その341 『目覚めたら』
誰かの話し声がする。男と女の声だ。遠くにありすぎて、何を言っているのか分からない。ただ、真剣な様子だけが伝わってくる。そのせいで、気になった。耳をすませたつもりはなかったが、徐々に声が、レパードの耳に入ってくる。
「……本当に、無茶だけはお止めください。ジェシカ様がご心配されますよ」
しゃがれた声の感じからして、老婆だろう。それにしても、ジェシカとは誰であろう。
「彼女の心配する顔は想像できませんが、そうですね、気を付けるようにするとしましょう」
あまり反省の色の見られない声は、少年のものだ。聞き慣れた声に、起きたんだなとぼんやりと思った。
「それより、ギルドを見てきます。彼らの船は大きかった。砂漠の中ではまず無理でしょうが、万が一という可能性もあります。目撃者がいないか確認してきます」
船という言葉に、一瞬燃えあがるセーレが浮かんだ。 胸が痞えるのを感じる。
「彼らを頼みます。あなたたちを相手に下手なことをするような輩ではないと思いますが、彼らは『龍族』に『異能者』です。暴れられたら抵抗はしないでください。子供たちのこともありますから」
「ワイズ坊っちゃんは、本当に人の心配ばかりですねぇ。婆なら、何も心配することなどありません。なにせ、坊っちゃんの『手』ですからねぇ」
老婆は宥めるように言うが、ワイズの方はそれに納得した様子は見られない。どちらも、意思が固そうだなと思った。それにしても、『暴れられたら』とは、レパードたちはどうもあまり信用を得ていないようだ。
「『手』だからこそ心配するのですよ。では、僕は行きますから」
レパードはゆっくりと目を開ける。見えた天井は岩壁であった。ぼんやりと橙色の光を返している。
手を、伸ばしてみた。砂漠のせいで乾燥しきった自分の手が、視界にはっきりと映る。彼らの会話にある『手』とは、何を指し示すのだろう。少なくとも、自分の『手』は大事にするものだよなと、ワイズの黒ずんだ手を思い出して独り言ちた。
もし、その手と同じだというのなら、ワイズにとっての老婆とはどの程度の存在なのだろうと。
「あー!おじちゃん、おきた!」
甲高い声に、思わず眉が寄る。頭に響いたその声にたまらず見回せば、その声の持ち主はすぐに見つかった。
褐色の肌に、深緑色の髪を後ろで結った少女である。年は4歳ぐらいだろうか。ワイズよりもずっと幼い顔立ちに、くりくりとした大きな翠色の瞳が真珠のごとく埋め込まれている。
「誰が、おじちゃんだ」
返した声が思った以上に枯れていないことに、自分自身が驚いた。砂漠のなか、喉が渇いて仕方がなかった。飲んでもあっという間に汗として流れていく気がした。文字通り干上がって、助からないと思ったのだ。いつイユと同じように声が出なくなるか、いやもうイユと同じように声が出なくなったのだと思い込んでいた。
「おじちゃんは、おじちゃんだよ」
無邪気に返す子供には、ワイズのような辛辣さは感じない。あくまで無邪気に『おじちゃん』扱いらしい。まぁ、4歳かそこらの子供からみると35歳は十分『おじちゃん』だろう。
レパードはようやく起き上がって、子供に返事だけはした。
「俺はレパードだ」
起き上がったことで子供の後ろに、ベッドがあるのが見えた。そこに、琥珀色の髪が見える。その姿を確認して、ほっとする。レパードがベッドにいるということは、イユがマゾンダの街までレパードを運んだのだろう。結局、無理をさせてしまったなと反省する。
「エッタは、エッタだよ」
明るく自己紹介をする子供に、どこまで事情が分かるかは不明だ。それでも、今レパードの前に相対している子供に、聞けることは聞いておくことにした。
「イユは、そこで寝ている女の子は、無事なのか?」
エッタは軽く小首を傾げた。それから、あどけない表情をぱっと輝かせる。
「イユおねぇちゃんっていうんだ!」
どうも名前が分かったことが単純に嬉しかったらしい。だがそれでは、レパードの問いに答えてはもらっていない。
「無事なのか?」
エッタが、再び小首を傾げた。
「『ぶじ』ってなぁに?」
4歳児には理解ができない単語だったらしい。
「大丈夫かってことだ。イユは、元気か。あ、いや、元気になれそうか?」
元気かと言いかけて、眠り込んでいては元気ではないだろうと思い、言い直した。しかし、元気になれそうかと聞いたところで、あまり意味をなさない質問のようにも感じた。イユには異能があるので、目さえ覚ませばきっと元気になってしまえる。少なくとも、目の前の子供をだませる程度の元気な振りは、できるはずだ。だからこそ、レパードはイユを振り回していることに気付かず、イユの手を引き続けてしまったのだから。
「おねぇちゃんは『だいじょうぶ』ってワイズおにぃちゃんがいってたよ」
明るく答えるエッタに「そうか、ありがとな」と礼を告げる。
どこか誇らしげなエッタが、微笑ましい。本来、子供はこのように明るくあどけなくあるべきだと感じた。
