その391 『見間違えました』
(始まる前から、疲れたわ……)
どっと疲れを感じつつ、イユはシェリーの後を慣れぬドレスで追う。気を付けないと足を捻りそうだ。靴も履き慣れていないし、足も動かしにくいことこの上ない。こんな衣装を平然と着こなす貴族には、間違ってもなれそうにない。イユは自分の出自を棚に上げてそう心の内で断言した。
それにしても、たかがお茶を飲んでお菓子を食べるだけだというのに、何故マナーとかいう縛りが大量にあるのだろう。イユの読書速度が遅いので殆どシェリーに読み上げてもらう形になったが、そのあまりの量に驚かされた。着席の仕方に、食べる前の挨拶、食べているときの仕草、一つ一つに注意がある。好き勝手食べようとすれば、それは貴族にとって卑しい庶民の証になるらしい。わざわざそんな形式にこだわる『魔術師』たちが全く持って意味不明だ。
(きっと、美しい食べ方という規範を作ってそれを真似さえすれば、優越感に浸れる人種なんだわ)
そんな考えが根底にあるせいか、さっぱりマナーが頭に入っていかなかった。そんなイユに、シェリーの冷たい視線が突き刺さって、先ほどまでの時間がまさに悪夢であった。完全に愚か者だと見下された目で見られ、しかし言葉だけは丁寧に、ぐちぐちとシェリーに静かにどやされ続けたわけだ。できれば二度と経験したくはない。
「段差にお気を付けください」
慣れないドレスのせいで盛大に転ぶと思われたのか、道の先でシェリーの注意が入った。頷きながらも、それならこんな衣服を着なければいいのだと不満を口にしたくなる。口が僅かに開いたところで、視界の先にある扉に気付いて、口を閉じた。
あの扉の先は、レパードたちが使った寝室だ。最もレパードはクルトと出かけたはずだから、今いるのはレッサだけなはずである。
いなくてよかったと心のなかで溜息をついた。このドレス姿をみせたら、あまりの別人具合に笑い種にされるのが見えている。クルトとレパードの二人は要注意だ。レッサはそういう点、からかう側ではなくからかわれる側の人間だから、問題ないだろう。
シェリーが先に扉の前に立つと、トントンとノックをした。少しして、「はい」という声が返る。レッサの声だ。
「お迎えに上がりました。イユ様もいらしております」
「ご苦労様です」
シェリーに返したのは、今度はしゃがれた声だった。
イユはあれ?と首を傾げる。この声は、フェフェリだろう。何故、フェフェリがレッサとともに待っていたのか不思議に思った。
暫くして、扉が開いた。まず、フェフェリが扉の先で出迎える。礼をしたその拍子に、後ろで控えていたレッサに気付く。
「レ……」
レッサと声を掛けようとして、イユの声は途切れた。
艶のある金髪を頭になでつけた、如何にも貴族然とした品の良い少年がそこにいた。白い肌に浮かんだ青い瞳に、男のものとは思えない長いまつ毛、すっとした顔立ちのせいで、自然と顔に目がいく。線の細いどこか儚げな姿は、確かに一部の女を惹きつけるだろう。それなのに、ぴしりとしたタキシード姿が、あまりにも様になっている。余計な肉がない、細い体つきに、タキシードは意外と映えるのだと思わされた。
少年と、イユの目と目が合う。ぱちぱちと瞬いたタイミングさえ、一緒だった。そうして一時の間を経て、ようやく口が、『だ』の形を作る。
二人の疑問の声が、同時に飛び出た。
「「誰……?」」
知らなかった、人間とは化けられる生き物なのだ。
「失礼します。お嬢様、お客様をお連れしました」
「お入りなさい」
シェリーの声に、ジェシカが答える。それを受けて、扉が開かれた。
「お待ちしておりましたわ」
扉の先で、ジェシカがにこにこと笑みを浮かべている。今日の彼女は翡翠色のドレスに身を包んでいた。まるで羽のような生地のおかげで、さながら森の妖精のようだった。あとで聞いた話だが、オーガンジー生地を多用しているらしい。
殊更に張り付いた笑みを浮かべたジェシカに、半ば恐ろしさすら感じつつ、ひとまず頭を下げる。
そのイユの姿を見て、ジェシカがぼそりと呟いた。
「……負けましたわ」
一体何を張り合っていたつもりだったのか、聞こえてしまったイユが分からないから厄介だ。イユの戸惑いに気づいたのか、ジェシカが不自然なほどにこりと笑った。
「中々お似合いですわね」
目の端から火花のようなものが飛んできそうなあたり、絶対にそうは思っていない顔である。イユはその視線に耐えながら、何とか社交辞令だと言い聞かせた。「それはどうも」と返せるあたり、成長したと胸を張りたい。
ところが、ジェシカは、イユの誠意などまるで見ていなかった。頬を赤らめて、「まぁ!」と声を上げる。
すぐに気が付いた。ジェシカの視線の先にいるのは、レッサだ。イユも見違えたレッサの姿に、ジェシカは胸を打たれたようだった。暫く言葉も告げられずに、突っ立っている。
そんな様子をみてか、フェフェリが困ったようにコホンと咳払いした。
「お嬢様、あまりお客様を立たせてしまっては……」
ジェシカはそこで初めて、意識を取り戻したような顔をした。
「言われなくても分かっております。では、早速まいりましょう」
間違いなく分かってなさそうだったが、突っ込むのは控えておいた。
ジェシカの視線の先には、庭がある。
召使の一人が庭と部屋の間にあったガラス扉を開け放つ。その途端、ひんやりとした洞窟特有の風が、イユの頬を撫でた。ウルリカの花の香が鼻腔をくすぐる。




