その438 『イグオールの遊牧民』
「なんで、わざわざ戻って……?」
思わず口にしたイユに、青年は頷いた。
「おかしい。だから、覚えていた」
確かに、おかしい。傾いた塔に忘れ物をして取りに戻ったという仮説を考えてみたが、しっくりこなかった。それなら、イユたちが傾いた塔に戻る飛行船と出くわしていてもおかしくない。そうなると、彼らは自国に帰る振りをして、シェイレスタに向かった。その方がまだ理解できた。だが、何のために?
「黒船に乗り込んだのは、誰だったの?」
「子供と男だった。遠目だったが、俺は目が良い。間違いない」
青年の断言に、イユは唸る。独特の装束だったと付け足されて、間違いないように感じた。刹那と克望だろう。
「シェイレスタのどこに向かったのかしら」
青年は、「そこまでは知らない」と答えた。方角しか見ていないのだから、それもそうだろう。
(実は、セーレの皆はシェパングではなくて、シェイレスタにいる?克望はそれを知られたくなくて、一旦普通に帰る振りをした?)
イユに考えられる可能性はそれぐらいだ。
だがそうなると、未知のシェパングでなくて良かったと思うべきなのか、シェイレスタのどこを探せば良いか皆目検討がつかないことに嘆くべきなのか、よく分からない。
「ありがとうな。とても参考になった」
レパードが一先ず青年にお礼を言う間も、イユはいろいろ考えるのに忙しかった。
「可能であれば、食糧や水をいただけますか」
ワイズの言葉に、青年は悩んだ顔をする。
「駄目とは言わない。集落には入れてやる。だが、我がイグオールの民は頼ってくるだけの余所者を嫌う。何かあっても自己責任だ」
レパードがそれに頷く。
「分かった。大して持ってはいないが、多少手持ちはある」
「金が全てではない。むしろ、金の価値は低い」
意外な言葉に、きょとんとする。
「通貨は三角館にいかないと交換できない。だから、別段有り難くもない。だから、金で払うなら量がいる」
青年の解説を、イユなりに解釈した。要するにここでは、物価が高いということだろう。
「あぁ、分かった」
レパードの頷きにこくりと青年が頷く。イユたちの前で一歩退いて、道を譲る所作で迎えた。
「では、ようこそ」
そのとき、パカパカと砂の上を歩く聞き慣れない足音が、イユの耳に届いた。
音の出処を探そうとするイユより先に、青年がくるりと首を曲げて声を上げる。
「チェチカ。ラクダを連れ出す時間ではない」
蒼い髪の可愛らしい顔立ちの少女が、青年の顔の真横から生えた。
続けて、キャメル色の魔物さながらの生き物が、青年の横からにょきっと顔を出した。
衝撃に、心臓が飛び跳ねる。
思わずむせながらも、不思議な生き物が少女を乗せているのだと、気がついた。
「でも、ラピーシアは歩きたいって」
チェチカと呼ばれた少女が、むむっと頬を膨らます。浅黒い肌のせいで大人びて見えたが、言い方からして見た目よりもずっと幼いのだろう。
少女を乗せた生き物は、少女の言い分に頷くように首をゆすってから、目を閉じた。とても眠そうな顔をしている。とてもでないが、歩きたそうには見えなかった。
「あれは、ラクダですね」
イユがどうせ物を知らないと思ってか、ワイズが聞かれてもいないのに説明する。
イユはラクダと呼ばれた生き物に釘付けになりながらも、辛うじて頷いた。
青年と話をする間に、チェチカとラクダは移動して、イユたちの前に立つ形になっている。だから、ラクダとチェチカがイユからもよく見えた。
ラクダは、初めて見る生き物だった。キャメル色の体毛も変わってはいるが、何より目を引くのは少女の前後に盛り上がったコブである。何が詰まっているのだろう。許されるのなら触ってみたい気もした。
「ラピーシアは我慢強いだけだ。チェチカの我儘に付き合っている」