「おやおや、目を覚まされたようだねぇ」
声に振り向けば、部屋の奥から老婆が歩いてくるところだった。一歩一歩、杖をつきながら、猫背になった丸い体を重そうに運んでくる。皺だらけの顔に窪んだ眼、灰色の髪を後ろで結ったその様には、年季が入っていた。
「あぁ、厄介になっちまったな」
老婆は首を横に振った。
「気になさるな。ワイズ坊ちゃんを連れて帰って下さったついでだよ」
しゃがれた声を張って、名乗り出る。
「私は、ヴァレッタ。このイルレレの宿屋の主にして、ワイズ坊ちゃんの『手』さ。主に代わり、主の命を助けて下さったこと、礼を言うよ」
「レパードだ」
エッタが、ヴァレッタへと突進する。あまりの元気さに、勢いで老婆が倒れやしないか心配になるほどだ。
「おやおや、元気だねぇ」
顔は見えないが、エッタが満面の笑みを浮かべていることは想像に容易い。懐いているのだ。
「今からこの人に事情をお話しするからねぇ。エッタは、向こうで水を用意していてくれないかい?」
「はぁーい」
素直な返事が可愛らしい。ぎゅっと、ヴァレッタに抱きついてから、エッタが扉の向こうに消えた。
「さて、お待たせしてしまったねぇ」
「構わない」
ヴァレッタの話は、事情というよりは、レパードたちを見つけた経緯だった。扉の前で叫ぶイユを見つけて声を掛けたらしい。そこで、イユが倒れてしまったのだという。そのイユは、レパードとワイズを背負っていたと。
「倒れたときには本当にたまげたよ。まさかあんな小さな子が、二人を運んでいるとは思わなくてねぇ」
「まぁ、驚くわな」
その姿を想像して、悪いことをしたなと改めて反省する。助けるつもりが、イユには助けられてばかりだ。
「『異能者』だったかねぇ。可哀想に、ここまで苦労したんだろう?」
老婆ののんびりとした同情の声が、レパードには違和感しかなかった。
「あんたは、怖がらないのか?」
普通の人間は、恐れるはずだ。セーレの者でさえ、『異能者』と打ち解けるには時間がかかった。それを、ヴァレッタは首を傾げて対応している。
「そうさねぇ。私にとっては坊っちゃんが連れてきた方は大事なお客さんだよ。だから、どんな人でも変わらないねぇ」
珍しい人種だなと思った。『魔術師』と一緒にいて、感覚が人とずれているのかもしれない。
「それに、この子はあんたを助けようとして頑張ったんだろう?だったら、心配するようなことはないね。人のために頑張れる子なら、どんな子でも心配はいらないさ」
エッタが、水を運んできた。みていると溢しそうで危なっかしい。ついつい手を出して受け取ったレパードに、エッタが笑みを浮かべる。きちんと水が渡せたことが、嬉しいらしい。
「ありがとうねぇ。エッタは、偉い子だよ」
ヴァレッタの言葉に、更に誇らしげになっている。大人の会話の邪魔をしないのも、偉い子供の努めとばかりに、扉の奥へと消えていった。
「エッタは、坊っちゃんが連れてきた子でねぇ」
ヴァレッタが水に口をつける。レパードも同じように口をつけた。冷たくて、澄んだ水の味が、美味しい。
「可哀想に身寄りがいないんだよ。だから、ここで引き取っているわけさ」
宿と言いつつ、孤児院もやっているのかと思ったが、そうでもないらしい。
「ギルドの孤児院は」
「ギルドは最近できたばかりだからねぇ。孤児院はこの街にはないんだよ」
まさか、孤児院がないとは思いもしない。そうなると、ギルドの補助もなしにエッタを育てているのだ。ワイズの補助はあるのかもしれないが、ワイズ自身が子供だ。そこまで行き届いているのかは分からない。
「子供の世話は、大変じゃないか」
聞くと、ヴァレッタは首を横に振った。
「この街では皆が親だから、平気なもんさ。むしろ、エッタに元気をもらっているよ」
ヴァレッタの言葉は、レパードには中々理解が難しい。街の皆が親だという感覚は、旅暮らしのレパードにはないものだ。ただ、なんとなくヴァレッタの人の良さは見えてきた気がした。
「ワイズ坊っちゃんは、天涯孤独な私に寂しくないように子供たちの世話を任せてくれているんだよ。だから、改めてお礼を言わせておくれ。坊っちゃんが生きて帰ることができたのは、あんたたちの……」
言いかけるヴァレッタを途中で制した。
「礼は、イユに言っておいてくれ。あと、イユには目が覚めたら悪いが、運ばせたこと、謝っておいてくれないか」
ワイズを運んだのはイユであってレパードではない。お礼はイユが受け取るべきだ。それに、自分の失態を背負わせたことには、素直に謝罪すべきである。
話すと、ヴァレッタは困った顔を向けた。
「目覚めたらというと、まさかこれから何処かに出かけるつもりじゃないだろうね?」
そのころにはレパードは、ベッドから立ち上がっていた。幸い、立ち眩みはない。ワイズが治療のために魔術を掛けたのだろうことは想像に容易かった。そうでなければ、こんな風に会話ができる状態にはなっていないだろう。
「あぁ、お前の主とやらばかりに働かせちゃ、悪いからな」




