その40 『別れ』
肌寒さを感じて目を開ける。視界には、がらんとした部屋が映っていた。身体を起こし、周囲を見回す。レパードも刹那もおらず、一人だった。もう看る必要はないと判断されたのだろう。確かに身体は軽く、動けそうだ。
空腹を感じたところで、テーブルの上に籠が置かれていることに気がつく。そのなかに、サンドイッチが入っている。
一口齧ると、キュウリの瑞々しい食感が口の中で爆ぜた。パンは少しかさついていたが、指の痕がつくほどには柔らかい。
恐らくはこれが最後のセーレでの食事だろう。時計が朝の八時を指していることを確認して、最後のひと口を頬張る。
のろのろと着替えをすまし顔を洗っていると、レパードの声がした。
「おい、起きているか?」
返事をした途端に扉が開く音がし、何事かと思う。
「準備をしろ。イニシアが見えた」
別れはあまりにも早く感じた。
髪を梳かし鞄に服を詰めたところで、痺れを切らしたレパードに腕を掴まれる。
「ほら、行くぞ」
部屋を最後に眺める暇もなかった。引っ張られるままに廊下を歩く。強く握られるせいで痛かったが、痛覚を鈍らせて我慢した。恐らくは逃げられる心配をしているのだろう。常に掴まえておけば、レパードは魔法が放てる。そう判断しての行動と思われた。
甲板へと出ると、そこには既に何人もの船員たちが待機している。
飛行岩がぶつかった影響だろう、甲板に幾つもの大穴が空いている。よく墜落しなかったと言いたくなるほどには、ぼろぼろになっていた。刹那が修理をしないといけないといった意味がはっきりと分かる。
船員たちはそうした大穴を避ける形を取りながらも、かろうじて一列に並んでいる。そのなかに、クルトを見つけた。イユの視線を受けて、肩を竦めてみせる。
自分にはどうにもできないと、そう言われている気がした。
「ここで止まれ」
レパードにそう告げられ、船員たちの前に立たされる。視線が突き刺さった。
列の中から、リュイスが飛び出てくる。
「あの……、気分はどうですか?」
最悪だ。
船員たちの顔を順に眺めてそう思う。怯えたように伺う顔に、嫌悪の表情、同情の視線。関わりたくないのか視線を外す男もいた。それからクルト。その次にマーサが見えた。マーサは心配そうな顔を向けてくるが、リュイスのように駆け込んではこない。見る限りでは、リーサの姿はなかった。
「毒ならもう平気よ」
そう答える間に、刹那が船内から出てくる。
「行く?」
「連絡できてなくて悪い。刹那は今回、別行動だ。船を頼む」
刹那は大人しく頷き、列へと並びにいく。イユに視線を向けることもなかった。
思わず手を伸ばしかけたが、掴まれた腕が言うことを聞かなかった。仰ぐと、レパードの紫の瞳がイユを見下ろしている。
視線を外したレパードが、船員たちへと声を張り上げる。
「お前ら、今朝話した通りだ。イニシアでは二日間停泊する。だが、警報が鳴ったらすぐにここへ来い。間に合わなかったら鳥を使え。以上」
船長の言葉を合図に、船員たちから声が上がる。その熱に当てられて、しゃがみたくなった。
刹那はイユたちのことを一瞥することなく船内に戻っていく。クルトは見張り台を登り始めた。他の船員たちは渡り板を用意し、セーレを下りていく。補給をするためにイニシアに行くと言っていたことを思い返し、あの船員たちが物資を調達に行くのだろうと当たりをつける。
イユはそれらの様子を見、ふっと息を吐いた。皆が動き始めたことでイユに向けられる視線はなくなり、居心地の悪さがなくなったのだ。考える余裕ができたことで、恐らくはここから放り出されることになるのだと気がついた。今のうちに少しでも状況を確認すべく、周囲を観察する。
まず、甲板を見渡して初めに気付いたのは、帆が全て畳まれているということだった。船員たちが下りていく様子からもはっきりしているが、セーレはどこかに停泊しているらしい。冷風が波の音を運んでくるから、水辺に船をつけているのだろう。
船員たちが下りていく先には、洞窟のような岩壁が確認できる。
反対側を見やると、雲のぽつりと浮いた青空があった。そこからやってきたことが推測できる。
構造をみるに、ここは入り江かもしれないと予想する。そして、入り江の先に洞窟があるのだろう。
観察しているうちに、甲板に残された者たちが両手で数えられる程度にまで減っていく。船を下りなかった船員たちの大半は手に工具を持って、船内に入っていった。今から、修理に入るとみえる。
「俺らも行くぞ」
レパードの声に、隣にいたままだったリュイスが頷く。
「私は?」
そのまま引っ張られそうになる。現状が分からず、咄嗟に聞く。
「ここでお前を解放したら、イクシウス政府にこの場所を報告される危険性がある。俺らがここを発つまでは一緒に行動しろ」
報告なんてするはずがないが、どうやらここでいきなり一人放り出されるというわけでもないらしい。安堵している暇はなかった。また引っ張られそうになり、慌ててマーサを呼ぶ。
彼女もまた他の船員と違い、ずっと列に残っていたのだ。
「マーサ、ねぇリーサは!」
リーサとは、もう二度と会えなくなる。マーサならばリーサについて何か答えてくれるはずだとの予感があった。
マーサが悲しげに俯く姿を捉える。
「リーサちゃんは……」
「行くぞっ!」
痺れを切らしたレパードに引っ張られる。
「リーサがどうかしたの? ねぇ!」
マーサから、答えはない。
しかしここにいないということは、リーサはイユに会いたくないのだろう。
暗い気持ちが、イユを包む。冷気が足元から忍び寄って、心に染み込んでいくかのようだった。
引っ張られて、大人しくセーレを下り始める。修繕したばかりの黄色のドレスが、虚しく風になびくのが視界に映った。
渡り板の先の地面は白い砂になっていて、まるで白骨のようだ。砂に足を取られながら進む足は、ごうごうと吹雪く向かい風の抵抗もあって、ただただ重い。
暫く経った後、イユはふと自分の名前を呼ぶ声を聞いた気がした。
期待はしていなかった。あり得ないことだと決めつけていた。
だが、振り返った先に、船尾にて手を振る人影を見つけたのだ。視力を調整して、気がつけた。
「リーサ……!」
彼女の水色のドレスが、はっきりと目に入った。
耳に意識を持っていくと、何度もイユの名前を呼んでいることに気付く。目頭が熱くなった。たまらず、掴まれていないほうの手で振り返す。相手に届くようにと、何度も振り続ける。
イユですら視力を調整しないと見えない距離だ。リーサの目にその様子が見えたかは分からない。
リーサは一通り手を振り終えると、マーサのもとへと駆け寄っていった。船内に入ったのか、姿が見えなくなる。
「……行くぞ」
レパードの声に頷き、イユは手を下ろした。




