その388 『屋敷での日常』
次の日、足音に気付いて目を開けたイユは、シェリーのノック音と同時にその扉を開けた。
「おはようございます、イユ様」
全く動じた様子の見られない、相変わらずの無表情に、イユは少し気に入らない。イユがシェリーの足音に気付いたように、シェリーもイユの足音を聞いていたような気がしたからだ。
「イユ様宛に、ご招待状が届いております。お受け取り下さい」
イユの表情には気づいていただろうに、あくまで淡々とシェリーが招待状を渡す。同じ屋敷にいるのだから招待状も何もないだろうにと思いつつも受け取ると、続いてシェリーが籠を差し出した。
「こちらは朝食でございます。お部屋でお召し上がりくださいとのことです」
籠に入っているのは、パンの類だった。ふわふわな丸いパンから仄かに湯気が立ち昇っている。なんと焼き立てだ。思わず喉がごくりと鳴った。
「ありがたくいただくわ」
すかさず受け取るイユの前で、シェリーが礼をする。
しかし、そのときには、イユの視線は籠に向いていて、扉が閉まるのも気が付かない程だった。
「クルト、朝ご飯よ!」
駆け戻ると、まだベッドに籠っているクルトに声を掛ける。
「うー、まだ寝てたい……」
「遅くまで起きてるからそうなるのよ」
結局寝たのは3時だったのだ。それを指摘すると恨めしそうな顔のクルトがベッドから顔を出した。
「今、何時だと思ってるの?4時半だよ、4時半。1時間半しか寝てないのに何でそんなに元気なのさ」
いつも作業をしているときは睡眠時間などまるで気にしていないようにみえるのに、一般人のように愚痴られるのは極めて謎である。
「睡眠不足は食事で補えばいいのよ。ほら!」
籠のなかのパンをみせたが、クルトはあまり乗り気でない様子だ。
「睡眠不足って栄養で補えるもんだっけ。まぁ、いいや。1個頂戴」
ベッドから手だけを伸ばすクルト。イユはその手をぷいっと無視することにした。
「だめよ、ベッドで食べるなんてはしたないわ」
「嘘、イユが行儀を説くの?夢見てるのかな、もう1回寝れば覚めるかな……」
失礼極まりないクルトである。イユは言ってやった。
「そうね、これは夢よ。目が覚めたら籠の中身は空だから」
さすがに朝食抜きは堪えるのか、クルトがベッドから跳ね起きる。
「そんな殺生な。起きる、ちゃんと起きるって」
先ほどまでの様子はどこへ行ったのやら、すぐさまイユの元へと駆け付ける。
仕方がないので、イユはパンを一つ手渡してやった。
「うわっ、さすが昨日フルコースが出た屋敷。パン一つとってもありえないぐらいふわふわじゃん」
イユはすぐさまパンを頬張る。噛んだ瞬間、パンとは思えない柔らかさに、バターの味が広がる。ほっぺたが落ちるとはこのことを言うのだ。
籠一杯に入ったパンを食べつくすのに、五分と掛からなかった。
「……美味しすぎた。お茶会断るんじゃなかった」
クルトの後悔の声に、イユは得意気になる。
「堪能してくるわ」
悔しそうなクルトの視線が、いっそう心地よい。
「そういえば、招待状を貰ったんでしょ。中を開けてみようよ」
食べることを優先していて、すっかり忘れていた。イユはそそくさと手紙を開封しだす。
途端に、ウルリカの花の香がふわっと漂った。
「……妙な魔術の類じゃないわよね」
匂いの類は、心配になる。眉間に皺を寄せながら開こうとするイユに、クルトがポシェットから小瓶を取り出した。
「匂いが心配なら、これを持っていけばいいよ」
さすがはクルトだ。この手のことも任せてよいらしい。喜んで小瓶を受け取ったイユは、瓶の蓋を緩めたところで、思わずむせた。
「これ、凄い匂いね……!」
むせかえるような香りに、一気に眠気が持ってかれる。眠気覚ましにも良いだろう。
「ただのミントだけど、匂いに対抗するなら匂いでしょ」
仕返しとばかりに嬉しそうな顔をしているのが、癪に障るが、一理ある。この強い匂いなら、確かにあらゆる魔術の効力も吹き飛ばしそうだ。
「ありがたくお借りするわ」
お茶会でも使われることを想定して、自分の鞄にミントの香水の小瓶を入れた。
「レッサにも後で渡しておくよ。それで、肝心な手紙の中身は?」
言われたイユはようやく、手紙を取り出す。見るからに上質な白を基調とした紙に、切り貼りされた花の模様が施されている。外装からして、イユのような卑しい人間が受け取るべき品ではない。すぐに畳んで本来の持ち主に返してやりたくなった。
「ほら、早く開けてよ」
「……分かってるわよ」
二つ折りされた手紙の中身をそっと開く。そこには、達筆な美しい文字が書かれていた。今ではイユも読むことができる。
「何々?今日の9時に客間へお越しください。結構時間あるじゃん」
乗り出したクルトがすらすらと文字を読んでしまい、イユは少し悔しくなった。読めるには読めるが、クルトほどスムーズに読むことができない。1文字ずつ思い出しながら読むとどうしても、時間がかかってしまうわけだ。ましてや、文章が同じ文字かといいたいほど、言い回しが独特で理解しがたい。クルトのように、一瞥しただけで要約できるようになるには、先が長そうだ。
「まだ寝れるけど、どうする?」
そのクルトの言い方に、願望が入っている気がした。
「クルトはそろそろ行かないとだめよ?」
希望を絶ってやると、「分かっているよ」とむくれられる。
「私は、お風呂でも入ってくるわ」
その言葉に、クルトの表情が180度変わった。如何にも企んでいるような視線を向けてくる。
「ぜひ、堪能してくるといいよ」
意味深すぎる。だが、幾ら追及しても答えるつもりはないようだ。
気になったが、実際に入ってみるしかないだろう。イユは、すぐに浴室に向かうことにした。




