その339 『下り坂を転がる小石』
道は、緩やかな下り坂になっていた。
このころになると、ようやく満足に息ができるようになった。その代わりに、どっと疲れが襲ってくる。緊張が、一気に解れたのだ。
異能に無理を言わせても、体のだるさが抜けきらない。ついでとばかりに睡魔も襲ってきて、目を閉じたら、意識を失ってしまいそうだった。
(起きなさい)
自身に叱咤する。どうかしていると言ってやりたい。ついさっきまで、蛇という名の死が間近にいたのに、少し離れただけでこの体たらくだ。そう叱責するが、まだ眠気がとれない。軽く唇を噛んだが、瞼が落ちてくる。
視界が徐々に塞がっていく。体を動かしたいのに、とても愚鈍で重い。眠気という毛布がイユをぐるぐる巻きに包み込んでいく。そのせいで、身動きがとりにくいのだ。
イユの膝がとうとう、地面にぶつかった。あっと、思った瞬間、背中の重みに耐えられず、体が前屈みになる。地面が迫ってくる。睡魔と一緒に、凸凹した岩がやってくる。
次の瞬間、耐え難い臭いがイユの鼻を刺激した。
落ちてくると思われた睡魔の帳が、一瞬にして消え去る。思わず立ち上がり、鼻を摘まんだ。
嗅いだことのない臭いだった。近いのは、死体の臭いだろうか。ただ、あれよりは、ましな気はする。どちらかというと、人ではなく食べ物を腐らせた臭いが近いかもしれない。しかし、異能者施設で配られたパンのカビ臭さともまた違う気もする。なんとも、形容しにくい悪臭だ。
耐え難いこの悪臭は、目をも刺激する。たちの悪い臭いだった。だからこそ、イユは周囲を警戒した。新手の魔物の仕業だと思ったのだ。けれど、見渡す限り、魔物の姿はない。緩やかな下り坂が続いているだけだ。そして、その坂の先に、分岐が見えるだけであった。
分岐まで下りきったイユは、左右を見比べた。一つは下り坂に、もう一つは上り坂になっている。どちらも勾配があるせいで先が見渡せない。
はて、どちらが正解だろうか。
イユはレパードの話を思い返す。レパードはこの分岐について何も言ってなかったはずだ。確か、扉があるとだけ言っていた。
イユは、下り坂を選んだ。今は少し慣れてきた悪臭から早く解放されたかった。だから、おちおち悩まず、比較的すぐに決断した。理由は、レパードたちを抱えて厳しい勾配を敢えて進む気にはなれなかった、それだけだ。
「う……」
呻くような声が聞こえてはっとする。振り返ったイユは、その背のレパードのうめき声だと気が付いた。起きたのか。それを期待するが、それ以上の返事はない。
振り戻ったイユは、更に数歩歩いた。そこでまた、レパードが何事か呟く。その声が、苦しそうだった。うなされているのだ。蛇がいたときでなくてよかったと思うと同時に、何とかしてやりたかった。
しかし、どうにもならない。水もなければ、体をあたためる防寒着もない。むしろ、長時間砂漠を歩いて倒れたことを思うと、あたためてよいかどうかも判断がつかなかった。
ただ、苦しそうに呻くレパードに、ワイズを、背負って歩くことしかできない。それすらも、足取りが不安定なわけだ。
所詮、異能を使って無理ができるのは、意識をしている間だけだ。けれど、その意識が既に朦朧としている。きっと、休息を体が求めていた。少しだけでよい、足を止めてしまいたかった。
しかし、同時に、助けたかった。何もかもどうでもよくなったと思っていた。それなのに、この思いだけは失われずに残っている。だから、イユはその感情にしがみついた。
もし、第三者が今のイユを見て、他人のために身を粉にして頑張る人間だと思うのだとしたら、それは大きな間違いだ。
イユはそんなたいそうなことを考えてもいなかった。ただ、沸いた感情に従って動いただけだ。いろいろなことが積み重なってどうでもよくなってしまった心に、偶然起爆剤となりえたのが、それだったというだけである。
勿論、この感情を持つに至った理由はある。
