その35 『おいていかないで』
あれから、何日間が過ぎたのだろう。日数を数える気力はなかったので、はっきりとは分からない。ただ、牢に入れられる前から既に長い時間を異能者施設で過ごしている。その時間に比べれば、瞬く間ともいえる時間なのは間違いない。
それでは、過酷な状況には全く慣れなかった。一回の無理はどうにかなっても、ずっと続くとそうはいかない。しかも満足な食事もでないとあっては、状況は最悪だ。慣れどころか、日々疲労が積もっていきイユの体はだんだん思うように動かなくなっていった。若さか異能か、睡眠をとれば体の疲れが紛れるのが救いだった。
そうはいかないのが、人に差し入れをしていた女だ。
確かに女は驚くほど丈夫だった。少ない食糧を更に分け、それでも命を繋いできた。わざわざ気力をなくした女たちを勇気づけて回っていたこともあったぐらいだ。
だが、その体はどんどん痩せこけていく。身体に無理を言わせ続けたのか、明らかに体調の悪そうな表情をみせることも多くなった。
そして、理想も容赦なく彼女を追い詰めていったのだ。
なるほど、イユは異能があったから一口のパンでも命を繋ぎとめることができた。
けれど、大抵は一口のパンでは生きていけない。異能にも種類がある。風を操る異能があったとして、飢えに耐えることも鞭で打たれた傷を治すこともできない。
弱者を助けるという彼女の理想を、現実が容赦なく裏切り続ける。
当初、女はくじけなかった。少しでも弱者を生き残らせるのが女の意地でもあり生きがいだと、自分に言い聞かせるように何度もイユに語った。
「あたしは……、何としても皆を生かしたいのさ。だって、悔しいだろう? こんな世の中、可笑しすぎる」
「いいのさ。たとえ、助けられなくたって。パン一口でどれだけかはわからないけれど、その分、長生きできたってことだろ? それなら、充分だって」
あるとき、イユが牢に戻ると、そこに女はいなかった。勿論、そうしたことは過去にもあった。先に帰るのが常に女であることはない。だから、その日も待っていれば女が帰ってくるはずだった。
ところが、幾ら待っても女は帰らない。食事の時間が過ぎても、取り合いが収まり周囲が静かになっても、女の姿が見えない。胸の奥がざわざわとした。寂しさに膝を引き寄せる。そうして待つことしかできなかった。
牢の扉が開く音がし、はっとする。いつの間にかうとうとしていたらしい。目を細めて、入ってくる者たちを凝視する。よろめきながらも進む人々の最後尾に、女がいた。
戻ってきてくれたことにほっとした。早速女へと近づこうとする。
数歩、そこで何か違和感を覚えて足が止まった。
女はイユを見つけたらしい。ゆっくりと近づいてくる。また誰かをかばってか鞭で打たれたらしく、その腕から血が滴っていた。
その女の目と目が合った瞬間、ぞっとなってしゃがみ込みたくなった。女の目は異様な光をたたえてあるはずのない虚空を見据えていたのだ。
「大丈夫?」
聞くが、女からの答えはない。身体が震えた。そこにあるはずの絶対的な何かがなくなってしまうような怖さがそこにあった。
――――イユにとって、彼女は理想でもあり恩人だったのに。
はたと気づく。ここは、本当はイユが女を助ける番ではないのかと。死にかけたイユにパンを一口わけてくれた。その彼女に今こそお返しをすべきではないのかと。
だが生憎、イユは今何も持っていなかった。パンを入手するには、一日待って女たちの取り合いのなかに入り込まないといけない。
女が崩れるように倒れる。
びくっとした。倒れ方に、生きている者の力を感じられなかったからだ。慌てて駆け寄り起こそうとすると、微かな息遣いを肌に感じた。
生きてはいるのだ。
ほっとしたところに、がしっと腕を掴まれる。
思いがけぬ力に、イユの体が瞬時に強張った。
そのまま硬直していると、乞うような声が聞こえた。
「あんたは……、死なないでくれよ」
生きて、と。そう、女は言った。
「あんただけなんだ。他は皆、死んじまった。あんただけなんだよ」
悲痛な声だった。それほどに女は追い詰められているのだと、声だけで分かった。パンを一口あげたからその分生きたはずだと、そう強がっていた女の影は全くなかった。
