その342 『マゾンダの街並み』
宿屋を出た先に、空はなかった。周囲を岩壁に囲まれたこの空間は、先ほどの宿屋と何も変わらない。洞窟のなかに扉を用意して、扉の先を宿屋、それ以外を街道と隔てているようであった。
(これが、街なのか?)
レパードの知っている街で、最も近いのが、風切り峡谷だ。あそこも、岩壁をくり貫いて、それぞれの空洞を民家としている。
ひとまずはとてきとうに足を進めたレパードは、緩やかな上り坂をゆっくりと上がりながら、自分の体が予想に反して軽いのに気が付いた。体が丈夫な自覚はあったが、ワイズが一足先に目を覚ましていたことを考えると、やはりレパードに治癒を掛けたのだろう。負担があるだろうにと、思わないでもない。
時折洞窟の壁に埋め込まれた魔法石が、橙色の光を放っている。その光に誘われるように奥へ奥へと進んでいくと、分岐があった。左の洞穴の上には、『居酒屋』という看板が掲げられている。右の洞穴は『詰め所』という看板が置かれていた。どちらも扉が厳重に閉まっている。レパードは無視して残りの道、真ん中へと進む。
その先で、道が開けた。眩しさに目を細めたレパードは、太陽が出迎えたことを期待して、見上げる。
ところが、そこにあったのは、染み渡る青空ではなく、はるか遠くにある天井だった。そこから、零れるのではないかと思うほどの大きな魔法石が、ぶら下がっている。眩しいのはその光のせいだった。太陽のかわりかもしれない。
首を元に戻せば、その下に丸みのある白い家々が立ち並んでいる。榛摺色の屋根が、ちょこんとのっている様は、まるで森のなかに生えるキノコを連想させる。
また、どの家の近くも橙色の魔法石の光で、灯されていた。家のガラス窓に、ぼんやりとシルエットが浮かんでいる。食卓で団欒する家族の影、家のなかを駆け回る子供とそれを注意する母親の影、窓を掃除する誰かの大きな影。
生活の様子から、街独特の賑やかさを感じる。同時に少し肌寒さを感じた。セーレは燃えてしまった。この光は、レパードにはもう届かないものだ。あの頃の暖かな輪のなかには、一生戻れないのだから。
ある家の近くには、畑があった。畑の周囲の生け垣から、橙色の魔法石が顔を覗かせて、畑の野菜を照らしているのが、光の様子から察せられる。畑の敷地面積は広く、その周囲を走っている犬らしき影が豆粒のように小さく見えた。村ではなく街なのだと、改めてその規模を実感する。
畑に視線をやったレパードが、畑を追いかける形で視線を戻すと、時計台の存在が目に入った。独特の花のモニュメントが、映えている。花弁一つ一つが硝子細工になっているらしく、周囲の光に合わせて、きらきらと光っている。時計の針が、時刻十二時を指していた。
人の活気から鑑みて、正午なのだろう。
時計台の近くには、見たことのないシダのような植物も生えていた。その植物は、時計台だけでなく、民家の周囲にも、あちらこちらに生えている。レパードの足元までの高さのものもあれば、民家の屋根よりも高く繁った葉もあった。そこから生えた暖色系の花が、民家の暖かな様子を見守るように、顔を覗かせている。そのせいだろう、花から零れた香りが、洞窟のじめっとした空気を和らげていた。
まるで御伽話の世界の中に踏み入れたように、幻想的な光景だった。それも、不思議なことに、そこには御伽話を読むだけでは感じられない、はっきりとした活気がある。
街の通りには、人々がたくさん歩いていた。街の入り口にあったイルレレには、あまりよりついていなかっただけだったのだろう。老若男女問わず、多くの人々がそこにいた。子供たちがおいかけっこをし、ギルドと思われる若い男女が歩いている。主婦がキノコ類を詰めた籠を持ったまま談笑し、ある一団は楽しそうにフルートを吹き鳴らしていた。
