その340 『たどり着いて』
例えば、「ようこそ」と書かれたアーチが出迎えたり、人の喧騒が耳に入ったりしたら、きっとたどり着いた実感を持てただろう。そこまではいかないまでも、せめて、扉を開けた先で、何か変化があれば良かった。しかし、現実には、目の前にあった光景は、先ほどと全く変わらない洞窟の中だ。延々と、岩で上下左右を固められた下り坂が続いているだけである。
不安と落胆を感じながら、歩き始める。扉の先が、マゾンダの街だと思っていた。けれど、実際には、変わらない道が続いているだけだ。聞いていた話と違う。
疑うべくは、ワイズだった。イユたちに嘘をついたのではないだろうか。しかし、そんな嘘をついて何になるのだろう。ワイズ自身が倒れている今、救護を必要としている当人にあたるのだ。当然助かりたいなら、同じように、街に着きたいに決まっている。それとも、ここにはワイズだけが助かって、イユたちが助からない何かがあるのだろうか。
はっとしたイユの足が、止まった。あり得ないとは言えなかった。ワイズは『魔術師』だ。『魔術師』だけを助け、『異能者』や『龍族』を拒絶する。そういう場所に、イユたちはのこのことやってきてしまった。その可能性は、あるかもしれない。そもそも普通の街であっても、耳を髪で隠さない限り、レパードはすぐに捕まってしまう。だから、本当は街に赴くこと自体、危険なのだ。しかし、そこに休める場所がある。だから、そこにすがるしかないだけだ。
イユの足は再び、歩き出す。罠の説は否定した。それなら尚のこと、扉の先に、街が、少なくとも何かしらの変化が、あるはずだ。
余計なことに気を取られるのが間違いだ。そう言い聞かせて、足を進める。不安の答えは、この先にある。それならば、踏みとどまるのがおかしいのだ。突き進んで、早く答えを知ってしまおう。
足を動かすうちに、意識がまたぼんやりとしてくる。それでも、見逃さなかったのは、文字が読めたからだ。視界の端に入ったその情報に、再び足を止めた。
イユが進んでいるこの下り坂、その終端に、看板が吊り下げられていた。イユの知識でも、この文字をはっきりと読むことができる。
「マゾンダの街」
着いたのだ。やはり、ワイズの嘘ではなかった。下り坂の先に、なだらかな道が続いている。街はやはり影も形もなかったが、その文字だけで、安心してしまった。ふっと、息をつく。
しかし、その安堵が、いけなかった。
膝がかくんと崩れ落ちる感じがして、次の瞬間、イユの体が地面へと飛び込んだ。岩壁のひんやりとした地面とは、今日だけで何回もぶつかっている。痛みに堪えながら、立ち上がろうとして、再び崩れ落ちた。歯を食いしばって、壁を押しやる。腕はどうにかなった。膝が上がりきらない。
異能を使おうと、膝に意識をやる。悲鳴を上げた体を無視して、かろうじて立ち上がった。
次は、足を踏み出すのだ。体に無理やり指示をして、動かす。地面を蹴りつけて前へと。たったそれだけの動きで、全身に冷や汗を掻いている。
地下のひんやりとした空気が、熱で火照った顔にあたる。再び一歩を踏み出したところで、吐き気が込み上げた。
無理やり飲み込んで、また一歩を進む。
「死ぬな……」
そのとき、背中から聞こえてきたはっきりとした言葉に、びくっとした。声は、レパードのものだ。また、うわ言を言っているのだろう。その声が段々弱弱しくなる気がして、気が気でなかった。
今のイユにできること。それは歩き続けることだけだ。そう言い聞かせて、歯を食いしばる。足を無理やり、動かした。
そこに、分岐がやってきた。さてどちらが街だ。そう考えてから、街の入り口に入って右に行けと言っていたことを思い出した。まだ街に入りきったわけではないだろうが、それでもイユは右の道を進もうとする。そこで、体がよたついた。砂漠に立っているわけではないのに、どういうわけか視界が覚束ない。それに、平衡感覚がどこかおかしかった。まるで、自分の周りの空間が常に動いているみたいだ。
揺れる景色に、吐き気が収まらない。おかしい。唐突にやってきた体の限界に、心がついていかない。感覚だけで足を進めるが、自分が本当に進んでいるのかどうなのかは分からなくなった。
