その41 『新たな知らない世界』
引っ張られるままに、岩壁のある方へと歩いていく。先を進んでいる船員たちの足音が木霊して耳に届くようになると、雰囲気はすっかり変わった。周りは岩壁に包まれて、薄暗い。つららのような鋭い岩が地面からも天井からも生えている。そして、ひんやりとした空気は、間違いなく洞窟のそれだ。
地面は白い砂のままで、なだらかだ。横道もないが、広々としていた。天井は、見上げると首が痛いほど高い位置にある。何処かで水の落ちる音が反響した。
緩やかな曲道を歩き続けると、前方からビューッという風の音がする。それは聞きようによっては、魔物の唸り声のようにも聞こえる。つららのような岩も歯を連想させる見た目のせいで、まるで魔物の口の中に入ったかのようだ。
「念のためだ。なるべくイユから離れていろよ」
レパードがリュイスに注意する声が、少し反射して聞こえる。
「刹那も長い間一緒にいましたし、今更ですよ」
リュイスの反論に、レパードは首を縦に振らない。
「今は三人しかいない。俺ら二人が死んだら報告する奴がいなくなるだろ」
曲がり道のせいで、確かに前方にいた船員たちの姿が見えない。
イユはため息をついた。一々イユから何かを言う気は失せている。どちらにせよレパードたちとも別れるのだという思いが、心の内の大半を占めていた。
最後にリーサに会えたのだから、もう十分だ。
そう自身に言い聞かせて、淡々と道を進む。レパードたちも特にこれ以上の会話はないようで、暫くは足音ばかりが聞こえていた。
前方から船員たちの感嘆の声が聞こえてくる。気になったが、曲道のせいで様子がわからない。足を早めると、レパードもそれに合わせるように進んだ。同じように気になっているらしい。
その後すぐに眩しい光が見えてきた。洞窟は思ったより短かったようだ。
光へと一歩踏み出した途端、待っていたのは鮮やかな色の世界だった。見たことのないいきいきとした緑が、見渡す限り続いている。眩しい陽の光が、一帯に注がれていた。点在する雲の影がそこを流れていくのが目に入る。青々とした草木と水の香りがこれでもかと肺に入ってくる。
そこは、広大な草原であった。雨が通り過ぎたばかりのようだ。
遠方で咲き乱れる黄色の花々、点在する家屋に生き物、そして寝転びたくなるほどに柔らかそうな地面。
こうした状況でなければ、船員たちの感嘆の理由がわかるような気がした。さらに草原を下りた遥か先に、街があるのが見える。白い塀に囲まれたそのなかで、柑子色の屋根の家々が寄り添い合っている。そして、街の奥には巨塔があった。
街がミニチュアのように小さくみえるのに、その塔はどっしりと聳えている。塀と同じ白い壁と柑子色の屋根が辛うじてそれを同じ街並みに落とし込んでいるが、存在感を隠せていない。
――――あの巨塔は何だろう。
疑問に思ったが、聞こうとは思わなかった。隣にいるリュイスとレパードもまた、驚いたように風景に見惚れていたからだ。
街の様子をもう少し知ろうと目を凝らす。
中央にはひらけた場所があり、そこに噴水があることを確認できた。街の外側は店が多いようで、天幕の類が多く張られている。
街から外れた場所には飛行船が数隻停められている。本来はここに飛行船を停泊させるようである。セーレでは堂々と乗りつけることはしなかったらしい。
そこまで確認してから、ぼんやりとしてはいけないと気を引き締める。レパードたちがいなくなれば、イユは一人取り残されるのだ。ここからどうすればよいかの算段を立てようとした。
できることならば、停泊している飛行船の一つに乗り込みたい。そうして今度こそ、安全な場所へと逃げ込むのだ。
けれど、レパードたちはわざと離れて着陸している。そう思うと、何か危険があるのかもしれない。考えすぎかもしれないが、結論が出なかった。乗り込むことが可能かどうかは、実際に街について見てみないと何とも言えないだろう。
問題の先送りをしたところで、レパードから声が掛かった。
「イニシアはあの街だな、行くぞ」
リュイスがそれに合わせてフードをかぶる。レパードのもじゃもじゃの髪と違い、リュイスの耳は髪のなかには収まらない。当然の対応と言えた。
そうこうする間に、船員たちは既に遥か先を歩いている。
イユたちも、少し距離をおいて草原を歩き始めた。冷たい風が頬に心地よい。気温もレイヴィートにいたときよりは少し暖かかった。草花が多いことからも、この島はそれほど寒くならないのだと察する。
暫くすると、徐々に人の姿が見えてくる。それと同時に生き物の群れも見かける。白い毛で、もこもことしている。柵に入れられているようだが、足は遅そうで害はなさそうだ。食用かもしれない。