幻想的な雰囲気と人々の活気の調和した姿に、いよいよため息が出た。ここは本当に、砂漠のあった山の中だろうかと、目を疑う。まるで別世界に踏み込んだような錯覚があった。
少々ひんやりとした空気は、けれど縮こまりたくなるほど寒くもない、適切な温度だ。本当は魔法石の冷気で冷え切っているはずの洞窟を、人々の活気があたため、釣り合いをとった結果のような気さえした。
ぼんやりとしていたレパードは、横からぶつかってきた子供に、慌てて道を譲った。おいかけっこに夢中な子供、帽子を被った少年だった――、はレパードに謝りもせず、後ろからやってきた子供から逃げようと奥へ奥へと、駆けていく。その少年を追いかける子供の方は、おさげの少女だった。ぶつかられたレパードに、代わりにぺこりと頭を下げてから、すぐに少年を追いかけていく。「こらぁ、待ちなさい」なんていう少女の叫ぶ声が聞こえてきた。
その子供たちを見送ってから、レパードはようやく歩き始める。会話から察するに、ワイズはギルドに向かったはずだ。しかし、この街のどこに、ギルドがあるだろう。見渡す限り、ギルドの紋章旗が見つからない。
岩を削られて作った階段を登りながら、下りてきた若い男に声を掛ける。
「ギルドがどこにあるか知らないか?」
男は、配達員らしい。
「あっちだよ」
と、軽く指を指して教えてくれる。愛想のよさに、純朴な男の性格が垣間見える。
「ちなみに、あんたは何を運んでいるんだ?」
気になって聞いてみると、
「種だよ」
と返ってくる。
「種?」
「あぁ、必要なことさ」
どうにも解せないが、それ以上の答えは期待できず、礼を言って別れた。
そうして、一人歩くうちに、ふわふわと舞う綿毛の存在に気が付いた。殆ど無風のこの中を、羽もないのに綿毛が漂っている。
今度は、子供たちの集団に声をかけると、気さくな様子で返ってきた。
「おじさん、知らないの?これは、ウルリカの種だよ」
やはり、無邪気におじさん呼ばわりなのだなとどこか諦めつつ、訊ねる。
「ウルリカの種?」
「うん。私のお家にもあるよ。あそこみたいに、大きなお花になるの」
少女の指の先には、シダに似た植物から生えた単黄色の花がある。少女曰く、クレマチスなる花に似ているらしい。
「あれは、邪魔じゃないのか」
レパードの質問に、驚いた顔で返された。
「なんで?ウルリカが育つと、幸福が来るんだよ?」
一緒にいた別の子供にも驚いた顔をされる。
「ウルリカが咲けば、人狩りにも遭わないよ」
「人狩り?」
物騒な単語に、眉を寄せれば、えへんと一人の子供が胸を張る。
「そーだよ。シェイレスタの都には人を狩る悪い人がいるんだって」
その隣で、おずおずと子供の一人が顔を覗かせて――、
「でもでも、ウルリカがあるマゾンダには、悪い人は入ってこられないの」
最初の一人が、にっこりと笑った。
「だって、ウルリカは幸福の種。悪いことをする人の悪い気持ちを剥いじゃうんだよ」
変な話もあるもんだなと、レパードは感想を抱く。まさか、シェイレスタの都に人狩りとは、そんな話を流したのは誰だろう。
「そりゃ凄いな」と、てきとうに話を切ってから、子供たちとは別れた。
ウルリカと呼ばれた花。一番近くにあったそれを見てみる。大きな花弁の綺麗な花だとは思うが、そんな力があるようには、悪いが到底思えない。まだ、カルタータの障壁の方が、実際に壁として存在していた分、真実味があった。
視線を花から外したところで、見慣れた茶髪が一瞬、目に入った。あっと声をあげかける。見つけた。ワイズだ。ある家の中に入っていく。老婆と話しかけていて随分時間が経ったから、こんなにもすぐに見つかるとは思っても見なかった。ギルドに入る前に見つかるとは、これは実に運がいい。
レパードは急な登り坂を駆け上がると、家の扉を開けた。鍵はかかっていないらしく、あっさりとその扉が開かれる。




