その333 『忘れてしまっていた人』
レパードのやせ我慢は大したものだった。イユの手を引きながら、ワイズを抱えて一歩、一歩進んでいく。
悔しかったのは、そのレパードに引っ張られる形になっていることだった。砂漠に足を取られながらも、イユは懸命についていく。少しでもレパードの負担にならないよう、むしろ引っ張ってやりたかったのに癪であった。
「まだ声は出ないのか?」
さっきから話さないイユを見かねてだろう、レパードが心配そうな顔を向けてくる。人を心配する余裕があるのかと、言ってやりたかった。
「もう少し水を飲んだ方がいいんじゃないか」
イユは首を横に振る。水筒の水は、あと僅かしかない。それをここで飲み干す気にはなれない。どうせならもっと暑いときに飲みたかった。それに、声が出ない原因が水を飲まないせいかどうかは、イユには分からなかった。レパードもきっと分かっていない。ただ、水のせいだったら良いのにと思っているようだった。
けれど、水を断るイユを見てか、ますます心配そうな顔をされた。そんな風に何度も確認されるということは、恐らくイユの顔色が良くないのだろう。それは分かっていたが、どうしようもない。健康的に見える顔立ちをつくるのは、普段から意識していないだけに中々どうして難しかった。
「やはり、お前も背負うべきじゃないか?」
仕方がないので、指で文字を書く。大きな手のひらだ。砂漠の乾燥した空気のせいで、かさかさしている。くすぐったいかもしれないが、そこは我慢してもらおう。
『大丈夫』
「いや、大丈夫じゃないだろ」
レパードの言葉に、書くかどうか悩みながらも綴った。
『はじめてのことじゃない』
案の定、レパードの顔に憐れみが浮かんだ。そのことに後悔が走る。そんな顔をしてもらうぐらいなら、もっと自分を労わってほしかった。
施設にいたときは、いつも泣いてばかりだった。
とんでもないことをしてしまったという気持ちに、怖いという心がまぜこぜになって、どうにかなってしまいそうだった。いや、現にどうにかなっていたのだろう。狂ったように、ひたすら、「ごめんなさい」と謝り続けていた。何もない牢のなかで、通りすがる人がいようがいまいが、泣きながらずっと、そればかり口にする。
そんな風だからか、『魔術師』や兵士の目に留まった。決まって、「うるさい」と鞭で打たれた。衝撃が体中を突き抜ける。
打たれた理由は分かっていたが、それならば余計に謝らなければならないと焦ってしまう。せめて、涙ぐらいは止めなければいけないと思ったのに、どういうわけだか一向にとまらない。どうにもできない涙に、余計に焦ってしまって、ただただ謝り続けた。
女、シーゼリアはいつも、そんなイユをいらいらしたように見ていた。
「黙らせてって言ったでしょ。集中できやしない」
そうして泣き続けたある日、とうとう全く声が出なくなった。声を張り上げようとしても、ひゅっと空気を割くような音しかでてこない。
泣けなくなったイユに、「この子供は終わりだな」と、兵士たちの視線が投げられた。
「いつもそうだ」と、雑談が聞こえてくる。
「子供は散々に泣いた後体力が尽きて、そのうち全く泣かなくなる。そうすると、そんな子供を狙って死神が近づいてくるのだ」
聞こえよがしに大きな声で、兵士の一人がそう言った。それに返した男の会話は、ひどく興味がなさそうであった。
「死ぬのは勝手だが、死体処理が面倒だよなぁ」
別の男の声がそれに返す。牢に伸びたシルエットからも、今日は三人いるようだった。
「殆どは外に穴を掘って放り込むだけだろ?それも同じ『異能者』にやらせるわけだ。お前はたいして何もしないだろうが」
「ここから運び出すのが面倒なんだよ。どうせ海には還らないんだ。ここでほかっておいても一緒だろうに」
「やめろ、臭うだろ」
構わないと、男は笑った。
「ここは、雪国だ。鼠の死骸だって大して臭わない。変わらないさ」
ぞくっとした。あまりの寒さに、手を温めようと息を吐く。そのせいで、手錠が擦れて小さな音が響く。水もまともに貰えないせいで黒ずんだ手は、かさかさで、確かに汚らしさは鼠のようだった。
けれど、鼠と同列に語られることを、この頃はまだ受け止められなかった。かといって、声はでない、満足に動くこともままならない身では、否定をすることもできない。