「そんなことない。ラピーシアは客人に興味があるもん」
イユがラクダを凝視している間にも、青年とチェチカの問答は続いている。ラクダが「ヴァルル……」と何とも不満足そうな声で鳴く。
「ラピーシアは、客人を案内する」
チェチカはそう断言すると、「ついてきて」とイユたちを振り返った。やれやれと、青年が呆れた声を出している。
「すまない、付き合ってくれ。どうせテントまでいけばすぐに飽きる」
「客人、こっち!」
ラクダに乗ったチェチカについて歩く。チェチカは、風に吹かれて気持ちよさそうにしているが、ラクダのラピーシアの方は、面倒そうに体を揺すって歩いている。青年の言う通り、本当に嫌がっているかもしれない。
その青年はというと、心配そうにイユたちの様子を覗いていた。最もイユが目を凝らしてようやく見える距離にいるから、青年にはもうイユたちの表情は見えないだろう。
そんなにチェチカが粗相をしないか気になるなら、帰りにでも、案内の感想を述べてやろう。そう判断して、イユはくるりと向き直る。
「ここ、チェチカの家」
指を指された先をみると、小さなテントがあった。こうして近づいてみると、黒色の生地は、やはり布ではないようだ。布よりはずっとしっかりしているなぁと思っていると、イユの視線に気がついたチェチカが答えを告げた。
「ラクダの毛のテント。珍しいか?」
意外な言葉に、イユは驚いた。
「ラクダの毛?!」
チェチカが今乗っている生き物の毛とは、中々衝撃だ。
しかし、チェチカは「そんなに驚くようなことか?」と、不思議そうな顔である。
「あ!」
生地をもっとよく確認しようと近づいたイユに、チェチカはストップをかけた。
「客人は、入るのだめ。プライバシーな」
それなら案内するなと思ったが、チェチカは満足な様子で揺られている。これで達成感が得られるらしい。
「あ!ラピーシア、ご飯食べない!」
チェチカの悲鳴のような声の先で、長い首を砂地に近づけたラピーシアが、草を前に咀嚼しだした。口は黙っていても頻繁に動いていたが、食べ物を前にすると余計に止まらないらしい。美味しそうに目を細めて反芻している。
「美味しいのかしら」
集落のなかには、他にも似たような草が生えている。それを目にして、妙に気になってしまった。
「食うなよ」
レパードの注意に、イユはむむっと頬を膨らませた。そうしてから、目の前のチェチカとあまり変わらない所作であることに気がついてしまう。
慌てて表情を戻して、素知らぬ顔で歩きだした。
「あ!客人、その先のテントから、マーケットな!」
まだ動かないラピーシアの横を通りすぎると、慌てたようにチェチカが告げた。
「楽しめよ!」
とりあえず歓迎はしてくれたようだと解釈して、チェチカには手を振っておく。レパードもワイズもそういうことには気が付かないから、イユが代わりに対応だ。
その間に、レパードがイユの横を通りすぎて、目の前のテントに入ろうとした。
「……これは、ノックとかはなさそうだが」
一同の先頭に立っていながら、その場に固まっている。勝手に入って良いのか躊躇している様子である。イユならば気にせず入っていたが、レパードはそういうところは気にするようだ。しかし、そうした判断のできそうなチェチカは、ラピーシアの相手に忙しい。振り返ってその様子を確認したレパードは、やれやれと扉に向き直った。
「声を掛ければ良いんじゃないかしら?」
「まぁ、そうだな」
イユの提案通りにして、レパードが中に入っていく。イユも続いた。
テントの中は、意外なほどに涼しく、そして明るかった。
(恐るべし、ラクダの毛)
果たしてそれが原因かは分からなかったが、遮光性も完璧だった。その証拠に外からは全く分からなかった、ぼんやりと漂う蜜柑色の明かりが、天井からぶらぶらと揺れている。その向こうから伸びた影が、騒がしく動いていた。
