その350 『感想を』
ばたんという音とともに、本を閉じる。
すっかり集中していたらしいレッタが、音に驚いたのか、目を丸くさせていた。
「めでたし、めでたし。どうだったかしら?」
感想を求めるイユに、レッタが微笑む。
「ハッピーエンドだったね」
「ハッピーエンドは好きかしら?」
イユの問いに、レッタが再び満面の笑みで答えた。
「うん!ハッピーエンドは、大好き!みんな、しあわせになれるんだもの!」
それはまた、優しい感想だ。
「そうね」
イユも懐かしさに胸を打たれて、頷いた。
どうして忘れていたのだろうと思う。転がってきた感情に、空っぽの心が再び小石を拾った。それは、あたたかいがために苦しい感情で、一度捨ててしまったがために拾い難いものだった。何より、イユは思い出してしまった。イユが殺めた母が、どのような人間だったのか。
目を閉じれば、暖炉の火の爆ぜる音がする。そのなかで、先ほどのイユと同じように、母はこう口にした。
「めでたし、めでたし。どうだったかしら?」
イユは、レッタのように優しい感想は抱かなかった。どちらかというと、四歳児にしては、ませていた。
「王子さま、かっこいいな。私、こういう人のお嫁さんになりたい!」
今のイユなら考えられない感想だ。
それを聞いた母の目がそっと、細められた。そして、イユに厳しくもこう言い放った。
「それならば、あなたも気高く生きなくてはだめね」
気高い。そんな言葉、今の今まで忘れていたというのに。
よく分からないという顔をしていたのだろう。母が、自身の考えを補足する。
「類は類を呼ぶというでしょう?あなたが立派な生き方をすれば、きっとあなたの周りにも素敵な人が来るはずです」
母の言葉には、いつも不思議な説得力があった。そんな母が、自分自身にも言い聞かせているであろう言葉で、イユに告げる。
「自分に誇れる自分になりなさい」
「……れないわよ」
イユの言葉の呟きに、レッタがきょとんとした顔をする。その顔をみて、どうにか表情を繕った。
「なんでもないわ。ほら、絵本を返すわね」
絵本の重みが、レッタにうつる。彼女は素直に頷いて、礼を言った。
「ありがとう、おねぇちゃん」
躾けの行き届いた子供だ。ヴァレッタの教育が良いのだろう。
にこりと笑うと、満足したようにレッタが部屋から出ていった。それを見送ったイユは、そっと顔を伏せる。
(あなたを殺した私に、誇れる部分なんてないわよ)
布団を頭からかぶった。
最悪だ。何故ならイユは、こんなことを思っていた。ハインベルタ家のことをシーゼリアから聞かされたとき、呑気にもこんな疑問を抱いたのだ。
(もしそれが本当なら、何故一度も会いに来てくれなかったの……?)
会いにこられるわけがないだろう。他でもない、イユ自身が自分の手で殺しておいて、何様のつもりだと言いたくなる。こんな自分の一体どこを誇れようか。否、誇れるはずがない。
それどころか、イユが今までしてきたことといったらなんだ。自分が生き延びるために、人から食べ物を奪って生きながらえ、助けてくれた人のことを忘れ、子供すら見捨てて、人を殺めた。何も誇れない。何も胸を張って、やり遂げたなどと言えない。せいぜいが、今こうして生き恥を晒していることだけだ。全てにおいて、イユは自分のしたことが好きになれない。
リュイスに初めて会ったときはどうだ。ぶつかってきたリュイスに、イユは苛ついていた。それは、自分の姿を重ねたからだ。今にも折れそうな姿を勝手に重ねて、似ているということにしたかった。そうして、失ったばかりの自分と同じ境遇の仲間が欲しかった。だが、リュイスは優しかった。人殺しに手を染めるような、そんな弱さを持っていなかった。だから、イユは突っぱねた。こいつは違うのだとそう思った。
セーレに迎えられたときはどうだ?マーサに部屋を案内されてから、セーレの皆が何を恐れているか知ったときだ。イユは異能者施設からやってきた『異能者』であることを隠そうとした。それは何故だ。保身からだ。もし見つかったらまずいと考えた。あくまで、自分が可愛いから黙っていた。
スズランの島ではどうだった?アグルや刹那が魔物に襲われたと聞いて、それを助けると言い出すリュイスに、内心嫌だと感じていた。遺跡でアグルの怪我の具合を見て声をかけるイユに、リュイスは優しいなどとお門違いなことを言ったが、今もそう思う。他にやることもなかった遺跡のなかで、何も失うものがないイユが目の前で大怪我した人間を助けようとするのは、それほど特別なことではないだろう。イユだけがとりわけ優しいのではない。ただ、偶然その立場になっただけのことだ。それよりも、魔物に襲われたときにアグルやリュイスを見捨てようとしたときの方が、ずっとずっと心に引っ掛かっている。
ブライトに暗示をかけられたときはどうだ?信じていけない者を信じて、肝心な人に相談せず、独断で動いた末の自業自得だ。あれのせいで、セーレが燃やされたのだ。多くを失ってしまった。
洞窟で溺れたリュイスを助けようとしたときは?烙印がバレたときに何を思った?リーサの過去を掘り起こした理由は?
