その433 『銀翼の主』
パタパタと風に煽られて落ちたのは、縄梯子だった。小型飛行船からの、「それに掴まれ」という合図だ。
イユの近くに落ちたそこに、必死に手を伸ばす。ワイズを抱えながらだ。おまけに砂鮫に囲まれてもいる。ままならない身体に、苛々しつつ、どうにか梯子へしがみつく。
だが、そこまでだった。
(片手じゃ、登れない)
ワイズだけではない。ずっと、ロープも握ったままだ。上がりたいが、三人分以上の重みを抱えたまま上がることが、今のイユには出来なかった。かといって、ロープを放してしまったら、レパードたちを大穴に置き去りにしてしてしまう。イユが梯子を登っている間に、レパードの方へ飛行船が近づいて……というのは、難しい気がした。飛行船でそんなに器用に調整ができるとは思えない。ただでさえ、風で煽られて安定しない乗り物であることは、墜落したから、よく知っている。そうなると、できればロープは手放したくはない。
だが、ワイズを起こしてワイズだけでも登らせるという手も使えない。ワイズはずっと意識がないままなのだ。
(ちょっと!)
イユの足元で、何かが横切った感触がしてぎょっとなる。砂鮫だ。梯子を掴んだイユを喰らおうとして、かなり近づいてきている。
見えないだけに、てきとうに蹴っても当たらず、焦燥にかられる。どうしたらよいのか、分からなかった。
そのとき、飛行船が大きく動いた。その動きにあわせて、イユの身体が砂から僅かに飛び出す。動けないイユを察して、飛行船が動き出したのだ。誰だか知らないが、良い判断だった。
イユとワイズの身体がどんどん大穴から外へと向かい始める。
気がついた砂鮫が追いかけてきているせいで、身が凍る思いをした。それでも、今のイユにできるのはこの梯子を手放さないことだけだ。手に伝わる痛みを無視して、必死に歯を食いしばる。腕はとうの昔に悲鳴をあげていたが、意思の力でねじ伏せる。耐えられるのがイユの強みならば、三人と砂の重みくらい耐えてみせるしかない。リュイスとレパードの二人をロープで引き上げるときですら厳しかったことなど、敢えて忘れてイユは自分にそう言い聞かせた。
しかし、幾らなんでも無理がある。堪えきれず漏れた悲鳴のせいで、口に砂が飛び込んだ。
(駄目!諦めない!)
悲鳴を噛み殺すようにして、イユは自分に言い聞かせた。そうこうする間にも、イユの身体は砂を削るように進んでいく。
そして、とうとう大穴を飛び出した。そう意識した途端、手を放しそうになった。だが飛行船はまだ止まらない。イユが掴んだロープはぴんと張られていて、その先にはレパードたちがいる。まだ気を緩めるわけにはいかないのだ。
砂に叩きつけられ、息が詰まる。肌を削るような痛みに、重みが重なって、身体中がどうにかなりそうだった。それでも、ロープを放すという選択肢はない。この手を放してしまったら、きっとリュイスもレパードも助からない。
延々と続く痛みに抵抗するように、きつく梯子を握りしめた。歯を食いしばり、視界も定まらないなか、ただ苦痛に耐え続ける。どれだけ、痛かろうとも、決して手放さないと、イユは心のなかで何度も叫んだ。早く上空に上がって欲しかったが、中々終わりはやってこない。或いは一瞬だったのかもしれない。ただ耐え難い痛みがイユの時間感覚を狂わせただけの可能性もある。
だが、どちらにせよ、苦しかった。永遠に続くと思われた永いときのなかで、握り続けるしかない。悪夢のような時間を耐えるしかない。満足に息もできず――――、焼けるような手の感覚を感じながら――――、
「おい、しっかりしろ!イユ!」
何度も揺すられる感触にイユは薄目を開けた。眩しい。太陽の光が、イユの目を突き刺してくる。そんな光を背景に、黒い影が、イユを覆った。
「……レ、パード?」
朧げな輪郭に、きっと覗いているだろう相手の名前を呼ぶ。影としか認識できていないのに、何故かイユの声を聞いて安堵する様子が伝わった。
「どいてください」
続けて聞こえた声に、はっとした。
「ワイズ、お前。起きて……」
イユと同じ感想を、レパードが呟いている。
「そんなことは今はどうでもよいです。それより、この酷い有様をどうにかしないと……」
「だ、めよ……」
