その453 『瀬戸際の謀略』
「アイリオール家に泥を塗るつもりか」
悲しい哉、ブライトの力不足が否めない。やはり指名手配は不味かったのだろう。そこから、明らかに空気が変わった。それでも多少は期待してくれていたのかもしれない。一通りの報告が終わるまでは、大人しいものだった。
報告が終わったとわかった途端、紙が乱暴に投げつけられる。一緒になって、ペンまで飛んできて、ブライトの手の甲に当たった。手袋越しとはいえ、魔術で切りつけた箇所に当たったので、地味に痛みを感じる。そして、先ほどの内容の書かれた紙が、床に転がったわけだ。書かれた内容を見たブライトの、地雷を踏み抜いたと気付いた心境を想像してみてほしい。
「これは、エドワード国王のご意志です」
悩んだ末、当たり障りのない発言をした。だが、間違っても嘘は言っていない。それに、ブライト自身については無理でも、母の身の安全と今以上の生活はエド本人に取り付けてある。ワイズが跡を継ぐ形になるのは、母には堪えがたい出来事かもしれないが――――、あぁ、駄目だ。考えてはいけない。
ブライトは首を横に振って、思考を切り替えた。
そうだ、もっと楽しいことを考えよう。折角戻ってきたのだ。やりたいことをやってしまいたい。
始めに浮かんだのは、やはり自分の部屋だった。苦労して手に入れた魔術書が本棚にところ狭しと並んでいる。あれをまた読みたい。そうして、散らかして自分の『手』に怒られるのだ。
それからお風呂だ。旅のなかでは中々入れなかったから、恋しい。シェイレスタは、砂漠なのに立派な地下都市があるから、水が豊富だ。一応これでも貴族の屋敷に住んでいるから、贅沢して大きな湯船に飛び込むこともできる。それに、『特別区域』があるから、水の運搬には全く困らない。
そこまで考えて、顔が強張った。気づかないようにしていたのに、誤魔化しきれなくなってしまう。もう、ブライトは戻れないのだ。セラは死に、特別区域では『異能者』が心すらも奪われて酷使されている。自分の部屋にも、お風呂にも、昔の何も知らない気持ちのままでいることはできない。彼らは、犠牲者だ。そして、ブライトもまた、そちら側の人間に成り代わった。
「何事にも犠牲は付き物です。あたしは、出来得る範囲内で最善の道を選んだものと確信しております」
やはり、理解はされないのか、一言こう書かれた。
「裏切り者」
あぁ、胸が痛いなぁ。と、努めて、頭のなかだけは呑気を装って考える。
一番聞きたくない言葉であった。
だが、ブライトは裏切っているとは思わない。
これが、ブライトの最善であり、唯一の道だった。脈打つ心臓に、落ち着けと言い聞かせる。ここで自分の心を制御できなければ、『魔術師』は名乗れまい。
「確実に言えることは」
歯を食いしばって、母のいる寝台を見つめた。
「あたしは、家族を何よりも優先するということです」
寝台の向こう側はしんとしている。何を思っているのかは、窺い知れない。
「何故なら、あたしは、家族を愛しているからです」
だから、そのための道を進んだ。この国が滅びないように手を打った。母の病が治るように、手を尽くした。母の心労と弟の立場を少しでも良くするために、この手で奮闘した。
そのために邪魔になったのは、他でもない自分の存在だった。アイリオール家の跡取り候補。ブライトが天才と謳われていなければ、古い慣習がもう少し凝り固まってくれていたら、きっと跡取りは何をせずともワイズになっていた。そうしたら、ワイズは何も苦労せず、幸せな人生を築けただろう。
だがそうなると、母は納得せず、怒りのあまり自死を選んだかもしれない。
ブライトは、母にも死んでほしくはなかった。当時は顔も知らない弟を助ける気など、微塵もなかった。
だから、頑張ってしまった。生きていくのに必死で、男尊女卑を信奉する『魔術師』の口を封じていった。
気づけば、天才と持て囃され、或いは畏怖され、魔女と罵られ、そして、話が拗れた。
アイリオールの名を女に継がせてもよいのではないか。そんな声が、広がってしまった。
勿論、反対意見はたくさんでた。だから、厄介だった。アイリオール家を影から支えていた下級の貴族たちが、ブライト派、ワイズ派に分かれていった。気づけば、彼らは対立し、シェイレスタという国を揺るがすほどの大きな派閥争いになった。それが、アイリオールのお家騒動だ。せめて、二大貴族の片割れであるフランドリック家がしっかりしてくれていれば良かったが、当主が女しかいない以上、現状は覆らない。
しかし、ブライトに言わせれば、シェイレスタは、内輪揉めをしている場合ではなかったのだ。国内が荒れている間に、シェパングやイクシウスが、虎視眈々とシェイレスタを狙っていた。ギルドでさえ、和平を訴えながら、少しずつシェイレスタの情報を横流ししている。それどころか、シェイレスタが揺らいでいる隙をついて、腐敗した貴族の一部は自国の民を売っているなどという話も持ち上がっていた。
このままでは、シェイレスタが滅びるのも時間の問題だった。これが、一般の純民ならまだしも、二大貴族となると、勝手に国など滅びればよいとは言えない。国の滅亡はそのまま自分たちの死に繋がりかねないからだ。だから、ブライトは危機感を抱いていた。
(でも、お家騒動の原因はあたしなわけで、何だか、はっちゃかめっちゃかって感じなんだよねぇ)
事態はどうにも簡単に解決といかない。それなのに、シェイレスタにいる貴族の大半は、ブライトの危機感の百分の一も持っていない。そんななか、唯一意気投合したのが、国王だったのだから、分からないものだ。
「魔術書はどうした?」
投げ渡されたメモに、ブライトの意識は引き戻り、同時に違和感を持った。ブライトの成したことに細かく指示を出すのは、いつものとおりだ。だが、「裏切り者」と罵られた後にくる言葉とは思えない。ブライトの言葉を受け入れたとみて、良いのだろうか?
