その362 『お別れ』
「近いわ」
イユは見慣れた岩肌に、声を挙げた。眼下に金色の絨毯のごとく広がる砂漠、その先にぽつぽつと岩山が見えてきた。やがて現れるは、広大な台地。この光景に覚えがある。
「ほんと、ひとっ飛びの距離だな」
物足りないのか、ヴェインが欠伸をしながら答える。だが、この距離が徒歩となると、非常に遠かったのだ。
目を皿のようにして、スクリーン越しに台地をつぶさに観察する。殆ど意識のない状態で歩いたとはいえ、一度はたどり着いた場所なのだ。空からでも、見つけられるはずだ。
懸命に探すイユを見てか、周囲は何も言ってこなかった。だから、スクリーンに集中できる。会って間もないが、良い人たちだなと感想を抱く。お人好しなシリエは勿論のこと、アンナもなんだかんだで親身だ。アダルタやヴェインのことも、不思議と嫌いにはなれなかった。
だから、彼らの好意に甘えて、探し続ける。上空から見下ろす台地の、ちょっとした凸凹に、歩いたときの記憶を重ねた。覚えがある。いや、気のせいかもしれない。似ているだけだ。そんなことを考えながら、順に見渡していく。目に意識を持っていきすぎて疲れを感じたそのとき、ゆらりと灰のようなものが視界を横切った。
「ここ!」
イユの合図を受けて飛行船が徐々に高度を下げる。見やすいように旋回する飛行船の窓から、今度ははっきりと煙が見えた。確信した。セーレが、まだ燃えているのだ。
まさかこんなに長い間燃え続けているとは思わなかった。それはまるで狼煙のようで、同時に飛行船が漏らした最期の悲鳴のようでもあった。
「見つけたわ」
イユの声に合わせて、飛行船が更に高度を下げていく。
台地から零れる煙に、目が沁みる心地がした。待っていられず甲板に飛び出すイユを追って、シリエが、アンナが、続いていく。
熱気に合わせて、炎の船を焦がす臭いが、イユの顔面にねっとりと纏わりつく。それを振りほどくように、手すりへと身を乗り出せば、見えた。灰色の煙を僅かに上げてゆらゆらと揺れる視界の先、見覚えのある木造の飛行船がその姿を僅かに残して佇んでいる。
「これが、セーレ……」
シリエの呟きが、背後から聞こえた。
「こんなのじゃ、ないわ……」
いたたまれず、イユは反論する。そう、こんな姿ではないのだ。セーレは、こんな、真っ黒に焦げ付いた骨子が見える船ではない。こんな、砂と灰と煙に包まれた、僅かに輪郭をとどめるだけの飛行船ではないのだ。
イユの知るセーレは、それこそ絵物語にでてくるような、海を翔ける飛行船そのものの姿をしている。妖精のような羽も美しい。
そして、近づけば、船員の誰かがいて、声を掛けてくる。常に誰かが待っていてくれるのだ。
それが、そんな飛行船こそが、本来のセーレなのだ。
滲む視界に、シリエがロープを使っていたことを思い出したイユは、縛りつけたままだったそれをとった。
「ちょっと、まだ高いわよ!」
アンナの声が聞こえたが、待てなかった。ぼやけた現実を直視するために、イユは、ロープとともに身を投げる。
風が、イユへ吹き付けた。体が落ちていく感触を味わううちに、セーレから届いた煙を浴びる。思わず咳き込めば、沁みた瞳から滴が飛んでいった。
煙を超えたその先で、地面がはっきりと見えた。砂の大地がどんどん近付いてくる。それが、あまりにも遅くて、手を放したくなった。
ロープが延びきるその瞬間、イユは思いのままに手を放した。身を空に投げた途端、強風が襲う。それを、この身で、力の限り受け止めた。
そしてようやく、最後の地面までの距離を自分の足で着地する。衝撃が足にきた。きっと、普通の人間なら怪我をしていた。それでも、イユなら動くことができた。
セーレとは、だいぶ近付いていた。ちょうど先日セーレが燃えているのを確認して気を失った場所の、すぐ近くに飛び降りたらしい。燃えていたセーレの大きさも角度も、あのときと一致している気がした。
だが、セーレはあのときほど赤々と燃えてはいなかった。灰色の、白になりかけた煙を出して、もうすぐ燃え尽きようとしていた。
駆け込んだイユは、かつてのセーレに乗り込もうとした。けれど、渡し板は当たり前のように残っていなかった。それに、渡ったとしてもその先にあるはずの甲板は残っていなかった。燃える木は、全て炭になったのかもしれない。ここまで跡形もなく燃やされてしまうと、もうどうにもならなかった。
反対側に回り込むと、骨子が剥き出しになっていた。位置から判断するに、機関室にあたるだろう。
骨子が崩れて危ないかもしれないという発想を置いてきてしまったイユは、躊躇わずに中に入った。ちょうど骨子の一部に太陽の光が遮られて、イユの体がすっぽりと影に包まれる。
