その336 『砂漠の悪魔』
刹那、イユの頭上で爆音が響いた。落ちてくる砂の礫の感触を、肩に、頭に、感じる。ゆっくりと振り返ったイユは、目を疑った。
そこにあったのは、金色に光輝く針だった。ただし、イユの知っている針は、裁縫で使う小さなものだ。今目の前にある針は、イユの体ほどの大きさはある、規格外のものだった。それが、イユの頭上、山壁に突き刺さっている。
(なによ、これ)
熱いはずの体が、震えた。一気に血の気が引く。
再び砂嵐を振り返った。その先に、先ほどの光がきらりと走った。
もし、声が出ていたら悲鳴を上げていたところだった。レパードに、ワイズの重みを抱えて、脱兎のごとく走り出す。異能の力に物を言わせて、火事場の馬鹿力よろしく、走り抜けた。その先で、背中から砂を被る。
むせながら、砂の重みを拭って抜け出す。
砂嵐が、右前方から迫ってくる。そこに紛れて、光ではない何かが見えた。
鋏だ。黒光りする大きな鋏。二つ、あった。
それを認めた途端、またしても光が走る。
体を無理やり起こしたイユは、足に力を入れた。砂を踏んずけて、前へ進む。後方で風を感じた。
先ほど目で捉えた姿が、頭の中に浮かんだ。見えたのは、鋏。そして、金色の針。それらから、はっきりと想像ができる。つり上げられた尾から伸びる金色の針を持つ、巨大生物。両手に黒々とした鋏を掲げて、近付くものを挟まんとする。
鮮やかに浮かんだ光景に、嘆きたくなる。雪山にはここまで大きな狼はいなかった。それが、砂漠には砂嵐をものともしないほどの大きな蠍が、跋扈している。そしてまさに今、イユたちに狙いを定め、攻撃を仕掛けてきている。
恐怖に体が引きつったその瞬間、前方にある山壁の一部をぶち抜いて、金の針が突き刺さった。勢いで剥がれ落ちた壁の破片が、イユのもとにも降りかかる。
慌てて手で防いだイユの顔は、蒼白になっていた。こんなところで、一人、魔物を相手どれるとは思ってもいなかった。ましてや、相手は砂嵐の中にいる。そのうえ、とても巨大な魔物である。戦うなどという発想は、微塵もわかない。
落雷の音が響く中、逃げることを再開したイユは、しかし後ろに逃げるという選択肢はなく、前を進むしかなかった。少しでも後方に下がれば、針の筵になるだろうことが、続けて穿たれる針の様子から分かっていた。
追い込まれている。蠍にその意図があるかどうかはわからないが、そう結論付けたくなるほどに、狙いが偏っていた。だから、魔の巣くう中へと走るしかない。
きっと、イユというモルモットを走らせて、砂漠の悪魔がほくそ笑んでいるのだ。所詮、イユは大自然を体現したような大蠍の前では、吹けば飛ぶ存在にしかなり得ない。悪魔は、モルモットを玩具のごとく弄んで、自身の手の届く範囲まで招き入れようとしている。
絶望に震える足に無理を言わせて走った先で、イユの体がかくっと崩れた。視界が一気に暗くなる。こんなところで、体力の限界を迎えたのだと、気づかされる。異能を使って、無理をさせないといけない。それが分かっているのに、体が、頭が、言うことを聞かない。
(早く、動いて!)
こんなところで立ち止まっていては、三人とも殺されてしまう。
悪魔も、招く前に倒れたイユに落胆していることだろう。飽きた悪魔の手にかかれば、きっとあっさりと葬られる。肉片ぐらいは残るかもしれない。三人まとめてお陀仏だろうから、誰が誰のかは分からなくなっていそうだった。最悪な想像に吐き気がする。そうなるのは、断固お断りしたかった。
だから、動かない体を置いて、手が伸びた。足は言うことをきかない。こうなれば、手だけを動かして這いずるよりなかったのだ。
しかし、砂に爪を突き立てても、指の先から逃げていく。まるで水のなかで足掻くように、イユの体が地面を這った。
その少し先で、山壁から砂が飛んでくる。金色の針が、砂漠の悪夢の象徴のように、光っていた。
(駄目だ、殺される)
はっきりと自覚したその瞬間、死から逃れるように砂嵐から目を反らしたイユは、そこで見つけてしまった。
それは、まるで地獄の先に見えた一本の糸のようだった。
数歩進んだ先、その山壁に、切れ目がある。そこから、微かに冷気が溢れていた。
切れ目は垂直にできていたから、遠くからでは絶対に分からなかった。だが、驚いたことにこうしてみると、確かに人が入れそうな隙間になっていて、見る限りでは奥へと続いていそうだった。
洞窟の入り口だ。それを、確信した。
身体中の水分が干上がってなければ、きっと泣いていた。希望は、イユの力になった。二度目となる火事場の馬鹿力で、イユの体は立ち上がる。二人を背負いながら、一歩踏み出した。そうして、一歩。洞窟の目前へと近づく。
入り込もうとした瞬間、風が後方から叩きつけた。思わず吹き飛ばされそうになったイユは、必死の思いで山壁にかじりつく。指に最大限の力を入れて、飛びかける体を抑える。頭に思いっきり砂をかぶった。
砂嵐が急に強くなってきている。自覚すると同時に、声にならない声をあげて、イユの体は洞窟へと飛び込んだ。
その瞬間、更なる衝撃がイユを襲う。あっと声を上げることもできないまま、体が前方へと突き飛ばされた。砂の感触を肌に感じ、また倒されたのだと察する。背中のレパードたちが重かった。それでも、肌に感じる砂が、一段冷たいことに気付かされる。狭い入り口だ。洞窟の中というだけあって、外よりずっと涼しかった。
よれよれと起き上がったイユの体は、後方からの衝撃で、更に前へと吹き飛ばされた。くるくると飛ばされた体に、血の臭いを感じた。傷が開いたのかもしれない。
飛ばされた先で、辛うじて起き上がる。振り返ると、先ほどまで入ってきた入り口から、風を切るような音が響いてくる。砂嵐も、大蠍もここまでは入ってこられないのだ。
辺りを見回すと、レパードに、彼の背中にいたワイズが、同じように飛ばされて転がっていた。ロープは切れてしまったらしい。生きていることに安堵しつつもイユは、更に反対側を確認する。ぽっかりと開かれた大きな洞穴が、まるで魔物の口の中のようだった。そこから、心地よい冷たい空気が流れ込んでくる。少しでもその独特の空気を吸いたくて、イユの足は一歩先に進んだ。身体中ぼろぼろの自覚はあったが、危機を脱したからか、砂漠の熱気が収まったからか、意外にもまだ動けそうだ。
後方には蠍が控えているから、念のため早く移動すべきだ。そう判断したイユは、二人を背負う。ロープは、別のものと入れ換えた。レパードより器用でないからか、先ほどまでの安定感には及ばないが、これでどうにかなりそうだ。
そう思ったばかりだというのに、踏み出した一歩目から眩暈がして、よろめいた。そこに、もう一歩を踏み出して、耐える。動けるつもりになっていただけで、体がついていけていない。それでも、炎天下を歩くよりはましだから大丈夫だと、自身を説得する。
洞窟の先は暗く、詳細が分かりにくい。だから、今いる場所からだと、どうやっても終わりが見えない。
イユの体力切れと洞窟の終わり、果たしてどちらが先にやってくるだろうか。




