その36 『そして、世界はかわる』
よりにもよって、今日の作業は外だった。確かに死体の山は柵を超えそうなほどに積み上げられていたが、吹雪いている日にわざと作業をさせるあたり、嫌がらせである。お陰で、掘っても掘っても作業が進む気がしない。視界も最悪だ。腕から伝わる雪の重さに、泣き出したくなる。悲鳴を上げる身体に鞭を打ち、機械のように身体を動かす。痛みも辛さも意識の外に追いやって、極力何も考えまいとした。
気がついたときには、左右にいた女たちが倒れていた。少し離れた場所では鞭の音が鳴り響く。最終的には、埋めた人数に匹敵するのではないかと思う数の人々が、柵の前へと再び積み上げられた。おまけに死体の山が減っていないことを兵士がくどくどと叱咤し、その間にも数人が山の仲間に加わった。
牢まで息も絶え絶えに帰ったところで、まだ生きていることをようやく実感した。身体中にのしかかる疲労という重さに耐えられず、そのまま床に崩れる。目は開かず、食事も取りに行く元気もでない。こういうときに用意されていた一口のパンどころか水もないのがひどく堪えた。
鞭の音が響いて、はっとして飛び起きる。鉄格子の向こう側に兵士の姿があった。女たちを誘導しているようである。恐らく女の一人が倒れたから鞭の音がしたのだろう。早く起き上がらないと、イユもまた鞭の餌食である。
ところが、起き上がろうとして、腕に力が入らなかった。目を開けているはずなのに、視界がぐらぐらと揺らいでいる。吐き気がして、顔を上げた。
鞭の音がまた耳に響く。
身体がそれに反応し、心を急かす。ようやく立ち上がることに成功し、歩き始める。
一歩歩く度に、身体が疲れたと訴える。食事をとっていないから体力も回復していない。何よりも休む時間がもう少し欲しい。睡眠をとったはずが、一瞬にして休みが終わっている。そのせいで、気持ち悪さが抜けない。込み上げた胃液を飲み下して、女たちの列に連なる。
少し歩いたところで女の背中にぶつかった。体がよろめいたのだ。目の前の女が倒れ、すぐに兵士たちが駆け寄ってくる。
「立て!」
そうして振るわれる鞭の音に、目を背けた。
「おい」
声を掛けられ、息を呑む。甲冑越しだが、兵士の視線がイユを刺している。
兵士たちには、イユがぶつかったせいで、目の前の女が倒れたことが分かっているのだろう。女が起き上がってこないから鞭で打ったが、イユもまたいつ倒れてもおかしくない。だから、鞭を片手に観察している。
狙われているという危機感がイユを包んだ。身体中の血が、どくどくと脈打っている音がする。弱っていることを見せてはいけないと、理性が呼びかける。持てる力を全て振り絞って足に力を込めた。少しでもよろめかないように、一歩一歩確実に踏み出して、女の列を追う。
鉄格子を出たところで、兵士が何もしてこないことに気がついた。ひとまず逃れたのだろう。安心したところで、道なりに続く通路の先に、予感を覚えた。
すぐに、最悪は更に続いているのだと把握した。昨日と変わらない道なのである。濃い絶望を覚えて逃げ出したくなった。
辿り着いた先、視界がひらけくると、嫌でも目の前にそれが見える。
白い外の世界に、死体の山だ。
今日も、昨日と同じ外の作業なのである。吹き付ける雪が視界を真っ白に染め上げて、それだけではないと気付かされる。天候までも最悪なままだった。どうかしていると、嘆きたくなる。
唯一変わったことといえば、昨日より多くの男たちがいる点だろうが、見張りの兵士もその分増えている。
こうなると無理に無理を言わせて、体を動かすしかなかった。泣いたところで涙はすぐに凍り、目を開けようとする邪魔をした。シャベルはただ重く、掘った穴は雪によりすぐに埋まっていく。
とうの昔に限界は通り過ぎていた。惰性のように動けていたことのほうが、おかしかったのだ。