ワイズの発言に、何をするつもりか分かって、イユは止めようと、声を張ろうとする。しかし、声が掠れて殆ど言葉にならない。
(そうだ、治さないと……)
ワイズが魔術を使う前に、自分の傷を治してしまえばよいのだ。そうすれば、ワイズの負担は少なくて済む。意識を集中させるイユは、しかし自分の有様を一番理解していない当人だった。とりあえずと、痛覚を鈍くしても耐えられないような痛みを感じるところから、手当たり次第に、意識を集中させていく。
同時に、ワイズの魔術も振りかかった。それに負けるものかとさらに力を込めたイユは、みしみしという自分の身体の音を聞いた。
訝しんだときには遅かった。突き抜ける痛みに、身体が仰け反る。悲鳴が口から洩れた。
「お、おい!」
レパードが息を呑むのが分かった。それでも、今のイユに「平気だ」と声を張る余裕もない。
あまりの痛みに耐えかねて、ゆっくりと体を起こす。ワイズが呆れたようにこちらを見下ろしていて、レパードは砂漠の熱にやられているというのに真っ青だった。
「……治癒力を無理に上げると、痛みがきますよ」
「初めて、知ったわ」
イユは忌々しく呟いた。荒い息を抑えようと、深呼吸をする。それでようやく、視界も安定してきた。骨折しても、撃たれても、ここまでの痛みは初めてだった。ワイズの魔術との重ねがけの結果だろうからこそ、もう二度としまいと決心する。だが、無理をした甲斐はあって、傷自体は塞がったようだ。身体が動くことを確認する。
「お蔭で助かったが、無理しすぎだ」
レパードのお小言を聞きたい気分ではない。
「リュイスは?」
唯一姿の見えないリュイスを心配して声を掛けると、レパードが後ろを指さした。振り返ったところに、目を閉じたままのリュイスが倒れている。
「また気を失っちまった。とりあえず外傷はないが……」
少なくとも、砂鮫に喰われたということはないらしい。砂漠の熱にやられているのも心配だったが、全員がぼろぼろの今、イユには何を心配したらよいのか、分からなくなってきた。
「レパードのその腕は?」
赤く染まった左袖が、気にならないわけではない。
「くっついてるよ。ちっと噛まれただけだ」
不気味すぎる回答だった。砂鮫に喰われかけたのだろう。イユの視界の端に大穴が映る。先ほどまで一緒に呑まれたはずの魔物の死骸は、今は嘘のように残っていなかった。魔物の背びれも見えない。ぞっとする静寂に、イユは視線を外した。
「ワイズは……」
「あれだけ衝撃があれば、さすがに目も覚めますよ」
無事かと聞かれているのだと察してか、ワイズが先に答える。それと同時に、感想を付け加えた。
「まさか、あなたが僕を助けようとするとは思いませんでしたが」
『魔術師』を憎んでいたのでしょう?と、ワイズは言葉の裏にそんな疑問を含めている。ましてや自分の寿命は短いのだから、捨て置いてもよかったのにと、そんな意味も込められている気さえした。
「……別にいいでしょう」
自分の関わった相手を助けたいと思った、というだけでは呆れられてしまう気がして、素直にはなれなかった。
「まぁ、助けるなと言ったわけではないので、僕こそ別に良いんですが」
ワイズもまた、煮え切らない返答をする。レパードだけが二人の間の空気がよく分からないという顔をしていた。
「そういえば、あの飛行船は……?」
仲間の安否の次に気になっていたのは、飛行船だ。イユの手元にはまだ、梯子が握られていた。握り続けたせいで、べったりと赤くなっていた梯子にぎょっとしつつも、ゆっくりとその手を開く。梯子の先には飛行船があったはずである。
それに答えるように、砂の上をザクザクと進む足音が聞こえてきた。
くるりと首を向けると、その先に長身の男の姿が見えた。レパードが息を呑む音が聞こえる。
「やれやれ、君の連絡を受けてきてみれば、全員ぼろぼろじゃないか」
アメジストを思い起こさせる紫の髪、白い肌にほっそりとした身体、男にしては長い睫毛に、どこか妖艶な雰囲気さえ漂う男。そして、イユに、「大切なものを自分が壊す可能性をなくしたい」と言ってセーレを去ったあの男が、今この砂漠の上を歩いてきていた。
イユは思わず、その名を叫ぶ。
「ラダ!!」




