その375 『助けたい』
手で口を抑え、杖ともどもベッドに寄りかかるワイズ。その指から、赤いものが覗くのをみても、暫く理解ができなかった。
「ワイズ様!これ以上、お体に負担を掛けてはなりません!」
誰よりも早く動いたのは、執事のフェフェリだった。ワイズに駆け寄ると、血がつくのにも構わず、彼を支える。その動きは、慣れているのだろうと周囲に悟らせるものだった。
「しかし……」
ワイズの反論の声が、いつもより弱々しい。元々病人のような土気色の顔が、蒼白だ。
「なりません!ジェシカ様が心配されます」
ふっと、ワイズの手で隠された口元が、緩む。それに嘲るように、そっとワイズの視線が下がる。
「だから彼女は、心配しませんよ」
どこか諦めたような口調。杖を持つ力もないのか、その手から杖が滑り落ちる。
がらんがらんという音が、何かの合図のように、響いた。
見ていることしかできないイユたちの前で、唐突に執事が、首だけで礼をした。その礼は、何故か拒絶の意思を感じさせる。
「申し訳ございません。これ以上は皆様のご期待に沿うことはできません」
その言葉の意味を呑み込むのに、時間が掛かった。イユが言葉を咀嚼し解釈するより先に、クルトの声が降ってくる。
「シェルは、助からないってこと?」
直接的な内容が、じわじわと頭に浸透していく。まるで、白いシーツに飛び散った赤色のように、絶望が広がっていく瞬間だった。
「……嘘よね?」
今度もまた、誰もイユの問いに答えない。
イユは、眼下のベッドを見下ろした。巻かれた包帯から零れた薄水色の髪が、閉じられた瞼が、青白い唇が、滲んでいる。その唇から、僅かに息が零れる。ボロボロの少年は、まだ生きているのだ。それなのに、助けられないという。
唇が切れて、血の味がした。ワイズを責める気にはなれなかった。ワイズの様子から、彼が命を賭して救おうとしてくれたのだとは分かっていた。けれど、それでも助けられない。その現実を受け止めるしかない。
(嫌よ)
堰をきったように、感情が零れた。
(そんなの、絶対に認めない)
少しでもシェルが生き伸びる可能性を探りたくて、シェルに祈った。
(死なないで)
シェルが無事であることを切に願う。握りしめた手は、真っ白になった。それでも、シェルの様子は変わってくれやしない。
どうすれば、彼は助かるのだろう。イユは滲みかけた視界越しに思案する。全身の打撲が、少しでも収まれば、目覚めるだろうか。射抜かれた目が治って包帯がとれたら、意識を取り戻すのだろうか。
(死なないでよ)
どうにも思い付かなくなって、代わりに、一緒に見張り台に登って、空を眺められた日々を思い起こす。シェルの、にかっと笑った笑みが、何故か眩しかった。
(だから、死なないで……!)
ふと、笑みを浮かべるシェルが遠ざかった気がした。どれだけ手を伸ばしても、その過去に届かない。どれだけ焦がれても、現実は変わらない。シェルは、傷だらけの状態で白いベッドに埋もれているだけだ。
とうとう、イユは、その首根っこを引っ張りまわしたくなった。勝手に死ぬなんて、そんなものは断じて認めたくなかったのだ。だから、思いが、口から飛び出る。
「生きなさいよ、バカ!」
突然の怒鳴り声に、クルトが目を丸くする。
「イ、イユ?」
そんな動揺の声は、聞こえなかった。
「高いところから落ちたぐらい、なんなの?目を射抜かれたぐらいで死にそうになっているんじゃないわ。シェル、あんたには待っている孤児院の子供たちがいるのよ!これぐらいの怪我、自力で治しなさいよ!」
それまでどちらが死んだかわからない顔をしていたレパードも、自分を取り戻したように慌ててイユを抑えにかかる。
「イユ、落ち着け。言っていることが無茶苦茶だ」
その手を振りほどいて、イユは罵倒し続けた。無茶苦茶なのは、百も承知だ。それでも、止めたくない。叱咤しなければ、シェルは永遠に目を覚まさなくなる。現実を受け入れざるを得なくなるのだ。だから、止められない。声をかけ続けるのを、止めてはならない。
「私に、心配を掛けさせるんじゃないわよ!お得意のサボり癖で、死から逃げてきなさい!そうしないと、……永久に甲板掃除させるんだから!だから!早く!治しなさい!」
目の端から飛び散った雫が、レパードの手に当たった。再びイユの肩を掴もうとしたレパードの手が止まる。
「イユ……」
同情するようなアメジストの瞳も、クルトの声も、見ている余裕もなければ聞いている余力もなかった。
そのとき、確かにイユは見たのだ。シェルの首が僅かに動いた。それは、肯定の動きのようにも見えたのだ。
「シェル!」
今見たものを気のせいだとは思いたくなかった。だから、もう一度確認するために、無我夢中でベッドに飛びついた。
そのおかげで、はっきりと捉えた。
シェルの瞼が、確かに震えている!