ただ、兵士たちの会話に怯える。それしか、できないでいた。
「止めろって、さすがに不謹慎だ」
不謹慎の意味はイユには難しくて分かっていなかったが、男の言葉に白けた雰囲気が漂ったのは分かった。男たちがばらばらと去っていく。ちょうど、交代の時間だったのだろう。
イユの目の前を通り過ぎた兵士の一人が、吐き捨てた。
「偽善者面したってどうせこいつらは、助からねぇよ」
けれどイユの場合は、死なずにすんだ。そのもっとも大きな理由は、異能があったことではない。あの男がやってきて、事情が変わったのだ。
「良かった、ようやく見つけた」
牢の向こう側で必死に手を伸ばす男は、自分の名を「ミレイ」と名乗った。首を傾げるイユに、父の友人だという男は、イユを守ると約束してくれた。
ミレイは訪れるたびに、イユに声をかけた。イユが弱っているのをみて、力づけようとしてくれた。
「可哀想に。声が出なくなってしまったんだね」
「いいんだ、そんな顔をしないでくれ」
「大丈夫、どうにかして外に出してあげるから。だからもう少しの辛抱だよ」
そう、毎日現れては、イユを慰めにきた。ミレイには大きな権力はないらしく、『魔術師』であっても、イユを簡単には外に逃がせないと言っていた。錠に繋がれているから、水や食べ物を貰えるわけでもなかった。それでも、「希望を捨てないで」と声を掛けに来る。それは一日のうちのほんの少しの時間。時計のない異能者施設で、それでも五分かその程度だと答えられる、たったそれだけの時間のことだった。
しかし、その声に、紛れもなく救われた。
「一緒にお父さんに謝ろう」
記憶を読まれた日も、烙印を押された日も、そう言って、必ずやってきた。
あるとき、ミレイはやってこなくなった。次の日も、そのまた次の日も、どれほど待っても、ミレイはこなかった。
代わりにやってきたのは、シーゼリアだった。暫く見ていなかった彼女は、明らかに上機嫌だった。イユの前に立ちふさがると、はっきりと宣言したのだ。
「あなたを助けてくれる人はもういないの」
嬉しさを隠せない表情で、シーゼリアは笑う。
「もう、あの人はやってこないわ。あの人はね、足元を掬われて死んじゃったの」
けらけらと。赤い唇が、楽しそうに嘲笑っている。
「レジエムと私の勝利よ」
それは、彼女の勝利宣言だった。
「あなたのおかげなのよ。あなたがいてくれたおかげで、あの人を落とす隙を手に入れたの」
ありがとうと、笑った。これでようやく邪魔者がいなくなった。ここにあるものを好きにできる自由を得たのだと。
ひとしきり笑い終わると、シーゼリアは冷酷な瞳をイユに向けた。赤い唇が蠢く。それがシーゼリアという女の武器だった。
「あなたは、一人なのよ。だからどんなに泣いてもね」
淡々とシーゼリアは抉るのだ。「誰も助けてはくれないわ」と。
「違う!」
そのとき、はじめて声が出たのだ。かすれきった声だったが、それでもはっきりとシーゼリアに伝わったことが、彼女の表情から分かった。
否定したイユに、シーゼリアの冷たい視線が、突き刺さる。
不機嫌に変わった顔に、イユの顔が強ばった。
「ごめ……」
ごめんなさいと言いかけて、飲み込んだ。シーゼリアに謝るために声が出るようになったわけではない。イユは孤独であることを否定をするために、声を発したのだ。それに、謝りたいのは、助けてくれたミレイにだ。だから、ここで謝ってはならないと、はじめてそう考えた。
「違わないわ」
シーゼリアが、指をパチンとならす。
背後に控えていた兵士たちが、鞭を構えて歩いてくる。
兵士たちの隙間から、シーゼリアの赤い唇が、ゆったりと持ち上がった。
「身の程を知りなさい。オリニティア・ハインベルタ。あなたは、一人になってしまったのだから」
影が、近づいてくる。女の高笑いが、イユを突き落とす。助けて。そう叫んでも、声が届かない。何故なら、そこにはもう誰もいないから。イユを助けてくれた人は、死んでしまったから。だから、イユは一人なのだと、女の、シーゼリアの宣言が聞こえてくる。
違う、そんなことはない。
一所懸命にそう否定して、涙して、痛みを堪える。やがて気を失うまでずっと、そんなことを繰り返し続けた。




