その389 『花の浴室』
「これは……、花?」
バスタブに浮かぶ赤いモノを前に、イユの思考は固まった。どうみてもウルリカの花だ。それが底に溢れんばかりに満ちている。部屋をはじめにみたときは、バスタブの底までは見なかったから気づかなかった。
まさか、花風呂なんてものが世の中にあるとはと、呆然としながら蛇口を捻る。熱湯にさらされた花が、水流によってくるくると回っている。この風呂をクルトは入ったのだろうか。中々に想像に難しいが、あの企むような顔を見るに間違いないだろう。
気になったのは男風呂だった。まさか、レパードたちもこんな花まみれの風呂に入ったというのだろうか。花に埋もれたレパードを想像して、笑ってしまう。似合わないにも程がある。
「くしゅん」
寒さに思わずくしゃみをしてから、イユは自分が裸のまま立ちっぱなしなのに気が付いた。いくら衝撃でも、バスタブをいつまでもにらんでいるわけにもいかない。気を取り直して、シャワーを浴びる。
砂漠の炎天下のなか全身を焼かれ、汗と砂にまみれ、おまけに地下のじめじめとしたカビ臭い空気にもさらされた後だ。新鮮な水は、まさに天恵のようだ。
最も、イユがマゾンダの街にたどり着いてから気を失っている間に、体は拭かれたらしく、砂っぽさについてはあまり残っていなかった。
だが、それでも自分の意思で水を浴びることができるというのは、気持ちの良いものだ。
床にはじく水の音を聞きながら、ふと自身の肌、腕から肩にかけて――、を確認する。以前まであった烙印はそこにはなく、白い肌が露わになっているだけだ。それ以外の傷も、イユの肌には一切ついていない。全て異能で消せるからだ。
傷の類は水に触れると沁みるだけだから、すぐに消し去ってしまうのが無難だ。本来なら日焼けで赤くなる肌も、イユの異能に掛かれば白いままだった。
(異能か……)
この異能がなければ、イユは『魔術師』としての人生を送っていたのかもしれない。それとも、あの雪の日に襲ってきた襲撃者たちによって命を絶たれていたのだろうか。広い浴室を改めて見回す。前者だった場合、イユもこういう暮らしをしていたと思うと、どうしても違和感がある。馴染める気がしないのだ。今ではイユはすっかりセーレでの生活が当たり前になってしまっている。
(あのジェシカという『魔術師』は、この生活が当たり前なのよね)
当たり前のように豪奢なドレスを着て、当然のように豪華な生活を送っている、恐らくは十二歳程度の子供。生活が違いすぎて、価値観など合うはずがない。それを実感する。
(でも、ワイズやブライトも同じ『魔術師』だわ)
ワイズたちも同じような暮らしをしていたのだろう。
しかし、彼らがイユたちと一緒にいて不満を口にすることはなかった。着ている物は豪奢だが、それもジェシカほどではない。あくまで旅姿に耐えられるものだ。
(ひょっとして、ジェシカが特別なのかしら?それとも、アイリオール家が質実剛健な気風とか?)
考えていても答えは出ない。イユの知っている『魔術師』といったら異能者施設にいたシーゼリアたちや、一緒に旅をしたブライトたちだけだ。
しかし異能者施設の『魔術師』たちは、研究服のつもりなのかそれほど豪奢なドレスには身を包んでいなかった。それは場所が場所だからなのだろうことは、想像に難くない。そうなると判断がしにくいのだ。
髪と全身を洗い終えると、バスタブに浸かる。赤いウルリカの花が溢れかえったそこに、イユという重みが加わって、バスタブから花が飛び出そうになる。慌てて抑えていると、ウルリカの花の香が鼻についた。いい香りではあるのだが、常にこの花にまみれていると、『魔術師』の手のひらの中で踊っている気がして良い心地はしない。
だが、だからといってすぐに上がる気分にもなれなかった。久しぶりの湯舟に浸かるという行為に、体が休まるのを感じる。目が覚めていたのに、ずっと浸かっていると瞼が重くなってくるから不思議だ。
まだどこかで気が張っていたのだろう。ウルリカの花には、相手の緊張を和らげる効果があるのかもしれない。
(今日は、きっと忙しくなる)
始めの山場はお茶会だが、レパードたちがギルドから戻ってきたら、サンドリエに行くことになるかもしれない。サンドリエの特徴なら、ジェシカも知っているだろうか。お茶会が社交の場だというのなら、こちらから聞いてみるのも手かもしれない。
(そろそろ出ましょう)
湯舟から身を起こす。イユの体に乗っていた赤い花が、その動きに耐えきれずに床へと飛び散った。
服を着替え部屋に戻ると、クルトの姿は既になかった。時刻は6時。今頃ギルドで殺到する列に混じって順番を待っている頃だろう。イユの予想では、マドンナの死の混乱は一日経とうと落ち着くことは無い。ギルドは一日中運営しているが、そこにいる従業員たちは疲労困憊だろう。彼らも詳細を知っているわけではないのだ。
ドレッサーに腰かけた。大きな鏡に自分の姿が映っている。湯上りなのもあって、頬が少し朱に染まっている。
お茶会というものに参加したことは無かったが、身なりに気遣う貴族たちの社交の場ということは、それなりの恰好はするべきかもしれない。こういうとき、リーサがいればイユに的確なアドバイスをくれただろうが、ここにリーサはいない。てきとうに自分で何かして見ようとも思ったが、御洒落というものに縁がないせいでさっぱりわからなかった。クルトはどちらにせよこういったことには詳しくなさそうだから、当てにならない。
そうなると、他に頼れる女子というものをイユは知らない。こうなってくると、レパードやレッサに聞くしかないのだろうが、彼らに果たして身支度について聞いてもよいものか。
悩んだ末、備え付けられたベルを鳴らした。
数秒後、ノックの音が響く。思わぬ早さに、始めから待機していたのではないかと疑うほどだ。
扉を開いた先で、シェリーが礼をしながら待っていた。
「いかがなさいましたでしょうか」
「……今日のお茶会だけれど、どういう恰好をすればよいのか分からなくて」
シェリーがそれを見て、すっと姿勢を正す。舐め回すようにイユの姿を見つめた後、「承知しました」と答えた。
一体何を承知されたのだろう。具体的に指示をしたわけではないので、よくわからずにいるイユは、気づいたらもう一度ドレッサーの前に立たされていた。




