その415 『彼らの目的』
冷たい床の感触を、頬に感じる。じんじんと火照る肌に、その冷たさは心地よかった。這い寄る冷気も、同様だ。擦り切れた痛みは、リュイスを眠りにつかせない。だから、少しでもその冷たさが、痛みを吸い取ることを祈った。
しかし、痛みがあったからこそ、気づけたのだともいえるのだ。眠りにつかなかったから、壁の向こう側から、こつこつとやってくる足音を聞くことができた。それは、下駄の音である。
音の感じからして、刹那とも、克望とも違った。刹那であればもっと軽やかに、小鹿が駆けるような音だ。克望ならば、もっと一歩一歩に重みがある。
停滞していた時間が動き始めたことを、予感した。
それでも、身体は思うように動かないままだった。指先だけはいざというときのために常に動くようにしている。だが、それだけだ。手錠に足かせだけならまだしも、魔術で動きが封じられてしまうことも多いなかで、体の動きを取り戻すことは容易ではなかった。特に背中は、何度も壁に打ち付けられたせいで、少し動かすだけで痛みが走る。
痛みに呻きながらも、リュイスは、鉄格子の向こう側を探るように見つめた。足音の主はまだ遠いようで、今、リュイスの視界に映るのは、鉄格子とその先の壁だけだ。
だが、壁の向こう側に部屋があることは知っていた。その部屋に、『魔術師』たちと、恐らく取り上げられたリュイスの武器があることも、だ。同時に、彼らの足音から、階段のようなものがあることも察していた。きっと、この塔の最上階から下りるための唯一の道だろうと、予想している。
何もできないように見えて、無意識に、そうした情報を集め考えている。それを自覚しながら、決定打となる脱出方法が見えずにいる。普通ならば歯噛みするところを、じっと心を落ち着かせて、待っていた。そうすれば、いつか好機がくることを、リュイスは本能とも呼べる、『幸運を招く力』で、知っている。
リュイスの耳が、更なる足音を拾う。克望と刹那のものだ。三人。その数の意味をぼんやりと考えていると、一筋の明かりがリュイスに射した。思わず眩しさに目を細める。光の筋は、何かを探すようにリュイスの顔の近くをうろうろとしたと思うと、足の方にまで移動していった。
「これで、確信できただろう」
克望の声が、壁に反響して、リュイスの耳に遅れて届く。
「見ての通りだ。我々は、其奴を確保している。シズリナ殿の、望むとおりに」
シズリナという人物だろう、足音が近づいてくる。その足音が延々と続くかと思われたその時、不意に止んだ。代わりに息を呑む音がする。
リュイスはその人物を見ようと、瞳だけを動かした。
白い肌が暗闇に浮かび上がっている。その骨格からして、女のものだ。僅かに開いた唇は、ふっくらとしていて艶があった。紫の髪が、頬の近くを流れる。紫紺の瞳が、リュイスを一瞥していた。
(あなたは……)
見覚えがないとは、間違っても言えない。紛れもなく今ここに立っているのは、リュイスの命を狙って、何度も仕掛けてきた、女暗殺者だった。衣服はシェパングの装束だが、前回彼女がリュイスに向かって、「カルタータの仇」と叫んだことは、リュイスの記憶に強く残っている。だから、察した。
彼女は、復讐をしにきたのだと。他でもない、カルタータの障壁を壊した、リュイスを仕留めるために。
当時、彼女にカルタータの関係者ではないかと聞いたとき、彼女は「答える必要はない」と黙秘したが、リュイスのなかで、とうに予測はついていた。
ほぼ間違いなく、名前は今知ったが――、シズリナは、カルタータの人間だ。それも、障壁を壊したことで恨みを抱くものということもあれば、相手が絞られてくる。
(あなたは、カルタータの姫巫女ですね?)