その姿はまるで、助かろうと足掻いているように、見えた。
「フェフェリ、杖を」
「しかし、ワイズ様」
「少しだけですから」
向かい合わせになったワイズが、杖を受け取って振り上げる仕草をした。その瞬間、零れた小さな光の粒子が、今眠っているシェルに注いでいく。
シェルが、苦しそうに仰け反った。
「シェル!」
イユの声に、諦めていたクルトが、レッサが、レパードが、近づく。
「見て、痣が!」
クルトが呟いた通り、包帯から覗いていた青痣がひいていく。苦しそうに喘ぐシェルの呼吸が、徐々に安らかになっていく。
(頑張って)
シェルに、祈りを捧げる。生きてと、死なないでと。それ以上は望まない。だから、今ここでその命を散らすことは、絶対に許さない。
(治しなさい!)
祈ったその先で、シェルの瞳がぱちりと開いた。
「ねぇちゃ……ん?」
掠れたその声を、はっきりと聞き取る。感極まる。それ以外に、イユの心情を表す言葉はない。イユの視界は滲みきって、折角のシェルの顔が全く見えなくなった。
「「「シェル!」」」
その場にいたセーレの皆の声が、重なる。目の前で起きた奇跡に、信じられないと言わんばかりの、驚愕。目を覚ましたことへの感動。そのどちらにせよ、皆が皆、明るい声だった。
「あれ、オレ?なんで……」
恐らく片目だけのせいで視界がおぼつかないのだろう。布団の下から取り出した右手で、自分の肌を触ろうとする。その手にも包帯がびっしりと巻かれていて、そのせいで思い通りに動かないのだろう、戸惑ったような声を挙げた。
「目を覚まして良かったよ、本当に……」
レッサの安堵の声に、シェルはしかし戸惑ったままだ。
「甲板長は……?」
シェルの呟きは、自分の心配ではなくミンドールのことだった。
「ねぇちゃん、セーレがどうなったか知っている?オレ、ミンドールの後ろに何人もの知らない人たちが現れたのを見て……」
まくしたてようとしたシェルの声が途切れた。ごほごほと、むせる。そのむせ方が思いの外酷かった。むせている間に痛みが走ったのだろう、シェルの唯一覗いた瞳が、ぎゅっと閉じられる。
「シェル、無茶はするな」
レパードが、シェルに声を掛ける。
「お前は自分の状態のやばさに気付いてないだろ?死んでいたかもしれないんだ、まずは休め」
「船長?けど……」
反論したそうなシェルだったが、大人しく目を閉じた。恐らく、自分自身の限界に気付いたのだ。
「目、覚ましたら説明、して」
「あぁ」
とぎれとぎれのシェルの声に、レパードが頷く。すると糸が切れたように、シェルの意識が落ちたのが分かった。
「ちょっと、シェル?!」
「大丈夫、寝ただけだ」
慌てたイユをレパードが制した。それで気がつく。たしかに、シェルから寝息が零れていたのだ。
ほっとした瞬間、足の力が抜けかけた。たまらずベッドにしがみついたイユの前で、代わりに、どさっと大きな音がした。
見上げたイユは、探してしまった。先ほどまでいたはずの、シェルを挟んで向かい合わせのワイズの姿が、ないのだ。目を何度も瞬いた。
「ワイズ様?!」
そのとき、フェフェリの慌てた声が飛ぶ。彼はかがみこんで、茶色の何かを引き上げた。
イユは、そこでようやく事態に気が付いた。ベッドの前で崩れ落ちたらしいワイズが、気を失った状態でフェフェリに抱えられていたのだ。彼の口からは、赤いものが零れていた。




