その440 『砂漠に零れた灯火』
「もっておいき」
老婆は、そう言ってオイルをワイズの手に握らせた。そこに、治してもらった恩こそあれ、怒りはない。
「治療してもらったんなら、正当な対価さ」
ワイズは少し戸惑った顔をしていた。罵倒でもされると思っていたのだろうか。
「物々交換というわけですか」
「それが、イグオールの流儀さ」
老婆は更にもうひとつ、オイルの入った小瓶を追加した。
「坊やはシェイレスタの人間らしくなく、歴史に詳しいようだね」
その言葉に、ワイズの顔が少し強ばった気がした。
「何を試したつもりか分からないけれど、わざとそんな名乗り方をしたんだろう?」
イユには、ワイズがよく分からない。だが、老婆にはワイズの考えがお見通しのようだ。
「私たちはね、確かに、伝承を守り、受け継ぐ一族さ」
それは初めて聞くイグオールの民の情報だ。恐らく、ワイズは既に知っている話なのだろう。
「だけどね。憎しみは受け継がない。憎しみは連鎖するだけ苦しくなるだけだからね。だから、坊やに罰を与えることはできないよ」
「……何のお話でしょうか?」
ワイズは強ばった顔のまま、とぼけてみせた。
「さぁ、何の話だろうねぇ?」
とぼけ返す老婆は、きっと一つ上手だ。
「……で、誰が『あなたたちが普段から負ってくる怪我に比べれば、全く大したことのないレベルですよ』、だ?」
レパードが背に抱えているのは、ワイズだ。意識がなく、運ばれるがままになっている。
あの後、すぐにワイズは倒れたのだった。卒倒したのは、上手だと思われた老婆だ。想像以上にワイズに負担を掛けたと思われて、おまけして、ラクダのミルクまで貰ってしまった。それどころか、ラダの元へ戻ろうとするイユたちに付き添おうとまでするので、断るのに苦労したほどだ。
「絶対、こいつ。馬鹿よ」
はっきりと断言すると、レパードが「お前が言うか」という顔を向けてきた。解せない。
「あんたたち、大丈夫か?」
声がする方を見やれば、集落の入り口で出会った青年が歩いてくるところだった。ワイズを背負っている姿を見て、心配して、やってきたのかもしれない。青年の隣には、チェチカもいて、眠っているワイズに近づいて、
「客人、倒れたのか?」
などと聞いている。
「大丈夫だ、見張りはいいのか?」
レパードの言葉に、青年が頷く。
「交代の時間だ。問題ない」
青年は、長銃を所持していない。役目を交代したのだろう。
「集落の仲間が、粗相をしたか?」
チェチカが、レパードの背にいるワイズに視線を向けた。自分の案内が中途半端だったのがまずかったのだろうかと、その顔が心配している。
イユは、益々頭を抱えたくなった。
「まさか。皆、親切だった」
レパードが、三人を代表して、首を横に振った。「またな」と声を掛ける。
「おう、またな!」
笑みを浮かべて返すのは、チェチカである。レパードの言葉を聞いて、ほっとしたのだろう。
「また来いよ」
青年も朗らかに挨拶を返した。
「お世話になったわ」
イユもイユなりに礼を言って、レパードに続く。
青年は少しほっとした顔をして、手を振り返してくる。チェチカは、元気一杯に手を振っていた。
ワイズの話では、シェイレスタに追い出された不幸な遊牧民という印象だったが、その姿はとても温かい人々だと、思わずにいられない。
(心配かけさせてるんじゃないわよ、全く)
レパードの背中にいるワイズを軽く睨みつけると、イユはレパードを追い越して、飛行船へと向かった。この手いっぱいの貰い物を、待っている皆に見せたくなったのだ。
飛行船の元に戻ると、ラダが飛行船を下りて船体を確認しているところだった。
「ラダ、今帰ったわ」
イユの言葉に振り返ったラダは、「こちらも殆ど終わったところだよ」と返す。そうして、飛行船を見上げた。
一緒になって見上げたイユは、「あっ!」と声を上げる。そこに見慣れた翠色の髪が映ったからだ。
「リュイス!目が覚めたのね」
イユの言葉に答えるように、ひょっこりと顔を覗かせる。翠色の瞳が夜空に反射して、きらきらと光っていた。
「イユ、先に行くな!重いんだからそろそろ交代してくれ」
情けない声に振り返ると、レパードの姿がようやく見えてきたところだった。レパードの腕の怪我は治っていない。治すのはこちらが先だろうと、ついつい思いつつ、イユは慌ててラダに荷物を明け渡す。
「貰ってきたの」
「これは、結構な量だね。急ぎでないのなら、今日はここで野宿コースかな」
「正解よ。追いかける先が分からなくなってしまったから、一旦相談もしたいの」
宿を取って寝るという選択肢は、魅力的だったが控えることに決めていた。ただでさえ、『龍族』に『異能者』に『魔術師』という組み合わせなのだ。万が一『龍族』の耳でも見られてしまったら、厄介だ。彼らが親切だと分かったからこそ、絶対に見られてはいけないと感じる。
イユは身を翻すと、すぐにレパードのところに戻った。
「忘れていたわ」
「忘れるな」
文句を言いつつも、背中のワイズを渡される。そのレパードの腕からじんわりと黒いシミが出てきているのを見て、少し反省した。
「傷、また開いたのね」
「……さすがに動きすぎたな」
レパードもまた、自分の腕を確かめるように上着を羽織り直す。
レパードと隣に並び、再び飛行船までの距離を歩く。ラダが飛行船から下りてきたリュイスに、荷物を明け渡し、焚き火になりそうな木を集めようと去っていくところだった。
「……木も貰ってこればよかったな」
レパードの反省に、「大丈夫よ」とイユは明るく返す。
「意外とこの辺りには木も生えているもの。乾燥もしているし、どうにかなるでしょう」
夜でも白い砂に、黒々とした木々は見つけやすい。きっと大丈夫だろう。
ふと、同じだと思いたいなと、願った。
何故ならば、イユにとって、この広い世界は、未知の領域だ。一つ歩けば真っ暗闇で、それはある意味、見渡した先全てが砂である砂漠と何も変わらない。だが、同時に拾い集めるものは、焚き火のように、あたたかな火を生む。遊牧民たちの優しさは、イユの心にも灯火を与えてくれた。
だからこそ、一度この手から零れ落ちたものも、同じように赤く燃えて欲しかった。