群れから外れた一頭がイユを見つけて近寄ってくる。草を咥えながらも、もぞもそと口を動かすせいか、あまり危険は感じない。どちらかというと、人懐っこさを感じた。目の前に来られると、独特の匂いがする。我知らず、足を止めていた。
「何、この生き物」
二人に驚いた顔をされる。
「羊です」
「羊も知らないのか?」
リュイスとレパードに問われ、どうやら無知を曝け出してしまったらしいと察した。
「羊の毛は、人々の衣服に使われるんですよ」
リュイスの説明に、イユは自身の服を摘む。
「この服も?」
「それはどうせ綿花だろ。羊は基本的に高級だから着られないぞ」
同じ服でも材料が違うということらしい。高級というからには魔術師が着る服なのだろう。羊の毛でできた服を想像する。もこもこで、確かに暖かそうだ。
「こいつ、服にされるためにここで育てられているのね」
感想を呟くと、レパードに噴き出された。
思わず見上げると、
「間違っちゃいないが、羊がそのまま服にされるわけじゃないからな」
と、説明される。
「……殺されるんじゃないの?」
「そんな物騒なことしないですよ。毛だけ刈るんです」
リュイスの答えに、つい自身の髪を引っ張った。今は背中に届くほどあるが、異能者施設ではよく短く切られたことを思い出したのだ。
そして目の前で小首を傾げている羊と見比べる。この羊が刈られたらどのような姿になるのか、イユにはいまいち想像がつかない。
ただのんびりと過ごしているようにみえる羊に、思うことはある。
「羨ましい」
ぽつりと溢れた一言は、その場に萎んで消えていった。
「まぁ、羊の肉は美味だがな」
ぼそっとレパードに付け足される。思わず見上げるが、レパードは帽子をくしゃりと潰して唯一の片目を隠している。
イユはその言葉に、感心することにした。毛皮は服に、肉は食料になるとは、よくよく考えれば羊とはなんと素敵な生き物であろう。
「……ちょうどいいわ。こいつ、狩りましょう」
「だめですよ!」
リュイスの声と羊の鳴き声が被った。羊が怯えた声で鳴くのはともかく、何故リュイスに止められるのかがよくわからない。しかも、思いもよらない剣幕だ。先程までイユが羨んでいたことなど吹き飛ばす勢いである。
「この羊たちは大切に育てられているんですから、勝手に狩るのは禁止です」
魔術師の衣服になる羊だ。高級なだけはあって、こう見えて管理が厳重なのだろう。仕留めたらばれてしまうと言いたいようだと、解釈する。
「……一匹でもだめかしら」
「だめです!」
頑なに言われるので、渋々諦めることにした。残念ながら、羊も殺気を感じたのか逃げ出してしまっている。
「全く、そういうところは平常運転だよな」
レパードの言葉に、リュイスは珍しく強気で返す。
「レパードも余計なことは教えないようにしてください」
有無を言わさぬ口調に、さすがのレパードも折れたようだった。
「分かった、分かった」
と軽い感じで返事をしている。
「それにしても、イユさんって、異能者施設には一体どれくらいの間いたのですか」
不思議に思ったのだろう、リュイスから尋ねられる。
羊を知らないことは、よほどおかしなことだったらしい。余計なことを口にしたと後悔しつつも、答えた。
「ずっとよ」
「随分曖昧だな。『ずっと』ってどれぐらいだ?」
異能者施設にカレンダーはない。一日一日数えていたわけでもない。
「……ずっとはずっとよ」
レパードから呆れ口調で指摘される。
「さてはお前、自分でもわかっていないだろ」
「う、うるさいわね!」
図星だ。顔が赤くなりかけているのがわかり、冷静になろうと努める。
「イユさんが異能者施設に入ったときはおいくつだったんですか」
問われてから、年齢など考えたこともなかったことに気がつく。
思い出そうとしたとき、不意に雪が見えた気がした。山道を駆ける馬車の音、馬の鳴き声が耳に届く。衝撃と同時に点滅する視界。寒さがイユの肺に忍び寄り、血の色が地面の雪に延びていく。
一瞬だった。すぐにその光景が掻き消える。掻き集めようとしても、形にならなかった。自分のことなのに自分がわからない。喪失感と焦りに、震えが走る。
けれど、それは見られてはいけないものだ。弱さを隠すべく、どうにか口を動かす。
「……分からないけれど、かなり小さい頃だったと思う」
「お前、今いくつだ」
動揺する頭でも、レパードの問いに返すのは簡単だった。日付も数えていないのに、年齢が分かるはずはない。
「知らないわよ」
やれやれという感じで肩を竦められる。
