その369 『雪に包まれた城』
曇天から降り注ぐ白い雪は、さながら羽根のようだった。指紋一つない窓ガラスから見渡せるは、雪景色。本来は蒼く荘厳な造りの屋根も、今は雪の重みに耐え、真っ白に染まっている。
ここ、アタナシア城でこれほどの雪が降ることは、珍しい。雪は、レイヴィートの先にある山脈、レインベルを超えた集落でなら、よく降るのだという。同じイクシウスでも、レイヴィートより東にあるここは、降っても粉雪がせいぜいだ。
だからか、慣れぬ雪に怯えて、人々は部屋に閉じこもっている。雪化粧の中でぽつんぽつんと灯る明かりが、そこに住む人々の存在を唯一主張していた。ここに住んでいるのは、多くが城に仕える召使いや執事、メイドたちだ。『魔術師』も準魔術師たちも住んではいるが、彼らはこの城からは距離をとっている。
まるで、避けられているようだ。マーレイアはそんな感想を抱く。女王に即位したばかりの自身から、『魔術師』たちは少しでも距離を置こうとしている。代わりに、職務上近場に寄らざるを得ない召使いたちが、嫌々マーレイアの近くに住んでいるという構図だ。
そして、この構図と同じようなことが、今後起きる。ついこないだまで汲みやすいと考え、操り人形にすべく近づいてきた『魔術師』たちの姿を見ることは、なくなるだろう。
「あの、マーレイア様?」
怯えを滲ませた声に、マーレイアは窓から身を剥した。そこに跪く、若い『魔術師』の男を見下ろす。メイドたちを騒がせた美貌でありながらも、勇ましさが見え隠れする好青年だったが、今は見る影もない。それもそのはずだ。これから、この男、ジャスティス・レイドワースは罪を問われるのだから。
「あなたの罪について、考えておりました」
マーレイアの返答に、ジャスティスは口を閉ざした。
「あなたは、あろうことかシェイレスタの、アイリオール家の者と手引きし、ダンタリオンの蔵書を盗ませた。そうですね?」
これは、マーレイアの元に上がってきた報告だ。報告主は、マーレイアの右手となることを拒否したはずの、サロウだった。一度は拒否したはずの彼が動いた理由ははっきりしている。
「売国奴だ!」
誰かが叫んだ。マーレイアの機嫌を取ろうとした『魔術師』の一人だ。王の間で、ひとたび声を張り上げれば、とても響く。それをきっかけに、続けて誰かが叫んだ。
「よりによって、魔術書を仮想敵国に売るなんて!」
その声の波が、どんどん広がっていく。
「国宝だぞ?!」
「ダンタリオンを任された者とは思えぬ愚行だ!」
「王への裏切りだ!」
あっという間に、騒がしくなった。
「ち、違う!」
狼狽した様子のジャスティスは、哀れな籠の鳥だ。既に体には縄を巻かれ、逃げ場などない。どれだけ声を張り上げて鳴こうとも、ここまで周囲の声が広がってしまっては、打ち消されてしまうのみだ。
マーレイアは周囲を見回した。ジャスティスが声を張り上げても止まらなかった声が、それだけで、止む。
「そうでしょうね。あなたは売国奴ではありません」
そう言ってあげたら、どんなにジャスティスは喜んだことだろう。実は、マーレイアは、ジャスティスが売国奴だとは微塵も思っていない。だからこそ、厄介なのだ。
サロウから上がってきた報告には、ジャスティスは、シェイレスタとイクシウスの間で戦争を引き起こそうと画策していたとあった。だから、わざと魔術書を盗ませたのだと。魔術書は『魔術師』の魔術の要であり、ダンタリオンはイクシウス国随一の書庫だ。国宝に値するそれを盗ませれば、シェイレスタに戦争を起こす理由が手にはいる。そういうことなのだろう。
事実、ジャスティスは調べるまでもなく、本人自らが認める主戦派だ。シェイレスタは再びイクシウスの一部となるべきだと、そう日ごろから周囲に訴えている。だから戦う理由を求めたのだろうことは、容易に想像がついた。なんて、おぞましく浅ましいことだろうか。戦争を嫌うマーレイアにとって、ぞっとする話である。サロウが情報を流すのも分かった。もし、気づかずにジャスティスの口車に乗っていたら、マーレイアは何万もの人々の命を奪う悪魔になるところだった。
それにしても、その話に乗ったアイリオール家もあまりに愚かだ。ここまでの事態になることを想定していなかったのだろうか。イクシウスが体面を気にして、大人しく盗まれるとでも思ったのかもしれないが、危険すぎる選択だ。何れにせよ、『魔術師』は、愚か者揃いである。
「あなたを処罰しなくてはなりません」
マーレイアの宣言に、ジャスティスの顔が強張った。緊張の表情だ。同時に死期を悟っているのか、思いのほか静かな顔でもあった。
「お待ちください!」
声に振り返ると、一人の男が前へ飛び出したところだった。すぐに、周囲の兵士たちに抑えつけられる。男の顔を、マーレイアは覚えていなかった。ただ、服装から『魔術師』だとは推測できる。
