その418 『瀬戸際』
その瞬間、風を切る音がした。気が付いたのは、サロウが先だった。斬りつけようとした大剣の向きを変え、後方に飛ぶ。サロウがたった今いた場所で、見えない力が発生する。その何かは、サロウの左腕を僅かに切り裂いた。ざっくりと、服が切られ、そこに赤い筋が走る。
「風の魔法!」
嫌なものをみたと言わんばかりのブライトの声に、サロウが悟ったような声を出す。
「女の影に隠れて、手錠を外したか」
左腕の力が緩まったのだろう。すかさず、飛竜が、サロウの手を逃れるように飛んでいく。
「ビスケ、退避!」
シズリナの言葉に、分かっているとばかりに一鳴きして、ビスケが牢とは反対側、部屋の外へと向かっていく。リュイスは知らなかったが、そこには人が一人通れるほどの穴があった。彼らはそこから出入りしていたのだ。
しかし、その地面に、法陣がぼんやりと淡い光を放っている。
「いやいや、罠を張ってないとでも?」
ブライトの言葉とともに、法陣からしなやかな蔓が這い出る。それが、ビスケに向かって飛んでいった。ビスケは飛ぶので精一杯なのだろう。避ける様子も見せず、そのまま蔦へと突っ込んでいく。
「ビスケ!」
その瞬間、風が吹いた。ビスケを包み込むように伸びた蔦が、ぱたっと地面へ落ちていく。
その隙を逃さず、ビスケが部屋の奥へと消えていった。
「あなたも、早く!」
ビスケを見てほっとした様子のシズリナは、サロウの前に突っ立っている状態になっており、非常に危険だった。
リュイスが腕を引っ張った拍子に、シズリナの体が後方に崩れる。その瞬間、シズリナがいた場所を、サロウの大剣が過ぎった。
「ちょっとちょっと!サロウってば、殺すのはなしだって!」
容赦のない一撃に、動揺した声を発するのはブライトだ。
「構わん。これぐらいは避けるだろう」
「避けられなかったらどうするの!」
そんな問答の間にも、サロウの剣はシズリナを狙う。それが分かっているから、シズリナに追いついたリュイスには、会話をするだけの余裕がない。続けざまに風の魔法を放って、大剣の動きを故意に制限する。つまり、分かりやすくサロウに向かって魔法を放つことで、サロウが大剣で魔法を弾こうとするその動きを誘導する。
「お前は、何を……」
驚いた様子のシズリナの声に、彼女が態勢を整えたことを察したリュイスは、そのまま腕を引っ張る形でサロウを横切った。風の魔法を防ぐのに忙しいサロウに、シズリナを追う余裕はない。話をするなら、今だ。
「あの部屋に入って下さい!」
リュイスの息は既に上がっている。ずっと牢で繋がれていたのだ。体力はとうに限界だった。だからこそ、指示をするので精一杯だ。言うことを聞いてくれるかは、賭けだった。
「僕の武器を回収してください、早く!」
追いやるように、シズリナの腕を引っ張り、離す。その瞬間、シズリナが今までいた場所に、炎の塊が通り過ぎた。
シズリナもひやりとしたのだろう。何も答えず、部屋の奥へと入っていく。
次の瞬間、躍り出るように、サロウがリュイスに飛びかかってきた。
「くっ!」
魔法を放つ余裕がなかった。手に持っていた、猛毒のクナイで辛うじて受けるが、すぐに手が痺れて、クナイが手から零れ落ちる。このまま、剣を押し込まれたら、次の瞬間には首を刈られていたところだ。そうはさせまいと、必死に魔法を撃ちだす。
風の魔法を避けるべく、一歩退いたサロウが、感心した声を出した。
「大した男だ。あの短時間に、足の枷も魔法で斬り落とし、武器にも風の力を与えたか。そのうえで、お前を仇だと呼ぶ女とその飛竜まで助けようとするとは」
サロウの分析は、間違っていない。手錠さえ外せば、魔法が使えたのは行幸だった。風の魔法で、足の枷を切って、すぐに飛竜を助けたのだ。その後、シズリナを助けるため魔法で応戦した。そして、先ほどのサロウの大剣。クナイ如きではぶつかった瞬間に組み伏せられ、そのまま首を落とされていたことだろう。それを一瞬だけでも持たせられたのは、風の魔法で応戦したからだ。強風を呼ぶ力をクナイに収束させて、その場を凌ごうとした。だが、今のリュイスではちょっと刀をぶつけただけで、手からクナイを落としてしまう。相手がサロウでなければ善戦できただろうが、魔法が使えなかったとはいえ今より遥かに体力のあった頃でも歯が立たなかった相手に、現在のリュイスでは勝ち目がないことは分かっていた。
「……惜しむべくは、『龍族』であることか」
大して残念そうには思えない顔で、サロウは大剣を担ぐ。
足を僅かに引いたその所作に、重い一撃がくることを察して、リュイスの額から汗が一筋流れた。ありったけの魔法を、注ぎ込む。
大剣を振り下ろそうと駆け込んでくるサロウがやけに、ゆっくりに見えた。それは実際に遅くなったのではなく、リュイス自身が集中している証だ。世界が音を失い失速した世界で、リュイスがぶつけた風の刃がサロウに飛びかかる。
それを、サロウは軽くいなすように大剣ではじいてみせた。見えないはずの刃を、まるで見えているように迷いなくはじくあたり、剣においては達人の域に達していると悟らされる。
続けて放つ魔法も、次から次へとはじかれていく。あっという間に、リュイスとサロウの距離はゼロになる。そして、はじかれたクナイを拾うことよりも魔法を放つことを優先したリュイスは、素手だ。ゼロになるということは即ち、リュイスの身体が両断されるのと同等である。
剣を、渡されでもしない限り――――。
「使えっ!」
声と同時に、後方から何かが飛んでくる。風を切るように進むそれに、リュイスは手を伸ばした。何度も掴んだ柄だ。受け取り損ねるということは、有り得ない。右手に一刀、左手に更に一刀が、その手に収まる。
すかさず込められた力は、使いなれている魔法だからこそ、間に合わせることができる。
迫る大剣を、両手で受け止めた。
ガツンという、大きな衝撃が走った。
一瞬でも意識を持っていかれそうになり、懸命に踏みとどまる。
大剣が、リュイスの剣の向こう側で、額に食らいつこうとしている。今も獰猛な声をあげるように、カチャカチャと不快な音を立てて迫っている。
気を抜いたら、喰われる。そう思わせるに足る迫力が、そこにある。
だが、リュイスの特技は、並列に物事を考えられることにある。たとえ、それが死に直面する一歩手前のことだったとしても、リュイスの思考はリュイスの意思とは別の側から常に解決策を探っている。それは、牢に繋がれて満身創痍になりながらも、脱出のための情報を拾い集めようとする行為と、なんら変わらない。
故に、目の前で吹き飛んだのは、サロウであった。大剣を押し込もうとするサロウに、左右から飛び込む風の魔法を防ぐ手段はなかったのだ。
とはいえ、大きく仰け反りながら、地面へと転がるサロウを、一瞥する余裕はない。持てる力を出しきったリュイスは、視界がぼやけるのを感じ取った。その滲んだ世界のまま、くるりと踵を返す。
紫色のなにかを認めて、そこに近づいた。腕だと意識できたから、すぐに掴んで走り出す。
なにも言わなかったが、リュイスの意図は伝わったのだろう。
早く逃げなくてはならないという、リュイスの思いに突き動かされるように、シズリナが先陣を切った。




