その435 『上空より』
カチャっという音とともに、スライドされていく窓ガラスを見て、イユは目を丸くした。
「この船、カバーがついているのね!」
これならば、風で互いの声が聞こえにくいということもなく、鳥がぶつかってきても問題はない。目を輝かすイユに、ラダはきょとんとした。
「いや、普通だろう?」
「恵まれているから、そういう感想がでるのよ!」
叫ぶイユに同調しているのは、同じ経験を共にした二人だ。
「よく分からないが、離陸するよ」
ところが、ラダには全く伝わらなかったらしい。不思議そうな顔をされただけで、カチャカチャと機器を弄り始める。
ラダとレパードの間にある、飛行石の組み込まれた飛行機関が熱を持ち始める。それに気付いたイユはすぐに自席に座り直した。乗り出していると、砂漠の暑さに加えて余計な熱を浴びることになると気付いたからだ。
声の届く範囲になったからか、ワイズが「ほら」と言わんばかりに寄越してきた。
「ハンカチと鏡です。今のうちにあちこち拭き取っておいてください。このままイグオールに下りると、騒ぎになりますから」
そんなに酷い有り様なのだろうか。渋々受け取ったイユは、鏡に映る自分を見て、ぎょっとなった。
イユがあちこち拭き取っている間に、飛行船は無事離陸する。あまりにも安定した動きだが、ラダの腕が良いのか飛行船が良いのかは、イユには判断がつかなかった。
「それで、簡潔に聞こうか」
「あぁ」
前方の二人は、会話を始めている。ラダと別れてから多くのことがあったから、簡潔にと言われても長くなりそうだ。
「それにしても、あなたたちとあの人はどういう関係なのですか?仲間にしては、他の人たちと違ってサバサバしていますが」
ワイズが不思議そうに聞いてくる。
「ラダは、仲間よ。ただ、ブライトに暗示を掛けられた疑いがあって、本人は迷惑を掛けたくないからって、船を去ったの」
簡潔にまとめるとしたら、こういう説明になるだろう。
「なるほど。ここでも、姉さんが絡んでくるわけですか」
「……そうね」
ワイズには嬉しくない話だったかもしれない。そう思ってから、普通に会話をしていることに妙な違和感を感じた。
「それより、ワイズは大丈夫なの?砂漠で倒れたのはリュイスと一緒でしょう?」
ワイズは水筒をみせた。
「遠慮なくいただいていますから。塩も用意してありましたし、驚くぐらい準備がよいですね、彼は」
珍しく人を誉めるので、目を剥いた。
「……やっぱり、どこか悪いんじゃない?」
「どういう意味で言ってます?」
一瞬剣呑な雰囲気が立ち込める。目を反らすように、イユは前方の会話に耳を傾けた。
「……なるほど。察するに、姉弟で派閥が違うとかだろうね。『魔術師』は、大方そういう下らないことで揉める人種だ」
こちらもこちらで、ワイズの話に移っているようだ。本人が後部座席に座っているからか、ふたりは小声でやり取りをしている。最もイユには異能があるので、聞き取れないということはない。
「どう思う?」
「利用すればいい。ついでに、僕も診てもらうべきかな。完全に信用できるわけじゃないが、貴重な意見は聞けるだろう」
レパードがラダの意見を聞いている。ラダは相変わらず合理的だ。
「だがまずは、そんなことよりも、イグオールの集落にいるかもしれない『魔術師』が気になるかな」
なんとなく会話が重く、イユは自分の身体に視線をおとした。皮膚にこびりついた血は、殆んど拭き取った。削られて捲れた肌も今は嘘のように元通りだ。だが、服についてはそうはいかない。男たちが何となくイユの外見を酷いとしか描画しなかったことに、今になって気がつく。
「……糸と針、ないかしら」
耳聡くイユの言葉を聞いていたワイズが呆れた声を出した。
「まさかこの揺れの中、縫おうとしています?」
そのまさかだったので、「駄目なの?」と聞き返す。
「できるのであればお好きにどうぞ。ただ、どのみちもうすぐ夕方です。夜になれば冷えますし、防寒着があるでしょう」
言われて納得する。確かに、日が傾き始めていた。数時間もすれば、昼間の暑さが嘘のように寒くなることは、知っている。
「……それもそうね」
頷いて外を見上げ、イユは、「ちょっと!」と声を発した。
「あれって、ヤバイ奴じゃないの?」
イユの声のする方へ視線をやったレパードとワイズ。ラダは既に気づいていたらしく、大きく迂回するルートを通る。
イユの視線の先にあったのは、闇だった。ここまででも時折遭遇してきた、『深淵』だ。
それが、今回は大空にだけでなく、砂漠のあったはずの場所にも忽然と浮かんでいた。周囲の砂漠を呑み込むかのようだ。相変わらずの異質な光景である。まるで、砂漠と空を描いた絵に誤って墨汁を溢してしまったような違和感がある。
「……なるほど。ここに『深淵』があるから、砂鮫が巣を移動させたわけですか」
ワイズの言葉を聞いて、イユは『深淵』に何かを投げ入れたくなった。「お前のせいだ」と訴えたかったのだが、果たして投げ入れたものがどうなるかは、実際のところ、分からない。
「幸い、一つだけのようだが」
レパードの呟きを拾って、イユは頷く。落ち着いて『深淵』を眺めていられるのは、それが大きい。確かに見えている『深淵』は非常に大きいが、一つだけだ。不用意に近づかなければ、問題ないことも知っている。
だが、一つだけであっても、音は聞こえた。唸るような、『龍』を連想させる咆哮だ。
「……何なんだろうな、この声は」
レパードが忌々しそうに『深淵』を見やった。ラダも、冷たい目でそれを見ている。
「『龍』が咆哮を上げるのは、異常事態が起きたときだ。そう思っていたけれどね」
ラダもまた『龍』を連想したように、呟いた。
「実際にそんな声を聞いたことはない、か」
レパードの言葉に、小さく頷く。
「カルタータが襲われて、障壁が破られても、ついに鳴くこともなかっただろう?」
今度はレパードが頷いている。
二人のやり取りを見て、イユは首を傾げる。彼らだけにしか分からない話をしている。後でしっかり聞いておこうと心に決めた。
「それなのに、一体この『深淵』からどういう原理で、『龍』の咆哮が聞こえてくるんだろうね?」
ラダのその問いには、誰も答えられなかった。