「然るべき場所に」
濁したブライトに、それ以上の追及はなかった。
「記憶を」
代わりに、毎度のことながらの要求が突きつけられる。
「はい」
大人しく頷きながら、ブライトは自分の地面に法陣を描いた。いつものことだ。口頭で報告したあと、報告内容に間違いがないか、記憶を読まれることで、チェックを受けることになっている。
結局のところ、信用されていな――――、ブライトはふっとため息をついて、法陣を起動させた。
動けなくなったブライトの前に、垂れ幕の間から、するりと白い手が伸びる。傷一つない美しい手には、赤いマニキュアの塗られた爪が光っている。
「何故、魔術書を盗んだ」
そう書かれた紙が視界の端に映った。ブライトに投げつけようとして、止めたものらしい。
(そうしないと、抑止力にならなかったから、かな)
声が出ないから、頭の中で回答した。
噂さえ残ってくれれば良かったのだ。昔、愚かな『魔術師』がいて、彼女はあろうことか、ダンタリオンから魔術書を盗んだと。他の誰もが解読できない魔術書だったけれど、その『魔術師』は指折りつきの天才だったから、その魔術書を読み解いて、後世のために解説書をつけたらしいと。
彼女は当然のように指名手配犯として処刑されたが、その場所は自国のシェイレスタだった。どうやら、イクシウスからシェイレスタまでは自力で逃げ、その先で捕まったらしいのだ。
だが、処刑はされたものの、盗んだはずの魔術書はついに見つからなかった。
人々はシェイレスタがこっそり魔術書を入手したのではないかと訝しむ。それもそうだろう。そもそも、その愚かな女が魔術書を唐突に盗み出したこと自体、不自然だ。いくら知識に貪欲だったとしても、他人のものを盗むことは許されない。ましてやその相手が、大国イクシウスならば、尚更だ。
しかも、シェイレスタにとって、その女の存在は厄介だった。『魔術師』同士の争いの種であり、女の存在を認めてしまったら、シェイレスタにとっての価値観が覆りかねないほどの問題児だったのである。
だから、シェイレスタは自分にとって不都合な存在を、最も利益をもたらす形で処理したのである。体のいい厄介払いとは、まさにこのことだ。
問題は、その盗まれた魔術書に何が書かれていたか、だ。強かなシェイレスタの考えることだから、ただの魔術書で済まないことは想像に容易い。だからこそ、人々は思うのだ。魔術書にはそれはそれは恐ろしい内容が記されていたに違いないと。実際、盗まれた魔術書はカルタータと書かれていたわけで、詳しい人がそれを見れば、『大いなる力』と結びつけて考える。
しかし、シェイレスタが魔術書を抱えている証拠は何もない。指名手配犯を庇い立てするのであればまだしも、まさか失われた魔術書一冊のために戦争は起こせない。
(サロウが余計なことを言うか、心配?もちろん、手は打ってあるからね)
自分の頭に沸いた疑問を、自分で処理する。
サロウが魔術書の中身を言及することはできない。彼が魔術書を危険でないものだと周囲に告げることは、盗まれた魔術書に関わっていたと自白するようなものだ。それに、盗まれた責任をレイドワース家になすりつけておけば、サロウはサロウで、美味しい蜜を吸える立場にある。
だが、それだけではない。人はサロウを売国奴と罵るかもしれないが、サロウはシェイレスタに魔術書をプレゼントすることで、戦争を回避した立役者でもあるのだ。そう、見方によっては、善悪など簡単に覆る。
冷たい感触が、身体のなかに入ってきて、ぶるりとブライトは身体を震わせた。
(頭を空っぽにしなきゃ)
イユに伝えたアドバイスを、実践する。そうしないと、何度も気絶してしまい、母の手を煩わせることになる。今回は、いつもと違い離れていた日数が長いのだ。全てを確認するとなれば、慣れているブライトでも気を失いかねない。
(どのみち、これも今日で最後なんだから)
痛みが身体を突き抜けて、慌てて頭の中を空っぽにすることをより意識した。




