その34 『つらくて、くるしくて』
身体が揺られる感覚に意識がうっすらと戻ってくる。
けれど、瞼が重い。身体が床から離れたがらない。幾ら冷たくて固くとも、身体を動かす鬱陶しさに比べればずっとましだ。このまま永遠に、こうしていたかった。
「起きな」
ゆさぶられていることに気が付き、目を開ける。
昨日の、スープをくれた女が心配そうに覗いていた。
「な、に?」
出した声は霞んでいた。頭もまだぼんやりとしている。
「早くしろ!」
意識がはっきりと覚醒したのは、兵士の怒鳴り声と鞭を叩きつける音だ。昨日の痛みがぶり返して、イユの身体を縛りにかかる。恐怖と痛みで身体が強張ってしまい、上手く動かせない。
けれど、このまま起きないでいると、余計に酷い目に合う。それがわかっているから、女が起こしてくれたのだ。
歯を食いしばり無理に起き上がると、周囲の様子がはっきりと見えてきた。
兵士たちが牢の中にいる女たちを順に廊下へ誘導している。女たちののろのろとした動きが兵士を苛つかせるらしい。鞭の音が三度鳴った。
あれからどれぐらい眠ってしまったのか、時間は分からない。ただ、周りの様子を見るにどうやら夕食はおろか、朝食も完全に寝過ごしてしまったようだ。
強い空腹を意識する。昨日、一口スープを飲んだのが逆にいけなかったのだろう。胃が刺激されてしまった。
だが、女の話では夜まで食事はない。耐え忍ぶしかない。涙がこみ上げそうになり、必死に目頭に力を込めた。
「気をつけな」
兵士に聞こえないようにだろう、女から小声で声を掛けられる。
「連中の目的は弱い者を淘汰することにある。あんたは幼い分、格好の的だよ」
「どうしてそんなこと……」
思わず出た疑問の声は変わらず掠れていたが、女に届いたらしい。兵士たちの誘導に合わせて歩き始めた女が、イユに背を向ける形で答えた。
「いらない異能者の始末だろ?」
始末。その言葉はぞっとするほど希望のない響きを持っている。
確かに今のイユには何の力もない。少し傷の治りが人より早い程度だ。
だから、面白くなかったのだろう。魔術師たちのおもちゃである異能者は、飽きられたら、或いはいらなければ、捨てられるしかないのだ。
列を進みながらイユは思う。
だとしたら、何故イユは異能者なのか。どうしてこんなものになってしまったのか。
その答えが未だに見つからない。
誘導された先は昨日とは違う場所だった。建物の外に出たのだ。そこで、イユは久しぶりに空を見た。灰色に濁った空だったが、十分すぎるほど眩しかった。目が慣れてくると、前方に高い柵がそびえたっているのが見えた。手を伸ばしても到底届きそうもない、塔の如き高さだ。
建物の入り口から柵までの距離は走っても数分は掛かる。だから目を凝らすことでしか様子は確認できない。
けれど、そこからでも、柵に歪な黒い紐が絡まっていること、すぐ近くに人の形をした塊が折り重なっていることだけは確認できてしまった。
――――柵の前にはまるで廃棄でもされたかのように、人が積み上げられている。
浮かんだ考えを気のせいだと消し去ろうとした。幾ら何でもゴミ山のように人が捨てられているわけがない。そこまでの非道は魔術師でもしないだろうと。
鞭の音が背後で響く。いつの間にか前が空いていることに気づき、慌てて足を速める。
途中、白服の女の列に、黒服の男たちの集団が加わった。それで、昨日死にもの狂いで縫った黒い布が何だったかを悟る。
黒と白の列は柵の近くまで進み、そして止まった。近づいてきて、もう目を誤魔化せなくなった。
生気のない男の目がぎろっと開けられたまま虚空を睨んでいる。その男の頬に被さるようにしてうつ伏せで倒れた男の腕が伸ばされていた。更にその男の背中に乗りかかっている大男には片腕がなかった。
けれど、反対側の手は不自然に折れながらも残っていて、イユのいる高さまで伸ばされていた。その指をイユに突きつけるかのようである。
それは、見間違いようもなく死体の山だった。
反射的にこみあげる吐き気に耐えていると、一同にスコップが配られる。用途が分かり、絶句した。
そこからの作業は苦痛以外の何物でもなかった。何故こうも死者がいるのか。恨みたくなるほどの数の穴を皆で掘りつづけた。
最初のうちは降り積もったばかりの雪だったからまだ良かったが、掘り進むにつれ地面はどんどん堅くなっていった。かじかむ手が気にならなくなったのは割と早かった。手の感覚はすぐになくなり、代わりに重労働に体が悲鳴を上げはじめた。
意識が朦朧としだした頃、近くにいた女が一人倒れた。気づいた兵士が駆けつけ、鞭を振るう。嫌な音が響き続けるが、女はぴくりとも動かない。
そうこうするうちに、別の女が倒れる。空が暗くなる頃には女だけでなく男たちも倒れていた。
夜の闇は、更に最悪だ。自分たちで掘っている穴の大きさが昼間と違い測りにくい。
一人が足を滑らせて落ちた。
明かりがあればよいのに、施設には光が少ない。せめてもう少し夜目が効けばよいのにと願ったときだった。その願いが届いたかのように、突如夜の闇に青白い光が走ったのだ。
さすがに手が止まった。柵から悲鳴が聞こえる。やめればよかったのに、つい目を凝らしてしまった。
夜の暗がりの中だというのに確実にその様子を捉えることができてしまったのは、蒼光で一瞬世界が明るくなったせいだろう。
だが光が照らしてみせた光景は、悪夢でしかない。
