その390 『お着替え時間』
「失礼します」
こちらから何かを言う前に、いきなり背後に立たれて、何かを巻きつけられる。ぎょっとしたイユは退こうとして、気が付いた。メジャーだ。
つまるところ、シェリーは採寸をしているらしい。反射的に振り払う姿勢になっていたイユは、大人しく元の姿勢に戻る。
あっという間に採寸を終えたシェリーは、「失礼します」といって部屋を飛び出ていった。
ぽかんとしていると、数分後に一着のドレスを持って帰ってくる。
「こちらにお着換えください」
見るからに赤いその服は、どこかブライトのドレス姿を連想させられてぎょっとなった。
「えっと、これは……?」
びくびくしながら聞くと、シェリーは静かに首を横に振る。
「お嬢様が大きくなったら着ていただこうと思っていたものですが、サイズは合うはずです」
どうもジェシカ用に用意してあった服の様だ。
受け取ったイユはドレスのふわふわとした生地に困惑する。こんな素材の服を着た経験はない。そもそも勝手に人の服を着てよいものなのだろうか。
イユの表情を読んだように、あくまで淡々とシェリーが答える。
「御心配には及びません。お茶会に旅姿で押し掛ける方が失礼かと」
そもそも、選択の余地がなさそうだ。ぼんやりとしていると、シェリーに「お着換えは手伝わせていただきます」と言われてぎょっとなる。
「い、いらないわ」
まさか、貴族という者は、着替えさせてもらうのが当たり前なのだろうか。イユが子供のころもそうだったのかと、必死に記憶を辿るが、全く思い出せない。そもそもイユの記憶で残っているのが暖炉の前で絵本を読む母ぐらいなものだから、仕方ないと言えば仕方がないのかもしれない。とりあえずと、イユはドレスに着替えようとして、すぐに手伝いが必要な理由に気が付いた。
「……ここのファスナーだけは閉めてもらえる?」
なんでこんな作りになっているのだろう。あり得ない服の作りに、文句を言いたくなる。シェリーに大人しく閉めてもらいながら、イユは鏡に映る自身を見た。
ひざ下まで伸びた深紅のドレス。袖のないデザインの代わりに、腕はブライトのような手袋をはめている。こうしてみると自分でも意外なほどに琥珀色の髪にドレスが映えた。
「お履物はこちらでお願いします」
赤いヒールの靴は履いた途端、ぎゅっと押される感じがして痛かった。サイズが合っていないのだろうが、文句は言えまい。むしろドレスのサイズが合ったのが奇跡的だ。と思ったのだが、すかさずシェリーが手に携えてきた。
「……足りないところは詰めます」
確かに所々隙間は見えているかもしれない。
「普通はきつめに作っているのですが、お客様の場合は逆のようですね」
初めてシェリーが感想らしい感想を告げたので、イユはきょとんとなった。今の今まで、事務的な言葉しか吐かなかったメイドだ。意外な心地がしたのだ。
「髪を結いたいので、お座り下さい」
シェリーの無表情と淡々とした言葉に、大人しく席につく。すぐさまシェリーが手に持ってきたのは赤いウルリカの花だ。
「失礼します」
櫛で髪を梳いていく。その滑らかな動きに、イユはシェリーというメイドがただ不愛想な人間でないことに気付く。とても丁寧なのだ。表情は硬くとも、仕事はきっちりするタイプなのだろう。
ハーフアップにまとめた髪は、ただまとめただけではなく、ねじりを入れていく。そうして結んだ先に、ウルリカの花を添えた。前髪は流して、目にかかりそうな部分は編みこみを入れていく。ハーフアップの先では一部、三つ編みまで編むという手の入れようだ。
「お目を閉じてください」
シェリーに言われるがまま、イユは目を閉じた。顔を毛のようなものではたかれていく。何をされているのかよく分からないまま、大人しくしているしかないことに、少し危機意識を感じた。もし、シェリーが『魔術師』だったら、イユは格好の的だったことだろう。
「はい、お目を開けてください」
言われた通りに目を開けると、目の前のシェリーが赤い何かをイユの唇に塗った。慌てて口を開いたために、その何かがずれたらしい。シェリーの冷たい目に射抜かれる。
「大人しくしていてください」
イユのせいでいつもより時間がかかったのは、大体察せられた。シェリーの無表情な顔が心なしか険しく見えるのは、自分の気持ちの問題だろう。気づいたときには、肩をがっちり抑えられた状態で、顔にいろいろ塗られる始末だ。
「お化粧が終わりました」
ようやく鏡をじっくり見せてもらって、イユはぎょっとした。目の前にいたのが誰か分からなかったのだ。琥珀色の髪や先ほど確認した深紅のドレスは同じだが、顔が違ってみえる。シェリーは何か魔術を使ったに違いないと、恐々とした。
「お好みの香りをお選びください」
シェリーが小瓶をいくつか詰めた箱を差し出す。それで、香水だと気づいたイユは、すぐに近くに置いた鞄を見た。
「持っているからいいわ」
鞄から出した香水を、自分でつけようとして取り上げられる。何でもつける箇所が違うらしい。よくわからないながらもつけてもらった。
「これで完成です。お茶会までの間、くれぐれもそのままの状態でお待ち下さい」
イユがすぐに化粧を崩すと思ったのか、シェリーが念を押す。
「必要であればロープを持ってきます」
「ちょっとそれどういうことよ」
拘束されるイメージしかわかない道具を名前に引き出すシェリーに、イユはびくりとする。冗談を言う人間ではないうえ、やりかねない冷淡さをシェリーから感じるからこそ、恐ろしい。
とはいえ、この時には既に時刻は8時を過ぎていた。長すぎた化粧タイムに既に疲れを感じながらも、大した待ち時間でないことにほっとする。客間まで距離があることを考えると、実質一時間にもならないのだ。
「……お暇でしたら、書籍をご用意いたしましょうか」
「書籍……?」
「マナー本にございます」
要するに、今のうちにお茶会で失礼をしないよう、マナーを覚えさせたいらしい。シェリーに段々遠慮がなくなってきているのは、気のせいだろうか。釈然としないものを感じながらも、大人しく頷いた。




