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カルタータ  作者: 希矢
間章 『そして、底から』
347/994

その347 『記憶』

 しんしんと、雪が降っている。馬車の窓の棧にも、結晶が積もっていく。一つ、二つ、どれも複雑な幾何学模様で、似ているようで違っている。

 ふぅっと息をつくと、ぼんやりしていた窓ガラスが一気に真っ白になった。それでも、まだそこから、ひっそりと冷気が溢れてくる。

「オリニティア、窓から離れなさい。風邪をひいてしまうわ」

 呼ばれたオリニティアの視線が、上がる。そこには、色白な女性が椅子に腰かけていた。琥珀色の長い髪はウェーブがかかっていて、シルク色のセーターによく映えている。赤いビロードを羽織っていて、端からみて品があった。

 かつての名前で呼ぶこの女性は、一体誰だろう。

 イユの疑問は、記憶から呼び起こされた、他ならぬ自分自身の声で解決する。

「はぁい、おかあさま」

 返事をする声に、この人が母親だったのかと妙な納得をしてしまう。改めて、女性を見つめた。

 優しそうで、同時に厳しそうな人だ。凛とした切れ長の目にもえぎ色の瞳には、はっきりとした芯の強さを感じられる。長い睫毛には、あわせて女性らしさを感じさせられた。強くてあたたかい人だった。

「おかぁさま。お屋敷にはいつ着くの?」

「あと一時間といったところね。待ちきれない?」

「うん。でも、おとうさまはもっと待ちきれないかも」

「そうね。きっと待ちきれずに今頃駆け出しているわ」

 都まで出た帰り道だったのかもしれない。そこまでは、思い出せない。けれど、こんなたわいのない会話をした記憶がある。

 それが、一転する。始めに聞こえたのは馬の鳴き声だ。次の瞬間、ぐるりと上下が入れ替わって、衝撃と共に照明が落ちた。

 急に暗くなって、何がなんだかわからなくなった。怖くて心細くて、泣き声をあげる。

「泣いてはいけないわ、オリニティア」

 厳しい母の声が聞こえて、安堵した。

「おかぁさま、そこにいるの」

 目が徐々に暗がりに慣れてくる。それで、母がすぐ近くにいることに気がついた。

「泣いてただ助けを求めるのは、貴族のすることではないのよ」

 そのとき、遠くで誰かと誰かの叫び声が聞こえた。同時に、何かの割れる音もする。

「でも、でも」

 怖い音が止まない。そう、訴えると、

「泣くな!」

 と叱咤の声に切り替わった。

 思わず口をつぐんだオリニティアをそっと、母の手がなでる。

「私は、様子を見に行かなくてはいけないわ。一人で待てるわね?」

 待てるわけがない。だだをこねるオリニティアに、母の手が何かを描いた。

「ねぇ、オリニティアは、私のことが好き?」

 怒ると怖いし、厳しい。でも、本当は優しい。そんな母を嫌いになるわけがない。頷くオリニティアに、母はぎゅっとオリニティアの手を握った。

 ふわりと、甘い香りがそこから漂う。

「私もよ、オリニティア。だから、どうか生きて」

 生きてと、そう、その人は言った。

「私のことは忘れてもいい。生きて、生きて、生き延びてほしいの」

 きっと、好きという思いを書き換えて。

「約束よ、いいわね?」

「うん、約束する」

 生きるねと、その言葉を復唱する。

 だから、忘れてしまっても、誰かと約束したことだけは心に残っていた。

 最後にオリニティアをぎゅっと抱き締めて、その人はイユの元から去っていく。

 待って。置いていかないで。

 何度も、そう思った。けれどもう、その時には幼い心は、馬車の外に出たら命がないことを察していた。

 だから、出られなかった。

 けれど、一人待つのは心細かった。寂しくて怖くて、何も出来なくて、心が散り散りになっていく。膨らんだ不安がどんどんどんどん大きくなって止まらない。

「おい、この中にガキがいるぞ!金になりそうだ!」

 だから、その声を聞いたとき、ぽんと恐怖が弾けた。




 次の瞬間、オリニティアの周りには何もなかった。星のない夜の闇のなか、変わらずしんしんと雪が降っていた。オリニティアを見下ろして、雪がぽつぽつと、頭に、肩に、重なっていく。それを振り払いもせず、ただ突っ立っていた。

 何故か寒さも何も感じない。雪が音を吸いとって、色を消した。そんななか、ぼんやりと走ってくる光を見上げていた。

 遠くにあった光が、だんだん大きくなっていく。光に照らされて、反射的に眩しさに目を細めたとき、顔が少し下を向いた。

 そこに、がらくたがあった。硝子の破片だろうか。それらが積み上がっている。その隙間から、赤い何かが覗いていた。それをみても、思考は情報を受け付けない。

「良かった、生きてい、て……!」

 待ちかねていたはずの父の声がした。それが、途切れる。

 イユは、父の目に映るオリニティアを見た。頬に赤いものがとんでいる。はしたないと怒られてしまう。そう思って、呑気に頬を拭っていた。その手に、赤いものが映る。

 その色を咎めて、ようやく気がついた。雪のなかを徐々に侵食していく赤いもの。無数に散らばった肉片。バラバラになった馬車は跡形もなく、馬すら影も形もなかった。そのすべてが、散らばったどれかになっている。

 だから、当然気づいてしまった。このどこかに、あの人はいるのだろうと。それは、父も一緒だったのだろう。

 記憶はここから少し飛んでいる。はっきりしたときには、衝撃と共に体が持ち上げられていた。足が宙を浮き、バタバタともがく。とにかく、苦しかった。自身の首が、凄まじい勢いで絞められていく音を聞いた。

「よせ、サロウ!おまえの娘だろうが!」

 今なら分かる、ミレイの制止の声がする。意識が、途切れていく。苦しくて、辛くて、目の端に涙がたまった。もがくオリニティアの先で、同じように涙を浮かべる灰色の瞳が見えた。


 きっと、このときオリニティアは死んだ。そう思った方が、ずっと気が楽になるはずだ。


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