男だった。柵にしがみつくようにして、固まっている。その男がだらんと腕を不自然に垂らして全く動く気配がないのを遠くからでも確認することができた。柵には人を簡単に殺せてしまうほどの電流が流れている。その事実を痛感した。
柵に捕まった男は、知らなかったのだろうか。それとも、知った上で敢えて掴んだのだろうか。イユにその真意はわからなかった。
数時間後、ようやくイユたちは解放された。結果として大勢の者が倒れたが、奇跡としか言えないことに、イユは倒れた者たちの仲間入りを果たさずにすんだ。
だが、体中は悲鳴を上げ、今すぐにでも意識を失いたい心地だった。
そこに兵士たちが追い打ちをかける。イユたちを雪の上に立たせ、長々と代表の兵士が演説をはじめたのだ。
「お前たちの働きっぷりは、最低だ」
と彼は宣言してみせた。とうとうと、ご丁寧なことに今日の働きが如何にひどかったかを解説してみせる。その話の内容をイユは殆ど聞いていなかった。立たされたまま、半分以上眠りについていたといってもいい。
同じことをしていた異能者はほかにもいたようだ。鞭の打つ音と一緒に、一人が前へ担ぎ出された。それは二十前半の男だった。その男が目の前で悲惨な目に合えば、いくら疲れていても目を開けずにはいられなくなった。
しかも、最後に兵士はこう締めくくる。
「罰として、今日の夕食は抜きだ。その程度で済んだことをありがたく思え」
こうしたことばかり続けば、皆が死んだような目になるのも納得だった。
ぼろぼろになった身体に鞭を打ち、なんとか牢へとたどり着く。先日のように、灰色の地面に飛びつくようにして倒れ込んだ。
先日もひどかったが、今日は過酷としかいいようがなかった。生きていることが、我ながら信じられなかった。
「餞別」
声に、目だけで答えると女がいた。今日は一口サイズにきったパンを手に持っている。
思わず、涙が出そうになった。
「あり……がと……」
声にならなかった。ずっと飲み物も飲んでいないから、喉もからからになっていた。
それを察してかパンと一緒に持ってきたらしいコップをイユに差し出す。
断る理由はなかった。中には一口分の水しかなかったが、紛れもなく心から待ち望んでいたものだった。コップを返して、女を見る。既に眠り込んでしまいたいほど疲れていたが、意志の力でねじ伏せ我慢した。これだけは言いたかった。
「ありがとう」
少なくともお礼を言えるようになるだけの水を、女は自分に譲ってくれたのだ。
「いいって」
女は照れたのを誤魔化すように続けた。
「あたしは、この環境が我慢ならないだけだから」
その点だけで言えば、大いに同感だった。一口サイズのパンを周りの女に見えないように隠しながら食べる。からっからにひからびたパンのせいで、硬い。口が満足に動かないながら音を立てないように歯に力を込める。味はしない。わからなかった。労働量を考えると少しでも栄養が欲しくなり、頬張り続ける。
「あたしはあいつらに反抗したいのさ。けれど、面と向かっては無理だからさ」
女は素直に自分の弱さを認めた。その上で宣言する。
「だからあたしはあんたみたいなのを少しでも助けることで反抗してやるのさ」
言っている意味が分からずに見上げているイユに、女は自分の解釈を話し出す。
「あたしたちは魔術師たちにとって研究する価値もないごみだ。魔術師連中には、自分にとって都合のよい異能者が大事だからね」
イユたちは、研究しがいのない異能者なのだという。だから、いらないのだと。本当ならそういう異能者であっても労働力として期待されるところだろう。だが、用意できる牢にも限りがある。そこで、死体を埋めたり服を作らせたりする際、敢えて過酷な条件を作る。強い者は生き残れるかもしれないが、弱者はそうもいかない。つまり、魔術師の目的は淘汰にある。
ぞっとした。それならばイユは、いつか殺されるためだけにここにいることになる。
「そんなバカなことがまかり通っていいのかい?」
よいわけがない。だが、女が言うには魔術師の作った仕組みは異能者施設だけでなくその外にも影響しているのだという。
まずは世間の認識だ。魔術師たちは異能者が如何に危険な存在かを世間に示した。事実、異能者は、その力を制御できずに暴発させてしまうことがある。それによりもたらされた脅威を、人々は許容できなかった。そこで魔術師は異能者施設を設立した。そこに危険な異能者を隔離してしまえば、人々の安全は約束される。人々は魔術師の提案に大喜びで賛同した。異能者という問題を魔術師に棚上げしたのだ。だから、異能者施設がどんなところかを一々調べる人はいない。例外は、異能者の家族や友人だろうが、世間の安全のため、異能者は異能者施設に入ったら最後出てくることを許されない。世間もまた、危険だからと家族や友人に会うことを進めないのだろう。だから異能者施設の異能者たちを魔術師は好き放題できる。
「あたしはね、魔術師の目的を邪魔してやりたいのさ」
女の考えはわかった。
女は非力だ。だが、魔術師のやり方に屈するつもりはない。できる範囲での抵抗、それが魔術師の目的の阻害なのだ。阻害といっても、イユのような非力な人に食べ物を分け与える程度のことだ。本当に些細なものであることは間違いない。
だが、他の女とは違い、この女の眼が死んでいないのはそのためなのだと気づかされる。この抵抗を、唯一の生きがいにしているのだろうと。
率直な感想を言えば、格好よいと思った。人に強い憧れを抱いたのはあのときが初めてだ。あんなふうに強くなりたいと思った。強くて優しい、理想の女だ。
だが、理想の女ではダメだったのだ。