「十五……ぐらいに見えますけれど」
そこで飛び出たリュイスの発言に衝撃が走った。
「え、あんたより年下ってこと? ない! それはないわ!」
イユには、おどおどしてどこか頼りない風のリュイスよりは年上だろうという自覚があったのだ。背がイユよりずっと高いとはいえ、まさか年下扱いされるとは心外である。
「俺は、十三か十四だと思ったがな。いかにも反抗期の餓鬼って感じで」
レパードからはもっとひどいことを言われる。あんまりな言い草に睨みつけると、
「ほらまさにそんな感じだろ?」
と、リュイスに同意を求め出す始末である。
「……さすがにそれは。クルトと同じ年齢になりますし」
そのリュイスの発言もまた、衝撃だった。
「クルトが十三か十四なの?」
「先日、十三になったばかりです」
憎たらしい感じはあったが、リュイスよりしっかりしているというのが、イユの意見だ。そこまで考えてようやく思い出した。
「そういえば、リーサはいくつなの? 同じぐらいの年だって言っていたわよね」
「こないだ十六歳になったばかりですよ」
訝しくなって、レパードを見やる。リーサを紹介するときに言った言葉と矛盾するのだ。
「いや、クルトに面倒見させるのは厳しそうだろ?」
イユの視線を感じてか、同意を求めるような言い訳をされる。
とはいえ、ずっと部屋にこもって工作を続けるクルトを思い浮かべてしまうと、レパードの意見に同意せざるをえない。あの仕事をいきなり手伝える自信はなかった。
「さすがにクルトより下の年齢のやつに任せるのはどうかと思うし。そうすると面倒が見られそうな次の奴はリーサぐらいだしな。その次はリュイスだし」
「刹那は?」
年齢の話題ついでに聞いてみた。年下なのは間違いないと思うが、気になったのだ。
「刹那? あいつは、確か今年で十だとか言っていたっけか?」
「はい、そのはずですよ」
しっかりしていることと年齢は必ずしも同じではないらしいと、心に刻む。
「どのみちあいつは忙しいから面倒は見させられないぞ」
刹那が医療を担当しているなら、イユには手伝えない。そう考えていたら、別れ際の刹那の様子が頭に浮かんだ。イユの顔を見ることもなかったあのときの刹那は、あくまで無表情だった。それが、ちくりとイユの胸の内を刺す。
何も言えないでいると、レパードが話をまとめにかかる。
「まぁ、お前がいくつかはこの際いいさ。五年ぐらいはいたってことだろ?」
「そう、ね」
頷き返してから、急に話の熱が冷めるのを感じていた。
「五年です、か……」
リュイスの表情が翳るのが分かって、その冷たさが増していく。
イユはもうリュイスたちとは関係がなくなるはずなのだ。二度と会わない人たちの年齢を聞いたところで仕方がない。
それよりもやるべきは、これから先どうやって生き延びていけばよいのか考えることだ。
「そんなことより、イニシアはどういう街なの?」
幸い、話が思いの外盛り上がったお陰で、聞きやすい雰囲気だ。少しでも情報収集しておきたく、尋ねた。
「俺らもよく知らない。ただ普通にしていれば怪しまれないだろ」
全くもって使えない答えだった。イユの視線に気づいたらしいレパードに、お互い様だと言われる。
「あいにく、イクシウスには疎いんだよ」
「羊については詳しいのに?」
レパードはため息をついた。
「羊は常識だ。あれは、どこの国にもいる」
そうして、イユの腕を引っ張る。話は終わりだと言いたいらしい。
徐々に草のない土の地面が増えてくる。街が近づいているのだ。緩やかな下り坂の小道を老人が歩いてくる。先にいた船員たちが何気なく挨拶をして通り過ぎていったのを目で追う。
ここまで近づいてきたのはこの老人が初めてだ。ばれないようにしなくてはならないと考えると、自然と体が緊張する。
「頼むから余計なことして怪しまれるなよ」
レパードに小声で注意されて、平静を装う。目の前の人物が見えたとき、リュイスの会釈をする気配がした。イユも同じようにする。
老人もまた、同じ動作をしたらしい。両手に持った木の桶のなかで水が飛び跳ねる音がした。
老人の姿が小さくなったところで、イユは口を開く。
「あの人は何で水を運んでいるの」
「羊にやるのでしょうね。街に井戸があるのだと思います」
リュイスの説明にはまだ納得できなかった。羊はたくさんいる。二桶ずつではきりがないだろう。
「魔法石は?」
「あれは、旅暮らしをしている奴が使うものだ。水が近くにあるなら、わざわざ高価な石を買う必要はないだろ」
レパードの答えに、初めて魔法石が貴重なものであることを知った。




