その431 『大穴』
夢でも見ているのかと思った。
確かに、さきほどまであったはずの死骸がないのだ。そんな事態に陥って、ろくな想像などできるだろうか。否、できるはずがない。
真っ先に疑うのは、実は魔物が生きていた可能性だ。それならば、魔物の死骸が存在しないのにも説明が付く。
しかしそうなると、すぐ近くにいたリュイスとワイズは、とうに食われていてもおかしくない。
砂漠のなかだというのに異様な寒さと鳥肌を感じて、イユは立ちあがった。こんなときにおちおち休んでいる暇はない。
レパードも同じように立ち上がって、転がったリュイスたちの方へと歩き出す。原因ははっきりしないが、倒れたままの二人を放っておくのはまずいと判断したようだ。
イユも同じように歩き出そうとして、「あっ」と叫んだ。
リュイスの身体が、突然傾いたからだ。
思わず立ち尽くしたイユの前で、リュイスの身体が遠ざかる。まるで何かに引き寄せられているかのようだった。倒れた状態のまま、急に砂の上を滑りだしたのだ。
「リュイス!」
いち早く動いたレパードがリュイスの方へと駆け寄って、砂に足を取られた。崩れるように倒れ込むレパードに、危機感を抱く。今の今まで、この白砂漠でレパードが砂に足を取られて盛大に転ぶ光景は見たことがなかった。なんだかんだでレパードは、倒れそうなリュイスたちを前にして、気を付けていた。今に限って、こんな風に倒れ込むことは、あり得ない気がしたのだ。
そんなことを考えているうちに、リュイスの隣にいたはずのワイズの身体も傾いた。
否、今ならわかる。ワイズの身体が傾いたのではない。地面の砂が、突然傾斜になったのだ。それで、傾いたように見えた。
思わず、ワイズの方に駆け寄りながらも、「何故」という疑問が頭の中に浮かんでは消えていく。イユの脳裏には、砂に囚われて引きずり込まれたフェネックの姿が浮かんでいた。認めたくはなかった。だが、するすると砂に流されていく三人の身体を見てしまっては、否定ができない。
今、リュイスたちを引きずり込もうとしている、この流砂の原因は、紛れもなく砂鮫の大穴にあるのだろう。そうとしか、考えられない。だが、こうなる事態を恐れて、イユたちは迂回していたのだ。それなのに何故、迂回先で出会ってしまうのか。
イユの足は傾斜を前にして止まった。いつの間にか、そこには大穴ができている。大穴の中心付近では、先ほどまでリュイスたちの近くにあった黒焦げの死骸が漂っていた。それが、やがて砂に呑み込まれる。
リュイスとレパード、ワイズの体も、同じように大穴に引き寄せられていく。
(どうすればいい?!一体、どうしたら……!)
焦るイユには、咄嗟の手立てが思いつかない。ただ唯一分かったのは、自分まで大穴に引きずり込まれてしまったら、それこそ救う手立てがなくなるということだ。
眼下で、レパードが、砂に呑み込まれながらも、必死にリュイスに手を伸ばしている。リュイスの方が大穴に近いが、もがくレパードの方が穴に引きずり込まれる速度が速い。リュイスの腕にあと少しで届きそうだ。
イユは何か解決策がないかと、周囲を見回した。そこにあるのは、砂、砂、砂。砂しかない。良い手立てなどあるはずがなかった。絶望が滲んだその先には、唯一魔物の死骸が横たわっている。
あの魔物を投げ入れたらどうにかなるか。そう考えるが、浮かんだのは、中にいる砂鮫がお腹いっぱいになったら諦めてくれるだろうかといった、そんな馬鹿げた妄想だった。これでは全くだめだ。
焦燥に身を焦がしたそのとき、死骸のしなやかな長い尾が目を引いた。まるで鞭のような長さの尾に、はっとする。
(ロープ!)
その存在に気が付いたイユは、大急ぎで鞄からロープを取り出した。えいやっとレパードに向かって放り投げる。
「使って!」
レパードはリュイスを左手でどうにか掴んだところだった。二人の目の前に落ちたロープを、直ぐ様、右手で掴む。
ロープが、ひゅるひゅると音を立てて、伸びていった。
イユは咄嗟にロープを持つ手に力を加えた。ここは、砂漠なのだ。ロープを留めておけるようなしっかりとした土台が、ここにはない。
だから、イユが二人を引き上げるしかない。
ピンと張ったロープが、みしみしと音をたて始める。
想像以上の重みに、イユ自身が吹き飛ばされかけた。歯を食いしばって、足に力を入れ、どうにか耐える。
二人の人間を背負って歩いたことのあるイユだ。これぐらいは、異能があれば余裕だと侮っていた。そのはずが、ロープ越しとはいえ、異様に重い。レパードたちを飲み込もうとしている砂が、かさ増ししているのだ。このままでは、いくらイユでも持ちこたえられない。
「急いで!」
必死に声を張ったことで、イユの限界に気がついたのだろう。レパードがロープを伝って上がろうとしている。しかし、リュイスを抱えているのだ。片手では如何ともしづらいらしく、足で砂を蹴りつけているようだが、無駄に砂を呼び寄せているだけのようだった。それでも、何もしないよりはましと思ってか、進むこと自体を諦める様子はない。顔に焦りを浮かべながら、リュイスに「起きろ!」と声を掛けてもいる。
焦っているのは、イユも同じだった。レパードが抱えているのは、リュイスだけなのだ。ワイズは、レパードとは離れたところで、徐々に大穴へと引きずり込まれていっている。
イユにこれ以上の重みは耐えられない。だから、レパードにはリュイスを引き上げたら、すぐにワイズの元まで再び大穴へと飛び込んでいってもらうしかない。
しかしながら、そんな時間が、果たして残されているのかは、分からなかった。
「つっ!」
レパードの重みに耐えられなくなったイユの手から、ふいにロープが逃げる。慌てて掴んだが、腹から砂に突っ込む形になった。口に砂が入り、ぺっと吐き出す。ロープにしがみつき、自分の身体が引き寄せられる前に、逆にロープを手繰り寄せる。
(こうやって、引き寄せていくしかない!)
手が悲鳴をあげていたし、気を抜けば大穴に引き寄せられるのはイユの方だ。だからこそ、一切の予断を許さない。
僅かに、一手でもと、ロープを手繰り寄せていく。このやり方は、意外と悪くなかった。砂の上に寝転がりながらも、確実にロープがイユのもとへ集まってきたからだ。寝転がってしまったせいでレパードの様子が見えなくなってしまったのが難点だが、どのみち確認などしている余裕もない。今もレパードがロープに捕まってくれていることを、重みから判断し、信じるよりない。
そのとき、ざざっと、何かの音がした。イユの手元から砂が流れていく。さらさら、さらさらと、白砂が、少しずつ少しずつ、イユの横を通り過ぎていく。
(何?)
疑問に思ったときには、もう遅かった。
次の瞬間、くらっと、イユの身体が傾いた。流れる砂とともに、イユの身体が滑っていく。
(しまった!)
視界に、見えなかったはずのレパードの姿と、その先にある大穴が映った。
イユもまた、砂鮫の大穴に捕らわれてしまったのだ。