「どうか、お考え直し下さい。この者は、五大貴族が一人、レイドワース家であります」
周知の事実を敢えて叫ぶ。その瞬間、見張りの兵に、体を抑えつけられた。
「無礼者!」
と、男が叫ぶが、無礼なのは男の方である。見張りの兵は、マーレイア直属の王立騎士団だ。
「レイドワース家の当主だからといって、全ての罪が赦されるわけではありません」
マーレイアは冷ややかに、見下ろした。
「むしろ当主だからこそ、より厳しく裁くべきでしょう」
その言葉に、周囲の『魔術師』が「そうだ!」と叫ぶ。反対しているのはさながら、兵士に捕らえられた男だけのように思われるほどには、その声は大きく広がった。
「しかし……!」
「レイビス、もういい」
静止の声は、ほかならぬジャスティス自身のものだった。その声に、虚を突かれたように、レイビスと呼ばれた男が固まる。
「女王陛下。我が弟、レイビスの不遜をどうか御許し下さい」
跪いた状態のまま、ジャスティスはさらに低頭した。額に床がくっついているのかと思うほどだった。それを見ても、何の感慨も湧いてこないマーレイアは、自分自身の思いも寄らない非情さを身に染みて味わった。
「よいでしょう。あなたが罪を認めるというのであれば」
「ありがたく存じます」
ジャスティスの礼の声を、
「兄上!」
とレイビスの抗議の声が遮る。
「下がれ、レイビス」
頼むからこれ以上話してくれるなと、ジャスティスの命令が飛んだ。そこまでされては、反論できなかったのだろう。レイビスが渋々ながら下がっていく。
そんな様子を見て、意外なほどにジャスティスは弟思いだったのだなと感じた。そうして人を愛する心があるのならば、何故、戦など好むのか。
「あなたの罪状を言い渡しましょう。最後に、真の海を前にして伝えるべき言葉はありますか」
儀式の口上を口にする。ジャスティスはここで初めて顔を上げた。
真っ直ぐな瞳が、マーレイアを射抜く。その目は、多くの女性を虜にしてきた、深い底なし沼のような黒だった。意志の強さを感じさせるすっと長い眉に、余計な肉のないすらりとした顔立ち、『魔術師』だというのに鍛え上げられた痩躯。自信に満ちた生き方が、体に表れている。
そして、歪むことの知らない口が、明朗に訴えた。
「私の記憶を、お読み下さい」
それは、己にやましさがないが故の言葉だ。ジャスティスは、自身が売国奴ではなく、他ならぬイクシウスのために、故意に火種を作ったことをマーレイアに伝えようとしているのだろう。同時に、同じ『魔術師』同士に記憶を読まれるということは、『魔術師』にとって、絶対的な服従を意味する。身の潔白を証明すると同時に、マーレイアに己の全てを捧げると言ったのだ。だから、その言葉に多少のどよめきが走る、はずだった。
マーレイアはその一瞬を与えなかった。
「何故、私が罪人の記憶など、読まなければならないのです?」
その言葉に、ジャスティスの表情が変わった。爛々としていたはずの瞳が、はじめて曇った。
絶望を貼り付けた顔に、マーレイアは笑いを堪えたくなる。初めて見たと思ったのだ。鏡以外で、『魔術師』がする絶望の顔を。このとき、ようやくジャスティスはマーレイアに近づいたのだろう。
周囲の野次が、ジャスティスに飛ぶ。彼の終わりは、近かった。
「あなたを斬首刑と処します」
連行されていくジャスティスを見送りながら、マーレイアは再び窓を見た。雪が蔓延った窓は白く淀み、その先の光景が朧気にしか分からなくなっていた。
マーレイアは立ち上がると、くるりと翻して去っていく。
「皆さん、御解散下さい」
マーレイアの動きに気付いた臣下が、声を張った。人の波が去っていく音が聞こえる。ホールの外で、それをじっと聞いていた。
即位して数日で人を処刑。いきなり、箔がついたなと他人事のように思う。これで『魔術師』は、マーレイアをただの人形とは思わないだろう。このまま近寄ってこなければいい。そうすれば、マーレイアは一人この城で執務を行う、ただの女でいられる。
マーレイアは自室に戻ると、早速筆を執った。サロウに礼を書くのである。今回、サロウは用事があるだとかで登城していなかった。代理の者に出席させるやり方は、他の『魔術師』でもよくあることだ。それを禁止する国王も過去にはいたが、マーレイアは父に倣って赦すことに決めた。そのせいか、五大貴族の『魔術師』たちも、レイドワース家以外不参加だ。皆、代理を立てている。それどころか、こうした議事には必ず出席する印象のあった、フェンドリックですら、見ていない。珍しいこともあるものだと、それだけを感想に抱く。そうして、続きの文を綴り始めた。
しかし、もしマーレイアが、ジャスティスの言うとおりに記憶を覗いていたら、こんな過去が覗けたことだろう。




