その414 『傾きの塔にて』
目の前に広がるは、鉄格子。格子の向こう側は、漆黒の闇に満ちている。そこから這うように流れ込む冷気に、今が夜であることを否が応でも悟らされる。
窓はない。無機質な岩壁は、乱暴に擦ると肌が負ける。そのことを、経験で知っている。実際、染みついた黒いシミからは、乾ききらない血の臭いがする。もし、ここに人の血の臭いに敏感な魔物がいたら、恰好の的になったところだ。
だが、冷たい格子が、中からリュイスを出さないと同時に、外からの魔物の侵入も防いでいる。最も、最上階にあるこの場所では、魔物も生息していない。乾いた大地を行き交う魔物たちは、何も好き好んで誰もいないはずの建物になど入ろうとはしなかった。
床を弾くような音に、リュイスの意識が覚醒する。音の重さから、誰がやってきたのかすぐに判断がついた。ここに来るのはたった四人だ。そのうち二人はシェパング出身のため、下駄を履いている。判別はつきやすかった。
床の上に転がった皿に、見慣れた赤色が反射する。吸い込むような鮮やかな色合いは、まるで炎の魔法石のようだった。瞬きをしたのか、その色が一瞬消える。
「食べないと元気でないよ?」
ぽつりと呟かれた言葉だけを切り取れば、それは患者を心配する少女の声にも聞こえる。だが、他でもない彼女こそが、リュイスをここに連れてきた主犯だ。
「……食べたい気分じゃないんです」
リュイスの発した声は、消え入りそうだった。絞り出した限界が、その声だ。皿にあるのは見慣れない獣の肉であり、飲み物は満足に口にできていない。
皿に映った赤色が、細められる。
見上げたリュイスの先に、桃色の髪を二つ結びにした少女が立っている。赤い唇が、にんまりと持ち上げられていた。その不敵な笑みは、まさしく、アイリオールの魔女と呼ばれるに相応しい。ブライトの本性が覗く瞬間であった。
「まぁ、記憶を読まれた後は、普通そうなるかな」
あくまで声だけは軽く、しかしその瞳はまるで見下したように、リュイスを見つめている。
「とはいっても、かなり克望に抵抗したって聞いたよ?おかげでさっぱり進まないって」
それは、ブライトの苛立ちを表しているのだろうか。彼らは順番にリュイスの記憶を覗くことにしたらしい。初めは、克望。次にサロウ。そして、ブライトだ。全員が同時に記憶を読もうとすると、リュイスの記憶を読みきる前に、リュイスの心が壊れかねないらしい。しかし、リュイスが抵抗するせいでちっとも出番が回ってこない。だから、最後に回されたブライトは不満を持っているのかもしれない。
そんなことを考えて黙っている間も、ぺらぺらとブライトは話し続けている。
「分かってないなぁ。抵抗すればするだけ苦しくなるだけなのに。イユはもっとうまくやったよ?誰かさんと違って強情じゃないしねぇ」
ブライトは、リュイスに楽になってほしいのだろうか。
そんな考えが一瞬、リュイスに生まれる。
誰かが苦しむ姿を見たい人間は、世の中にそうそういない。ブライトもまた、リュイスにいっそのこと、楽になってほしいのだろうかと。
しかし、そんなことをすれば、心の弱みを握られるだろうことは察している。或いは、ブライトは言葉を掛けることで、リュイスの心の隙に付け入ろうとしているのだろうと、判断する。
他でもない、イユがそうだったからだ。記憶をみせて、弱みを握られて、心を支配された。
だから、リュイスは抗っている。記憶を覗こうとする彼らを、拒絶する。そのせいですぐに途切れる意識を、無理やり引き戻された。彼らのやり方は、強引だった。思いっきり壁に叩きつけられて、否応なしに目を覚まさせられる。そして、また、魔術で記憶を覗こうとするのだ。たとえ、意識が覚醒したばかりでも、気を緩めてはならなかった。必死に抵抗しようと、言うことをきかない体を無理やり動かそうとする。そうすると、再び意識が霞んでいく。
意識が、途切れる、引き戻される、途切れる、引き戻される……。それを延々と繰り返す。記憶を視られているからか、意識が過去をさ迷う。そして、痛みとともに起こされる。そのうち混濁して、どちらが現実で、どちらが過去か分からなくなりそうだった。
それでも、リュイスは、自我を保てている。まだ、抗えている。そう、思い込んでいる。
「正直、とうに心が壊れてるんじゃない?自覚がないだけで」
リュイスの心を読んだように話すその声には、取り合わない。耳を傾ければ、自分が正常でいられなくなることを理解しているように、逆に疑問をぶつけた。