一つに、これ以上自分のせいで誰かが傷つくのを見たくないと。二つに、ここでレパードを失ったら、本当にイユは一人きりになってしまうと。三つに、大切なものが消える思いをもうしたくはないと。そして何より、セーレの一員だと言ってくれたレパードを裏切りたくないと。
そんな思いが、イユの感情の起点だ。
だが、それは偶然降ってきただけだ。もし、『魔術師』への憎しみに関わるものが代わりにイユの目の前に転がってきたのならば、その感情を、小石を手に取るように、拾っていた。
その場合のイユは、ワイズを捨て置き、克望とサロウ、そしてブライトを討つために歩きだしたことだろう。
人の感情とは、些細なことで変わる。レパードがいなかったら、きっとそうなっていた。いや、もはや何も拾わず、砂漠の砂に埋もれて死ぬ運命を選んでいたかもしれない。
けれど、拾ってしまったから。それだけで、今、イユは無理を続けている。
肌に冷たい感触を感じて、はっとした。いつの間にか、自分の体が倒れている。倒れた自覚が全くなかった。慌てて起き上がろうとして、重みに耐えかねて崩れ落ちる。異能を使わなかったからだろう。そう思って、異能を振り絞る。それなのに、体が動かない。振り絞ったつもりになっていただけだ。
自身を叱りつけ、ようやく、足を動かした。レパードとワイズの二人を抱えて、起き上がろうとして崩れ落ちる。せめて、何か口にいれないと厳しい。水が、飲みたかった。
そう願った視界の先で、百足が走っていった。そこにつられて見たイユはあっと声を上げたくなる。
水溜まりがそこにあった。水は、周囲の岩壁に影響してか砂色をしていたが、今のイユには関係なかった。飲めれば何でも良い。それに、上澄みであれば、透明感は残っていた。むしろ、夢かと思うほどの、素晴らしい機会だ。
思わず手を伸ばそうと近づいたイユは、次見た光景に息を呑んだ。
走っていたはずの百足が、水溜まりのすぐ脇を歩こうとして、僅かに水を被ったのだ。その瞬間、じゅっという音とともに、百足が溶けた。背中から胴体を溶かされた百足が、半分だけの長さになって走っていく。まるで、何事もなかったように、小さな岩の隙間へと消えていった。
水を飲もうという気は、あっという間に消え去った。この水溜まりには毒があるのだろうか。近づくのも恐れて、大きく迂回しようとする。見る限りでは、ありきたりの普通の水だった。ただ少し砂色に汚れているだけで、他の水と変わらない。だからこそ、はっきりと恐怖を感じる。
本当にこんな危険なところに、街などあるのだろうか。
涌き出た不安に、否定できる根拠がない。ひょっとすると、イユは道を間違えたのかもしれない。先ほどの道を上に行くべきだったかと、後悔する。
どちらにせよ、進みきるしかなかった。振り返れば、結構な勾配だ。今さら、登る気にはなれなかった。
水溜まりを見つける度に迂回しながらも、道をどんどん下っていく。
そうこうするうちに、イユの不安は膨れ上がった。いくらなんでも水溜まりの量が多い。それに、鼻こそだいぶ慣れたものの、悪臭はまだ消えていない。こんな場所に、本当の本当に、街が存在していてよいものか。
とうとう、目の前に広がった大きな水溜まり、もはや泉と呼ぶにふさわしい――、を見つけた。
イユの足が、止まる。
おかしいと、戻るべきだと、決心したわけではない。しかし、気がついてしまったのだ。目の前の水がブクブクと泡を立てているのに。
休むことなく膨らんでいく泡に、いつの間にか汗をかいている自身に気づかされる。砂漠の暑さに近い熱気が、そこに戻ってきつつあった。
更に、泡はとどまることを知らない。膨らんで、盛り上がって、まるでイユを見つけたように、水溜まりが広がっていく。あっという間に、イユの足元まで迫ってきた。
驚いて一歩下がったイユの頭に、警鐘が鳴った。
次の瞬間、踵を返すと脱兎のごとく来た道を走り出した。道は上り坂だから、あっという間に息が上がった。それでも、足を止めてはいけない。水がどんどんかさを増してきている。あの水に触れたら、イユは文字通り溶かされる。
(何が起きているのよ!)
