その385 『いつもの調子で』
「まぁ、レッサも言ってたもんね。『為さねば決して成らない。だが、為せば成ることもある』って」
レッサの言葉を引用してから、クルトは少し肩を竦めた。ぼそりという本音を、イユは聞き逃さない。
「最も、ボクはそんな楽観的にはなれないけどさ」
クルトが変わったように見えても、こうして現実を直視していくクルトの姿勢は何も変わっていない。だからこそ、クルトの発言は厳しく、イユの心を穿った。一方では、クルトと同じことを考えていたというのに、言葉にされると、どうしてだか重みが違う。
「……ボクはさ」
そのイユの表情に気付いたように、クルトは手すりにもたれかかって天井を眺めた。
「好きなように生きられればそれでいいと思っていた。ボクのことだけじゃないよ?ボクがそう思うように、他の人も皆、好きなように自分の人生を生きれば、皆が幸せになるんじゃないかって。間違っても他人のために命なんか張って、他人の為だけに人生を浪費するような生き方はすべきじゃないって」
クルトに以前、セーレに残りたいと言ったとき、あっさりと了承されたことを思い出した。あのとき、クルトは、イユがやりたいことを優先してくれたのだと、改めて実感する。
「でも、それだけじゃだめなんだ。ボクの家族がそうと知らずに苦しんでいる。仲間が辛い目にあっている。ボクの家がなくなった。そんなときに、好きなことをやっている場合なんてないんだよ」
心置きなく好きなことをしたいから。それも理由の一つだったかもしれない。しかし、クルトはそれでは足りないことに気付いたのだというのだ。
「ボクは、今まで知らなかった。ボクは幸せ者だったんだ。だから、好きなことができた。ううん、好きなことをやらせてもらえた。そのことに、失った今頃になって、ようやく気が付いた」
好きなことをさせてもらえる自由があった。確かにそれは、イユからしてみれば幸せ者と呼べるだろう。イユは生きることで精一杯な時期が長かったから、その有難みがはっきりとわかる。クルトが、ラビリをはじめとする周囲に助けられていたこともだ。
イユには、ジェシカの存在が浮かんだ。レッサに惚れ込み、恋敵だと思った相手を牽制のためにかお茶会に誘う。彼女もまた、クルトとは違う方向を向いていたとしても、同じように自分の好きなことをしている。クルトが抱いた苦手意識は、ひょっとしなくても……。
「同族嫌悪?」
クルトがはっきりと嫌そうな顔をした。
「どういうこと?」
理由を聞いているが、もうすでに説明しなくても理解しているだろうと思えるぐらいには、クルトの顔は渋い。
「ジェシカへの苦手意識よ。そんな感じがしたから」
それでも、一応は説明するイユに、クルトの顔は苦さを増すだけだ。
「……さすがにあそこまで能天気な自分は、想像したくないけど」
どうにもこうにも、図星だったらしい。
「私は、それほど悪いことのようには思えないけれど」
クルトの忌避に疑問をはさむ。
クルトはそんなイユの言いたいことが分からないらしく、視線をイユの方へと向けた。
こうしてみると、僅かな光を浴びて光る蒼い瞳は、まるで宝石のように光沢がある。
「幸せ者だったということに気付いたのなら、それは確かに新たな発見かもしれない。けれど、自覚しようがしまいが、その人の環境や立ち位置が変わるわけないもの。むしろクルトは今になって気づいてしまった分、辛いだけだわ」
イユの意見に、クルトは頭を掻いた。
「そうなのかなぁ。でも、その幸せは誰かに与えられないと享受できなくて、本人はそれにさえ気づいていないんだよ。……周囲がかわいそうじゃないの?」
イユは、ラビリを思い起こす。果たして、クルトのことで、ラビリは可哀想だったのだろうか。ラビリが悲しんでいたのは、クルトを幸せにできなかったことだ。けれど、今のクルトは自分が幸せだったという。それなら、クルトが幸せになることで、可哀想な存在になるということは、起こり得ない。それでも、クルトがそう考えてしまうのは、ラビリが報われないと思っているからだろう。周囲の頑張りを、何らかの形で返すべきだと思っているに違いない。
「クルトは、優しいのね」
イユの感想に、クルトは噴き出した。
「そういうのは、リュイスに言ってよ」
どうみても、ボクのキャラじゃないでしょ。そう言うクルトは、照れているというわけではなく、本気で否定している様子だ。
「確かにリュイスも優しいと思うけれど、クルトだってその考え方は優しいの部類だわ」
「いやいや、優しいの基準が甘すぎでしょ。 優しいって言うのは、リュイスみたいに見かけた人を片っ端から助けようとしたり、リーサみたいに他人を助けようとしてそれができずに苦しむような人のことを言うんじゃないの?」
その話で、クルトも、リュイスやリーサに対して似たようなことを思っていたのだなと気づく。
だが、それはそれとして、リーサの心の在り方とクルトの心の在り方は似ていると思ったのだ。
「リーサは自分が無力だったことで助けられずに苦しんでいたでしょ?クルトは、自分が今まで無関心だったことで、他人に迷惑を掛けたと思っているんでしょ?似ているじゃない」
そう言われたクルトは、とても微妙な顔をした。
「ボクはあんまりそうは思えないんだけど……」
イユは、そんなクルトに言葉を掛け続ける。
「それに、クルトは好きなことをしていたつもりでも、その好きなことは間違いなくセーレの皆にとって良いことよ?私も、靴に鞄にいろいろお世話になったわ」
そう言われて初めて、まんざらでもなかったのか、クルトが鼻の頭を掻いた。
「まぁ、好きなことで役立てるのが一番良いことか」
イユの頷きに、クルトはようやく肩の荷が取れたように、伸びをする。
「なんか話してたら、どうでもよくなってきたかも。ごちゃごちゃ悩むのがそもそもキャラじゃないや」
そうして、クルトは改めてイユに向き直った。その顔には、先ほどまでの暗さがない。
きっぱりとは言わないまでも、切り替えることができたのだなと感じる。こうした割り切りの良さが、いかにもクルトらしい。
「こんなことになっちゃったからさ、いろいろ思うところはあるんだけどさ。とりあえず、レッサの言う通り、今ある場所から頑張るしかないんだよね」
現実を直視できるクルトだからこそ、絶望的なこの現状から希望が抱けなかった。だが、いくらドン底に堕ちたとしても、足掻き続けるしかないのだ。それが、クルトの結論のようであった。
「幸い、ボクの姉さんは生きているんだもんね。レッサだって、船長だって……、イユもいるしさ」
「そうよ。クルトがくよくよ悩むなんて、らしくもないことはするべきじゃないわ」
「……なんか、イユのなかのボクがどんな存在なのか気になるんだけど」
何か言いたげなクルトの視線に、イユはそっと視線を外す。少しからかってしまうのは、このやりとりを愉しみたいからだ。もう二度とできないと思っていた会話が、今ここで紡げている。
「寝ましょう。クルトは明日、早いんだから」
イユの言葉に、クルトは「そうだね」と同意した。
「おやすみ、イユ」