周囲をじっくりと見回した。おかしなほど、そこには何もなかった。飛行石ぐらい残っていればいいのに、日の光に晒されて黒ずんでしまったのだろうか。全く何も残っていなかった。ネジぐらい燃えそうにないのだから残っていてくれれば良かったのに、それさえも見つからなかった。ただ、瓦礫のように積み上げられたよく分からない黒いものたちが、積み重なっているだけだ。この上には食堂もあった。きっと、調理器具とかも混じっているのだろうが、今となっては何も分からなかった。
皆はどこにいるのだろう。そんな疑問が心をチクリと刺した。この炭になってしまったガラクタのなかのどこかに、彼らの骨が埋まっているかもしれない。そのことに、気づいてしまった。心の奥底に閉じ込めていた、笑顔のリーサの顔が浮かんでくる。リーサが、この中のどこかに――――、
「イユちゃん」
声に振り返ると、滲む視界の先にシリエとアンナが立っていた。迎えにきたようだ。彼女たちの顔も一様に暗かった。その表情をみて、込み上げかけた吐き気が収まった。視界が定まってくる。それと同時に、なくなったことを実感してしまった。
「友達がいたの」
ぽつんと、呟いた。
「自由になって初めてできた友達だったの。私と違って女の子らしくて、その子のことが好きな男の子がいて、女の子はその子の好意に気づいてなくて」
主語がころころ変わる、訳のわからない文章になっていることは承知していた。元々、イユは、話そうとして呟いたわけではなかった。ただ、思いを言葉にのせた。そうしないと、自分という器から溢れて、あふれてしまうからだ。
「うん」
シリエが、イユに答えるように頷く。
「よく見張り台で一緒に仕事をした子がいたの。その子には慕ってくれる孤児院の人たちがいたわ。別れたときに、皆が無事を祈っていた。だから、せめてその子には――、生きていて欲しかった」
生きていて欲しかった。それは裏返せば、死んでしまったということだ。イユは、認めてしまった。黒こげになった飛行船を前にして、受け入れるしかなくなった。とめどなく溢れる滴に、嗚咽が溢れた。
「ここにいた人たちは、何も分からない私にいろいろなことを教えてくれたの。守ってくれたの。私に――、居場所をくれたの」
言いながら、イユは自分が失ったものに気が付いた。知らない間に、イユのなかでなくてはいけないものになっていた。それは、セーレがいつからかイユの居場所だったからだ。この広い世界で、『異能者』のイユにはきっともう二度と手に入らないもの。それが、セーレだった。勿論、全員が全員、イユのことを認めていたわけではない。けれども、そこには確かにぬくもりがあった。きっと届かないと諦めていた優しい光が、あった。
「だから、生きていて良かったって思えたの」
今まで何も誇ることのできなかったイユが、唯一安心していられた場所。それが、セーレだったというのに。
嗚呼 我らが空の女神よ 我らを導きたまえ
願わくは 御魂が真なる海へとたどり着かんことを
はっとした。シリエが、優しい声で歌い出したのだ。どういう意味かと、聞く必要はなかった。その声の響きに、詩の内容に、鎮魂歌なのだと自然と悟った。
嗚呼 我らが空の女神よ 我らを導きたまえ
願わくは 御魂が真なる海へとたどり着かんことを
嗚呼 我らが海の女神よ 我らを赦したまえ
願わくは 御魂が穢れし業より解放されんことを
イユの瞳から溢れた涙が頬を伝って、セーレの上に落ちた。燃え尽きたそこは、瞬く間に水気を吸いとった。まるで、哀しみごと吸いとろうとしているかのようだった。
「ありがとう。素敵な歌ね」
泣き止んだイユは、歌い終わったシリエにそう礼を言った。
「皆さんの魂が海に還れると良いですね」
そう言って微笑み返すシリエの瞳も、心なしか潤んでいた。感傷的になった影響か、敬語に戻ってもいる。
イユは、レパードの言葉を思い出して答えた。
「真の海に」
死者の魂が、還るという。そこはきっと、安らかな場所なのだろうと。
「うん、真の海に」
シリエの相づちを聞きながら、イユは、空葬の代わりに歌ってくれたのだと気づく。やはり、シリエは、祈ることしかできないイユよりもずっと、お別れの仕方が分かっていた。彼女がいてくれたことに、ほっとする。
「私も、歌っても良いかしら」
その言葉に、シリエがきょとんとする。少しして、その意味に気が付いた。彼女たちにはセーレがこうなってしまったきっかけを伝えていないからだと。
「死者を送る気持ちさえあれば、誰でも良いのだと思うわ」
アンナの言葉に、イユは頷く。鋭い彼女は、ひょっとすると事情を察してくれたのかもしれない。
イユは、辿々しくもシリエの歌をなぞった。
嗚呼 我らが空の女神よ 我らを導きたまえ
願わくは 御魂が真なる海へとたどり着かんことを
嗚呼 我らが海の女神よ 我らを赦したまえ
願わくは 御魂が穢れし業より解放されんことを
まるで、歌を聞いているように、骨子がきしきしと音を立てた。その音は、セーレという飛行船が奏でる最期の返歌だったかもしれない。だから、それに答えるように、心のなかで呟いた。
さよなら、セーレと。




