その349 『蛙にされた王子と魔法』
「『蛙にされた王子と魔法』」
何故、目の前にこの本があるのか。信じられない思いで、手を伸ばした。そこを、ひょいっと本が下へと逃げる。目を瞬いてから、気が付いた。
意地悪でも何でもなく、レッタの腕が絵本を持ち上げるのに疲れたらしい。
再び持ち上げたレッタは、満面の笑みを浮かべた。
「そう!ご本、読んで!読み終わったら、エッタにも教えるの!」
「エッタ?」
首を傾げるイユに、愛おしそうにレッタが微笑む。
「エッタはエッタだよ。レッタの双子のいもうと!」
レッタには妹がいるらしい。それにしても、彼女らは老婆の孫だろうか。あまり似ていないところをみると、血の繋がりはなさそうだ。
「そうね。読んであげるわ」
今のイユは疲れてしまって何も考えられないから、休憩がてら、この絵本を読むのもいいと承諾した。どのみち、もう読むことは叶わないと思っていた絵本だ。この機会に最後まで読んでみるのがよい。終盤まで読み進めてはいたが、最後までは読みきっていなかったのだから。
イユは、絵本を受け取ると、そっと一枚目の絵をめくった。
「『蛙にされた王子と魔法』」
タイトルを読み上げて、一枚目の絵を見せる。
ベッドに乗り込んで隣に居座ったレッタの頬は、赤くなっていた。
そのレッタの瞳に、優しそうな王子がお城で楽しそうにしている絵が映っている。
「昔、昔あるところに、とても心の優しい王子様がいらっしゃいました」
子供をあやすことなどしたことがなかったから、ただ淡々と絵本を読んであげるだけだ。それなのに、レッタはイユの言葉を一つ一つ漏らさないように真剣に聞いている。
「王子にはとても気立ての良いお姫様と、仲の良い家来たちがおりました。それに、困ったときにいつも助けてくれる友人もおりました。王子は彼らのことがとても大好きでした」
そんな王子の元に、あるとき老婆が現れる。老婆は、みすぼらしい恰好をしていて、その痩せようといったらまるで骨と皮しかないかのようだった。あまりにも気の毒だったので、食べ物を分け与えた王子に、老婆は感涙しながら、礼を言う。
王子の優しさに感動した様子の老婆だが、実際は違うことを、イユは知っていた。この老婆こそ、諸悪の根源としてこの絵本に描かれている『龍族』なのだ。
老婆は王子に礼をしたいといって、ある場所への地図を渡す。一人で来るようにと念押しされた王子が、その場所にいくところで、次のページに続く。
ページをめくった先で、大きな窯を前にして魔女が薬を煮込んでいた。
「『お前は皆に愛されているね。それはとても素晴らしいことだ』。そんなことを言いながら、おばあさんはことことと窯のなかのものを煮込みます」
魔女が窯のなかのものを煮込むのに合わせて、その姿がどんどん変わっていく。窪んだ眼は盛り上がり、切れ長の意思の強そうな目に変わっていく。皺皺だった肌も若返り、絹のような美しい肌に変わる。その姿は、物語の魔女そのものだ。
それに合わせて、王子は自分の体がどんどんおかしくなっていくのに気づく。手が不気味な緑色に変わり、視界がおかしくなる。どんどん老婆の背が高くなっていくと思ったら、それは勘違いで実際は王子が縮んでいた。
魔女は高らかに笑って、告げる。『お前の幸せは、お前が王子だから成り立っているまやかしだよ』と。『一度、蛙にでもなってしまえばいい。そうすれば、お前がいかにちっぽけな存在かよくわかるだろうよ』と。
「そう、王子は『蛙』にされてしまったのです」
イユの言葉に、すぅっとレッタが息を呑んだ。すっかり、物語にのめり込んでいるようだ。
王子の冒険は、ここからだ。
ケロケロとしか鳴けなくなった王子は、それでも魔女に立ち向かった。窯がこの怪しげな術の原因だと睨んで、魔女を釜から離させるべく、彼女の顔面に飛び込んだのだ。
急な王子の反撃に驚いた魔女は、窯から手を放した。その途端、魔女の姿が変わっていく。
まず魔女に角が生えた。鋭い牙が生え、醜い翼が現れた。
イユは息継ぎのふりをして、少し息をついた。イユの嫌いなページが、次だ。
ぺらりとめくると、そこに獰猛且つ邪悪な笑みを浮かべた魔女がいた。その絵に描かれている蛙を踏みつぶさんばかりである。
「『なんと、魔女の正体はあの恐ろしい『龍族』だったのです』」