目の前に、木の扉が見えてくる。きっと、ここが本当の街の入り口なのだ。顔が笑みを作ろうとしたのか、ひきつった。扉を開けたかったが、ドアノブが遠い。手を伸ばしているつもりだったが、その感覚もなくなった。
そのとき、手が何かにぶつかった。視界がチカチカとしてなにも見えない。だから、何にぶつかったのか、視覚が認識できなかった。それどころか、痛みもなにも感じられない。
だが、音だけはやたらと大きく耳に響く。ドアノブにぶつかったのだとそれで、分かった。こうなれば、後はノブを引くだけである。けれど、扉を引く、それだけのことが何故だかとても難しかった。気づいたら、扉に飛びつくようにして、よりかかっている。
それでは、扉は開かない。ドアノブが言うことを聞かないなら、開けろと叫ぶしかない。けれど、声は出なかった。代わりに、手を振り上げ、扉へと振り下ろす。ノックのつもりだが、それだけの動作に体が重いと感じる。ふりこでも振っているように、手の動きに合わせて体の重心が揺れた。
そこまでしても、扉の先から応答がない。
いよいよ、限界を感じる。体中が重くて仕方がない。鉛のようだ。背負っているレパードたちに至っては、重石のようである。それに、とても気持ち悪い。
ここで力尽きたら、イユたちはどうなるだろう。
街の入り口だ。ひょっとしたら中の住民が助けてくれるかもしれない。けれど、もし気づかれなかったら?入り口の前で屍になったイユたちが見つかるのだ。なんとも空しい想像だった。
せめて、せめてだ。自身のことはどうでもいい。ここまできたら、レパードたちだけでも、助けてほしかった。特にレパードは、見捨てたくなかった。レパードはイユをセーレの一員だと言ってくれたのだ。レパードのその心に応えたかった。それがせめての、イユにできる唯一のことだとそう信じたかった。
(誰か。レパードを助けて)
叫んだつもりなのに、声が見事に出なかった。口も猿ぐつわでもされたかのように、動かすのだけで重く感じた。何とか手を振り絞ってドアを叩くが、ノックする力が弱すぎて、きっと反対側に誰かがいても気づいてもらえない。
(お願い。死んでほしくないの)
レパードまで死んでしまったら、イユは本当に一人ぼっちになってしまう。喪失の予感に、胸がきゅっと締め付けられる。いつまで経っても自分のことばかりだとは分かっていた。それでも、失いたくないのだけは間違いなく事実であった。
いや、そんな理由などはもうどうでもいい。
この場にいて、思いなどは何も役に立たなかった。今イユがしている行為に、理由付けをする余裕が、そもそもない。力を振り絞っても、何も沸いてこない。イユの異能は、力を調整するものなのだ。だが、扱える力がゼロであれば、調整のしようもない。限りなくゼロに近い絞りカスをかき集めるしかない。
イユは声にならない声で、叫ぼうとした。喉が枯れて仕方がないのならば、腕を振り下ろす力を籠めればいい。力が出ないなら、異能で無理やり調整して――、
次の瞬間、足の力が抜けた。異能で無理できるはずの体が、とうとう言うことを聞かなくなる。このままでは、助けが呼べない。早く、扉を開けてくれればいいのにと、そんなことを思いながら、手を振りかざす。手のひらをぶつけたが、大した音がならない。レパードを、誰か、誰か――、
「助けて!」
張り上げた言葉が、はじめて声になって届いた。
(なんだ、声が出せるじゃないか)
謝罪でもなければ、否定でもない。ただ、純粋にレパードを助けたいというイユの懇願が、はじめて言葉になった。そのことに、一抹の達成感と、満足感を抱く。
そして、それに答える声も、あった。
「ワイズ坊ちゃん?!」
その声は、後ろから聞こえた。
残された力で振り返ったイユは、二人を背負った重さに体がついていかなくなったのを感じた。
重心がぐらりとずれて、倒れる。視界はとっくに閉ざされていたせいで、そこに誰かがいたのは分かっても、誰がいたのかは分からなかった。意識が、安堵を最後に残して、刈り取られていく。
唯一、動揺した女の声が、遠くに聞こえた。




