、今頃左目辺りを失っていただろう。痛みを感じないことを察して、すかさずもう一度魔術を放つ。自分の腕に描いたままだった法陣だ。

 一回の距離は大したことがなくても、連続であれば、話は別だ。しかも相手は狭い部屋に入った後だから、廊下にいたときと違い、一回目の魔術でもすぐには見つからない。

 廊下に戻ったために、克望に見られている可能性はあるが、式神と克望とが四六時中テレパシーができるような間柄でないことは知っている。あれは、克望が初めに下した命令に対して動くのだ。

 どのみち、克望が叫んでブライトの居場所を教えたとしても、二回目の居場所まではわかるまい。


 ぐにゃりと歪んだ視界の先に、真っ暗な闇があった。

 暗い倉庫で、動悸のする身体を必死に抑えながら、ブライトは荒い息をついた。音でばれるかもしれないと思うほど、息が乱れていた。早く落ち着かなくては、頭の中をがんがんと鳴り続ける鐘のような頭痛から逃れられそうにない。

 息を整えながら、これ以上気持ち悪くならないようにと、顔を上に向ける。そうして背中に壁をくっつけて、同時に耳を聳てた。

 二回分の転送の距離だ。しらみつぶしに探せば、刹那にはあっという間に見つかるはずである。そこまで考えて、今まで全く至っていなかったことに気がついた。


(あたし以外の人間に会ったら、刹那はどうする?)


 ぞわりと、今更ながら寒気が走った。自分のことに必死で、その可能性を頭から外していたことを、激しく後悔する。これでは、ブライトの優先順位に反している。

 召し使いは、ほぼいない。しかし、この屋敷には、ブライトの母、ベルガモットがいる。ブライトがうまく隠れおおせたとすると、刹那が屋敷中を探してしまい、偶然彼女を見つけてしまうことは十分考えられた。

 そうなると、母の身が危ない。彼女も魔術は使えるし、そのために部屋にはたくさんの法陣が用意されているが、刹那の素早さの前で、母が満足に魔術を放てるとは思えなかった。

(行くしかないかな)

 頭のなかでなるべく淡々とやるべきことを紡いだが、ブライトの身体はここに来てはじめて震えていた。あってはならないことだった。常に頭のなかにあるはずの存在と、現状を結びつけて考えられていなかった。これでは、娘失格だ。

 ブライトは徐に立ち上がった。乱れた息に構う暇は残っていない。

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