鋭い牙、醜い翼について丁寧に描写が付け加えられている。それを読みながら、鬱々とした気分にさせられた。レパードやリュイスがこんな描写をされてしまっていると思うと、この絵本を破り捨てたくなる。
しかも、魔女は正体がばれた後、王子を元の人間の姿に戻す方法は残っていないと宣言して、動揺した王子の隙をついて逃げ出すのだ。せめて悪役らしく堂々としていればいいのに、妙な小物っぽさが、イメージを損なう。
そうして、物語の展開は、王子が『龍族』に蛙にされてしまったところから、今まで出会った人々に助けを求めて再び会いに行く、という場面へと変わる。
しかし、『龍族』の言った通りで、蛙になってしまった王子に対して今までのように優しく接してくれる人たちはいない。あれほど仲のよかった家来に故意に踏み潰されそうになり、頼りにしていた友人には手で追い払われたりする。挙げ句の果てには飼っていた鳥に襲われかけ、逃げ出した先で馬車に轢かれそうになる始末だ。それをどこかでみていたらしい『龍族』が、ちょっかいをいれる。彼女の姿かたちは、いつの間にか美しき魔女へと変わっていた。その顔で、蛙を見下して告げるのだ。
「これでよくわかっただろう。お前が助けてきた人々が如何に愚かしい生き物か」
それに反論するように、王子は声を張り上げるが、出てきた言葉は「ケロケロ」という情けない蛙の鳴き声だけだった。
そのあと、王子は姫の元に向かう。姫は王子が帰ってこないことで悲嘆にくれ、目を赤くして泣いていた。その涙が耐えられなかった王子は、ハンカチを探す。メイドたちに追い払われながらも、どうにかハンカチを見つけた王子は、それを運ぼうとした。
イユは次のページをめくる。そろそろ、イユの知っている物語が終わる。
こうして通して読んでしまうと、とても短い。しかしこの長さがこれまで読めなかったのだ。文字を一字一字解読して、ようやく殆ど覚えた。今ならきっと、知らないページでも躓かずに、最後まで読みきれるだろう。
次の絵は、蛙の王子が姫にハンカチを差し出すシーンだった。
「姫はたいそう驚いたようでしたが、蛙の気遣いに気づいたように、笑みを浮かべました。『ありがとう、あなたは優しいのね』」
驚いた姫は、しかし今までの者たちと違い、王子の優しさに触れ、笑みをみせた。それが、きっと鍵だった。
優しい姫の様子をみていたらしい『龍族』が、その場に姿を現す。彼女は第一声、「何故じゃ!」と。彼女がみたのは、蛙だった王子が人の姿に戻りかけるその瞬間だった。
その王子に、悲鳴のように告げる。
「何故、お前は、人に戻ろうとするのじゃ!お前のことなど誰も見向きもしないというのに」
そう、『龍族』は解く術を知らないわけではなかった。知っていてわざと教えなかっただけだ。何故なら、教えたら魔法が解けてしまうからだ。王子が自身を蛙と思い続けることが、魔法の効力そのものとなっていた。
段々と背が高くなっていく王子を見た、姫の目が丸くなる。そんな彼女を背で庇う形で、王子は『龍族』と対峙する。
「たとえ、どんなにひどい仕打ちを受けたとしても、自分の道を歪めてはいけないのだ」
自分の道。それは、王子の、人として歩むべき道だ。蛙になって誰にも見向きをされなくなっても、王子は皆に対する態度を変えようとしなかった。皆のことを憎みもしなかったし、自身が蛙であることを卑下にすることもなかった。いつもの、優しい王子で在り続けた。そして、姫にハンカチを持っていったことで、王子の行為はようやく形となったのだ。
「私は、たとえ姿を変えられたとしても、心まで蛙になるつもりはない」
王子は『龍族』を前に、宣言した。その宣言に、『龍族』が悲鳴を上げる。次の瞬間、不思議なことが起こった。『龍族』の美しかった肌が急にしぼみ、衰えていく。頬を抑えて悲鳴を上げる彼女の姿がどんどんやせ細り、小さくなり、そして――、彼女は鳴いた。ケロケロと。
優しい王子のままで在り続けるという王子の心の強さが、『龍族』の悪い魔法に打ち勝った瞬間だった。
こうして、王子は無事に人の姿に戻り、事の顛末は周囲の者を通じて広がった。周囲は知らなかったとはいえ王子に辛く当たったことを後悔したが、王子は笑って許すばかりであった。それどころか、蛙になった『龍族』のことも、王子は恨んでいないのだという。
人々は皆、王子を褒めたたえた。
「本当の魔法は、王子のような立派な心だ」
そう言って王子の復活を喜んだという。