もうたくさんだ。いくら振り返ってみても、いつも自分のことばかり考えている。全く、図々しさが嫌になる。ここまでのイユがやってきたことは、一体何だったのだろう。
唯一他人を思って行動したことがあるとすれば、それは、レパードたちをイルレレまで運んだことかもしれない。だが、それも、他に何もなかったからやったにすぎないのだ。全てがどうでもよくなって、はじめてそうしようと動いた。それしかなかったから、それに縋った。それは、誇れると言えるのか?
そっと溜息をついた。
自分のことが、どうしても好きになれない。誇れるどころか、隠して消してしまいたい。いくら強がっても、虚勢にしかならない。そんな自分が、ひどく嫌いだ。
それなら、どういう姿が理想だろう。イユの記憶に、施設にいた女の姿が浮かぶ。自身も厳しい環境にあって、それでも周囲を助けようと奔走していた女だ。女の最期を思うと無念だが、ああいう人は自分に誇りを持って生きていけたのではないだろうか。しかし、あの女は死んでしまったのだ。誇りに思うことが死へと繋がるなら、それはイユにはなり得ない姿だった。
代わりに、同類として思い浮かんだのはリュイスだ。リュイスは、イユのことを何度も助けてくれた。それに、イユに限らず誰かが危ない目に合いそうになると進んで助けにいこうとする。人を殺めることに異を唱え、敵であっても手を下すことはしない。初めて会ったときから、ずっと優しくて真っ直ぐなままだ。
どうしても、リュイスの存在が、イユには眩しく映る。馬鹿がつくほどのお人好し。他人のことばかり考えていて、そのせいで自分が責められることになっても、挫けない。イユとは対称な場所にいる少年。
「僕はこの絵本、結構好きですよ」
リュイスのことを考えたからか、当時の言葉が蘇る。
あのとき、リュイスは絵本を最後まで見ろと言った。あの絵本が好きといった、その言葉の意味を考える。今にして思うと、分からなくもない。読みきってみれば、絵本の結末はハッピーエンドだ。悪役の『龍族』でさえ、蛙にはなったものの、優しい王子は許してしまう。きっと、『龍族』だとか魔女だとか、細かいことに囚われるイユが、神経質過ぎるのだ。読んでしまえば、大団円。確かに後味のよい話だ。イユも嫌いではない。
それに、王子はどこかリュイスのようだった。優しくて、真っ直ぐな少年。王子の方が心なしか頼りがいがあるが、そこはまぁ、おどおどとしたリュイスの性格の問題だから、目をつむるとしよう。
(ひょっとして……)
そして、イユはその可能性に気がついた。
自分に誇れる自分になる。その言葉を知っていなければ、思い付かなかった。ひょっとすると、リュイスも同じなのではないかという、可能性に。
リュイスは、誇れる存在ではなく、誇れる存在になろうと努力を続けている人なのではないか。
だから、絵本の王子のように、優しくあろうとする。
どれほどの苦行があったとしても、自分の道を曲げずに突き進もうとする。
何故だろう。無性にリュイスに会いたくなった。会って、確かめたい。理想の優しい人ではなく、優しくあろうとしている人だとしたら、リュイスの見方がイユのなかで変わってくる。それならば、助けにいかないとなと、自然とそう思った。死んでいるとは夢にも思っていなかった。リュイスは連れ去られても尚、屈しない人物であろうと、そう確信していた。
一方で、今のイユはどうだろう。過去のことは、何度も振り返ってよくわかった。とても好きになれない、身勝手性格の悪女だということは身をもって知った。それならば、今後イユは何をしたらよいだろう?同じことの繰り返し?それは、散々したので、却下だ。イユはもう何も失いたくないし、一人にもなりたくない。生きて、生きて、生きた先に、何もないのはもう嫌なのだ。
だとしたら、何をするべきだろう。リュイスに会いにいくか?レパードと一緒にいるか?今、イユが本当にしたいこと、すべきことは何であろうか。