声に出したつもりで、全く言葉にならなかった。それどころか、今自分に恨みを抱く人物が目の前にいるとわかっていても、リュイスの身体はぴくりとも動かない。
ブライトが差し入れをする回数をもとに時間をはかっていられたのは、はじめのうちだけだった。克望の番が終わったあと、サロウの番がくると、それはもうただの拷問だった。意識が何度も飛んだあと、とうとう日数をも正確に数えられなくなったリュイスには、とうに体を動かす気力は残っていない。
「……どういうつもりだ」
シズリナの、冷ややかな声が塔の中を反響した。声に怒気が含まれていることは、誰の目にも明らかだった。
「何故そんなにお怒りか、理解に苦しむというものよ」
克望に向かって声を張ろうとし、シズリナがくるりと背を向けた。遅れて紫の髪が揺れる。
「何故、こいつは、こんなボロボロの状態で牢に入れられている?」
その怒りはリュイスにとって、不思議な感じがした。同じことを思ったのだろう、克望の疑問の声が上がる。
「シズリナ殿の願いは、其奴への復讐だろう?生きているのであれば他はどうでもよい、そうではないか」
「そういうことではない」
シズリナがきりっと眉を吊り上げたことは、見ていなくとも分かった。
「お前たちにとって、こいつはただの交換すべき人質だろう。何故、それでこの仕打ちになるのかと聞いているのだ」
あぁ、高潔な人なのだなと、ぼんやりと思う。たとえ、相手が憎むべき仇であっても、理不尽な暴力には断固として許しはしない。それが、シズリナの信条なのだろうと、理解したからだ。
同時に、シズリナの言葉の内容を、吟味してもいる。シズリナは交換すべき人質と言ったのだ。つまり、『魔術師』たちの目的はやはりリュイスではなく、本当の受取人はシズリナということになる。問題は何故、『魔術師』たちが、シズリナにリュイスを差し出す必要があったか、だ。それが、読めなかった。
「これは、失礼。さすが、お姫様は気位が高い。傷ついた人間にとどめは刺したくないと申されるか」
リュイスの解釈とは少しずれた理解をした克望が、呆れたような声を出した。
「所詮、お前も『魔術師』だな……」
それに、心底がっかりしたような声を出すのはシズリナだ。その言い分から、彼女もまた『魔術師』に良い感情を抱いていないことが伺える。他でもない、カルタータを滅ぼしたのは、いくら表向きは狂った『龍族』の襲撃といえど――、『魔術師』だ。だからこそ、余計に信用ならないとみえて、シズリナの言葉には絶えずトゲがある。
「克望の悪口、ダメ」
聞き捨てならないと判断したのだろう、刹那の口論が入るが、それを遮ったのはほかならぬ克望自身だった。
「発言を許可した覚えはない」
「……」
有無を言わせぬ口調に、沈黙が返る。どことなく冷たいやり取りだ。
「重ねて、失礼を」
克望は、優雅に礼をした。だが、仕草とは裏腹に、礼を失したとまるで思っていないことは、克望の声から察せられる。その声は、これから起きることへの期待と欺瞞に、満ちていた。
「しかし、残念ながら我は癒しの魔術を持ち合わせない。それに、我から言わせてもらえば、餌をくれてやった時点で、何様だと言いたくなるというものだ」
リュイスは見た。シズリナの地面が、僅かに光った、その瞬間をだ。
「駄目です!離れて!」
絞り出した警告の声は、どうにか声となってシズリナの耳に入った。
間一髪、シズリナは反応し、後方、リュイスのいる側へと飛ぶ。遅れて、光った地面が、線となり、法陣を描いた。その意味に気付いたシズリナが、声を張る。
「貴様、図ったのか!」
法陣は光っただけで、何も効果がなかった。それは、対象が逃れたからだ。もし、シズリナがあの場に留まっていたら、どうなっていたか想像は容易い。
克望は何も答えなかった。だが、不敵に笑うその口だけは、リュイスの目でも見えてしまった。それが、答えだ。
瞬間、ナイフの切っ先が光った。