立ち眩みが起きたのは、本当に一瞬のことだった。気を許した隙にふわっと体が舞う感じがして、気づいたら自分の体が地面に横たわっていた。
雪の感覚に頭が冷えた。早く起きないと、鞭で打たれる。恐ろしさに、慌てて体を起こそうとした。
けれど、吹雪のなかだというのに兵士は仕事熱心だった。駆けつけてくる鎧の擦れる音とともに、叱咤の声が響く。
すぐに起き上がったのだから、そのまま黙って見過ごしてくれれば良かった。
けれど、そうはならない。彼らの目的が淘汰であるのならば、そうした甘い願いは叶わない。瞬く間に鞭が飛んできて、意識が一瞬途絶えた。再び雪のなかに叩きつけられたのだと意識したのは、怒鳴り声が聞こえたからだ。
「何をしている、さっさと起きろ!」
理不尽な行いに、凍えきった身体から熱が宿った。頭の芯がぴりぴりとする。倒したのは誰だと叫び掛けた。もはや、やけっぱちだったかもしれない。
寸前のところで抑えたのは、そこで生まれた気力を足に使い果たしたからだ。かわりに、飛び上がるように起き上がったのである。
疲れ果てた体にまだ力が残っていたことが、何よりも驚きだった。シャベルを拾い、掘ろうと動く。
瞬間、背中に痛みを感じて、膝から崩れ落ちた。追い打ちをかけるように、鞭による衝撃が飛んでくる。
ありえないと言いたくなった。兵士の心は氷でできているのかと訴えたい。どうにか膝を立てたが、衝撃は止まない。立ち上がったときには、足を掬うように狙った鞭が飛んでくる。それを避けられるほどにイユは強くない。
再度雪の中に埋まると、矢継ぎ早に衝撃がきた。歯を食いしばった。兵士の目的はただ鞭を振り回したいだけなのだと、そうとしか思えなかった。
滲みでた血だけが、唯一温かかった。
けれど、それはすぐに汚れた白服に吸われていく。まるで、灰色の世界に呑み込まれていくかのようにその赤は逃れる術なく囚われていった。
薄れゆく意識のなかで、ふとこのまま死ぬのだろうかと思った。精一杯、頑張ったのだ。生きるために、動かない体を意思の力でずっと動かし続けてきた。約束は守れなくなってしまうが、ここにいる限りいつかは死ぬのだ。もう十分だろうと言いたくなった。
「生きて」
そのとき、声が聞こえた気がした。一体誰の声なのだろうと、思い出そうとした途端、女の声が再生される。
「あんたは……、死なないでくれよ」
浮かんだ女の姿が、イユに懇願した。イユの腕を掴もうとする。
そのぬくもりを感じようとした次の瞬間、顔にあざやひっかき傷を作った女に切り替わる。無残な死に様だ。
――――あんな風になってはいけない。
稲妻が走ったように、思いが生まれた。
「生きなさい」
まるでその思いに答えるように、心のなかで誰かが叫んだ。イユの胸中で、イユではない誰かが立ち上がろうとしていた。
誰? 許して。楽にさせて。
イユの甘えをその誰かは認めない。断片的なイユの思いが、強制的に塗り替えられていく。
――――生きなくてはならない。
心を貫かれるような衝撃があった。有無を言わさぬそれが、イユの心の有り様を定める。
そう、イユは生きなければならなかった。
イユが、イユの心が、その決意を叫んだ。
「何が何でも生きてみせる。這ってでも、生きて、生きて、生き続ける……!」
あの瞬間、どれほど振り絞っても湧かなかった力が湧いた。鞭に打たれながらでも、立ち上がることができるほどの力である。
イユは一心不乱になって掘り続けた。
すぐに死体が運び込まれる。イユにはもう、それがただの物にしか映らなかった。ただひたすらに埋めていく。その速度にさすがの兵士も何も言わなくなった。
夜が来るころには、作業も片付いた。大勢の者が倒れただろうが、イユには全く関係のないことだった。