どこか独特の葉の香が、影のいる奥から漂ってくる。
導かれるようにイユたちが進むと、垂れ幕が通せんぼをするようにぶら下がっていた。そこから喧噪が漏れ聞こえてくる。垂れ布をめくって進むと、途端に音が溢れた。
軽快な民族音楽。時折加わる手拍子に、男の歌声が力強く響き渡る。その音が運ぶのは、夕闇に冷えゆく乾燥した風だ。砂埃が地面を舞っているのをみて、再び外に出たのだと気がつく。
だがそこには、喧騒があった。棚の前に商品を並べた男たちが、声を張る。仕事終わりなのか楽しそうな笑みを浮かべて道を歩く数人の青年たちもいる。青年の一人が、棚の上の商品を手にとって購入する。
(外から見る限りだと、寂れているようにしか思えなかったのに……)
意外なほどに賑やかで、そして活気があることに、目を丸くした。
レパードが近くにあった店に立ち寄る。
棚に置かれた商品を見て、イユは唸った。見た限り、パンのような生地に見えるが、どれも薄い。色も白っぽく、固そうで、ところどころ焦げている。見たことのない食べ物だった。
「これは、何て食べ物だ?」
レパードも知らないらしく、店主に質問をする。
店主は、人の好さそうな笑みを浮かべた。髭の濃い、毛むくじゃらの細身の男で、浅黒い肌に橙色の衣装を羽織っている。入れ墨が、毛むくじゃらの隙間から覗いていたが、隠れているせいで、何の形かまでは分からない。
「ホブズだよ」
聞き慣れない響きに、イユは首を傾ける。
「美味しいの?」
店主は、盛大に頷いた。
「もちろんだとも。何か挟んで食べると絶品だ」
そこまで断言されて気にならないといえば嘘になる。
「レパード」
ねだったつもりはないのだが、レパードが呆れ顔に変わった。
「こいつは幾らだ?」
「1個で100ゴールドだ」
その値段にレパードがむせる。イユも目を丸くした。りんごが6個以上買えてしまう。先ほどの見張りの青年も高いとは言っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
「そんなにするのか」
店主は悪びれた様子もなく、頷いた。
「ここでは、お金の価値はそんなに高くない。三角館ぐらいでしか使えないからな」
流暢な店主の発言に、イユは考える。お金の価値が高くない理由が、三角館でしか利用できないからというのは先ほどの青年が言っていたことと合致する。だから、遊牧民同士で口裏を合わせでもしない限り、嘘は言っていないのだろう。
「それなら、ここの人たちはどうやってやり取りをしているの?」
あるはずだ。お金が使えないのならば、それ以外の方法で彼らは何かをやり取りしているとみるべきだろう。
「物々交換さ」
店主の言葉に、レパードが「マジか」と呟いた。その呟きを敏感に聞き取って、店主が意見を述べる。
「何も驚くようなことはない。欲しいものを自分の出せるものと交換するというのは、通貨という仲介が入らない分、シンプルで実に合理的だ」
根っからの考え方が違うのだろう。レパードがどう反応すべきか困った顔をしている。店主の言葉に、理解が到底及んでいないのだろう。
「でしたら、お金ではなくこちらで賄えませんか」
ワイズが鞄から取り出したものをみて、店主の顔つきが変わった。
「これは、絆創膏か」
ワイズが差し出したのは、念のためにと持ってきた絆創膏の類だ。実際には、やれ止血だ、やれ大怪我だと、イユたちの怪我が想定以上に深刻だったため、絆創膏の出番は、逆の意味でなかった。軽傷の類は、重傷の傷を治す際、一緒に治ってしまったのもある。
「正直にいうと、ラクダやらヤギやらを飼っていると、子供たちが擦り傷ばかり作ってくるものだ。だから、私には非常に有用だ」
ワイズがにこりと笑った。
「決まり、ですね」
店主も頷く。
「あぁ。いただこう」