「あなたたちは、何を待っているんですか?」
ブライトがこうして食事を持ってきてくれるのは、行幸だった。まず、時間が分かる。軟禁された状態で、時間間隔が狂わされてしまえば、きっと希望は持てなかった。所詮、人間の感覚など当てにならない。頻繁に意識が落ちるなら猶更だ。もしブライトが食事を持ってこずに、手ぶらでやって来て「一カ月経ったけど、レパードたちは助けにこないみたいだね」と言われたら、信じたかもしれない。
けれど、ブライトたちの目的はリュイスの心を狂わせることではない。記憶を読むというのも目的の一つのようだが、それだけではこの状況は説明がつかない。
「何だと思う?」
ブライトは、いたずらを企む子供のような笑みを向ける。
行幸だと思った次の理由が、これだ。会話ができる。それがブライトという不確かなもので、場合により、よりリュイスを狂わせようとするものだったとしても、情報が引き出せる可能性があるということは大きかった。それに、会話が成立するだけで、それこそ心が壊れずに、自分という存在を現実に引き留めて置ける気がしたのだ。
「気温から察せられるに、ここはまだシェイレスタ。いえ、イクシウスとシェパングの『魔術師』がいることからして、三国の中間地点にいるのでしょう?つまり、三角館から離れていないということになります」
長文を話すのは辛かったが、話しているうちに掠れた声が、普通に聞き取れるぐらいには回復してくる。
「ほぅほぅ。それで?」
ブライトが催促する声を無視するようにして、リュイスは続けた。
「それは、おかしいんです」
ブライトが鉄格子を僅かに開ける。皿を回収するためだ。
この隙に、外に飛び出ることができたらよかったが、今のリュイスは腕と足に錠をされ、満足に歩けない。武器も取り上げられ、魔法も使えない。そんな状況であるのに、ブライトは用心に用心を重ねて、いつでも魔術が使えるよう、片手を常に書きかけの法陣に当てている。
「狙いが僕であれば、わざわざ中間地点に留まる必要はありません。異能者施設なり、あなたたちの私邸であり、もっと設備の整った場所に行けば良いのです。そうでしょう?」
「あたしたち三人とも違う国の出身なんだから、中間地点にいること自体はおかしくないんじゃない?」
さらりと入る突っ込みと同時に、皿が引き取られた。
「それにしても、こんな塔の一角に居続けるのはおかしいです。ここでは、誰かに見つかる可能性もありますし、大したこともできませんから。それに、ブライトは受け渡し側なんですよね?何故、あなたはまだここにいるのでしょう?」
ブライトは少し考えるような仕草をした。何を言葉にして良いか悪いか、考えあぐねるように、眉をひそめている。
「うーんと、つまり、狙いはリュイスじゃないと?」
リュイスが発言した内容を敢えて口にしてくるところに、核心に近づいてきている予感があった。
「いえ、断定はできません。ブライトは確かに僕を引き渡す約束はしましたが、その受取人は、克望さんとサロウさんじゃない、ということも考えられます。その場合、狙いは僕ですが、引き取り手が別人ということになります」
鉄格子は、がしゃんと音を立てて閉まった。
「……つまり、リュイスはあたしたちがまだ目的を達成していないって思っているんだね」
「その通りです。違いますか?」
赤い瞳で面白そうにじろじろとリュイスを眺めたまま、「さぁ、どうかな」と返してくる。その言葉は平淡でありながら、どこか挑戦的だ。だからこそ、リュイスはブライトの意思を把握する。
あくまで、リュイスに進んで情報を漏らすつもりはないらしい。
「でも、良い着眼点だと思うよ」
急に、にこにこと笑みを浮かべ始めたブライトに、その真意を図りかねた。
「その分だと、まだ心は壊れていないんじゃない?」
そう言って立ち上がり去ろうとするブライトに、思わず声を掛ける。
「待ってください」
ブライトの足音が、止まった。
「あなたは、これでよかったのですか?あなたの目的は達せられたのですか?」
皿はもうない。だから、皿に反射する赤い目を見ることは叶わなかった。
「……リュイスは、自分の心配だけをしていればいいんだよ」
意図的に感情が盛られた今までと違い、トーンの低いその声には、感情の殆どが押し込まれている。だから、ブライトのその声に、初めて本心らしい本心を覗かせたのだと気づいたのだ。