心のなかで叫び、あり得ない現実を罵倒した。水に触れた靴底が、ジュッと音をたてる。慌てて速度を上げて、走り抜けた。
とにかく、上りきらないといけない。魔物ならともかく、あんなに飲みたかった水に追いかけられて襲われるなんて、前代未聞だ。雨のなか戦ったアメモドキにすら、魔物らしい瞳があった。しかし、この水には全くそんな様子はないのだ。
身体中が心臓になったかのようだった。二人を抱えてのかつてない全力疾走を、まさかの水が追いついてくる。
先ほどの分岐が見えてきた。イユは走りながら一瞬迷う。本当は、元来た道に戻りたかった。新しい道を進んで、今度は上から水が降ってくるなんてことが起こったら、今度こそ助からないからだ。しかし、来た道を戻ろうとしたところで、あそこには蛇がいる。どちらも、恐怖の対象だ。
イユは足に力を込めて急ブレーキをかけると、新たな分岐、上り坂を駆け上がった。幸いにも道は続いている。
走って、駆け上がって、登りきった。
気づいたら、水はなくなっていた。肩で息をしながら、振り返ったそこに、水の姿がなかったのだ。
(水に、諦めてもらったのだろうか)
そう望んだイユの足の力が抜けた。乱れた息が中々止まらない。心臓に悪いこと続きで、疲れを通り越してしまった。
本当の本当の本当に、こんなところに街があるんだろうか。
もし本当なら、こんなところに街を構える頭のおかしさを、今すぐに誰かに訴えたかった。
ふらふらになりながらも、どうにか立ち上がったイユは、壁に手をつきながら洞窟のなかを進む。いつの間にか空気が澄み、ひんやりとした冷気が戻ってきていることに気が付いた。上り坂も、じきになだらかになり、今度は下り坂に変わる。
下り坂というところに、警戒感を抱いたのは、はじめのうちだけだった。すぐに意識が朦朧とし、周囲の情報が耳に入ってこなくなる。足を進めるのも辛くなり、イユの膝は何度も折れそうになった。
それでも、足は止めてはいけない。言い聞かせたそのとき、足が小石をはじいた。コロコロと走る小石を、視線が自然と追ってしまう。
小石は、勢いを落とし道の途中で止まった。
小石に別れを告げるように、そっと視線を起こす。そこで視界に入ってきたものに、あっと声を上げそうになった。
そこに、木の扉があった。今まで見てきたものが常識を超えたものばかりだったからか、その扉はそれまでとひどく変わって見えた。砂色の蛇や砂色の水のように、超越した何かでないことが、ここまで安心を呼ぶとは思わなかった。
おかしなことに、人の手が入ったものを拝んだのが、遥か昔のことのような気さえした。梯子に昇降機、壁の梁。散々見てきたはずなのに、それらのどれとも違って、感じる。古い木材で作られたと人目で分かる、素朴な佇まい。こじんまりとした扉には、どこか暖かさがあった。
意を決したイユは扉を押しやろうとした。
見た目以上の重さだった。困ったことに、扉は身じろぎ一つしない。
耐えかねて腕に意識を集中させ、扉を押した。
ようやく、僅かに扉が動く。
念のため、扉の奥から水が溢れでてこないことを確認して、思いっきり体をぶつけた。そうでもしないと、扉を開けきることはできなかった。扉を開けるだけの体力ももう尽きているのだと、自覚する。
崩れるようにして、中に入った。