「分かったわ、約束する」
そう答えてから、既視感を覚えた。
そこまで顔にだしたつもりはなかったが、女には何か感じるものがあったらしい。
「どうしたんだい?」
「前にも同じことを約束した気がしたの」
生憎、それがいつのことだったのかイユには思い出せない。イユは異能者施設に来る前の記憶がない。異能者施設にいた時の記憶でさえ、だいぶ薄れている。単純に小さかったからよく覚えていないのだと思っている。それに思い出そうとも思わなかった。思い出したところで、そうした記憶はここにきてしまったイユには何の効力もない。昔を懐かしんで苦しくなるぐらいなら、いっそのこと忘れたままでよいのだとさえ思っていた。
「そうか、それは安心だ」
女は乾いた唇の端を持ち上げてみせた。
「同じ約束を他にもしたのなら、破ることはまずないね」
自分に言い聞かせるような言い方だった。
よほど消耗していたのだろう。女の手がイユの手を離れて身体ごともたれ掛かってくる。思わぬ重さに倒れ込みながらも、イユは目の前の女から聞こえた小さな寝息を聞き取った。
ああ、良かったと心から思った。どういうわけか、このまま女が死んでしまう気がしていた。イユは女の重みからゆっくり逃れると、女の隣にくっつくようにして横になる。この女の隣だから、今まで安心して眠れたのだ。
人々がざわめく気配に目を覚ます。灰色の床を複数の影が走っていく。取り合いをする女たちの声が響いてはっとした。またしてもイユは朝寝坊をしてしまったらしい。
今日はスープを自力でもらおうと思っていたのに。そうすれば、女にも恩を返せるのに。
そう後悔してから、周囲を見回す。隣にいたはずの女がいなかった。
胸騒ぎがしたが、イユは敢えて床を凝視して心を落ちつけようとした。女がいないのは一足先に起きただけだ。彼女は丈夫だから、いつものように早く起きて朝食のスープを取りに行っただけだと、そう言い聞かせる。
そのとき、何かが地面を転がる音が響いた。コロコロと、それはイユの手元へと転がってくる。木の器だった。僅かにスープが残っている。間髪入れずに、一つの手がそれを奪い取る。走る音が響き、そのあとを複数の足音が追う。
ゆっくりと、イユは木の器が転がってきた方向へと首を動かした。
―――いつだって、嫌な予感ばかりが的中する。
視界の先に、女が仰向けに倒れていた。
慌てて駆けつける。衣服に液体が飛び散っているのが見て取れる。舐めたらきっと、水っぽいスープの味がするのだと分かった。更に近づいて、イユは足を止めた。
瞳孔が見開かれていた。女の顔は昨日にはなかった痣やひっかき傷がついていた。
女の前に座り込み、改めて顔を覗き込む。
痛そうな傷がはっきりとみえた。せめて穏やかそうな顔をしていれば良かったのだが、その顔は痛々しくも凄絶で、世の中の全てを怨むかのようだった。
「ねぇ……、起きて」
またイユの腕を握ってはくれないかと願うも、その手は全く動かない。
恐る恐る体を揺すってみる。何も反応はなかった。死んでいるだと理解した瞬間、浮かんだ思いがあった。
――――ああ、なんて虚しい最期なのだろう。
後方で奪い合いの声が聞こえてくる。その声のせいにはできない。女たちは魔術師の仕組みのなかで動いているだけだからだ。弱者を淘汰するための手段として、わざと満足に支給されない食事の取り合いをさせられているだけなのである。だから女を討ったのは、同じ異能者ではなく魔術師が作り出した仕組みだった。
これからどうやって生きていけばいいのだろう。
浮かんだ思いに嘲笑したくなった。女の死よりも、我が身可愛さの自分に呆れたのだ。よりどころがなくなってしまったという心細さと不安が、早くもイユをいっぱいいっぱいにさせてしまっている。女にあった、他者を救うという反抗心の一つでもイユのなかにあればよかったが、そうしたものはちっとも浮かんでこなかった。牢のなかにいる他の女たちと何も変わらない無力なイユ自身に、辟易する。
救いは、女との約束だった。イユはゆっくりと立ち上がる。兵士たちの、死へと導く足音が聞こえたからだ。




