その332 『目覚めたら砂の上』
口の中がじゃりじゃりする。その感触に目を覚ましたイユは、視界いっぱいの砂に耐えきれず、顔を上げた。瞬間、突き抜けた痛みに、顔を顰める。それで、意識がはっきりした。砂地に顔をつけていたのだと気が付き、顔から砂を拭い去る。口をゆすぎたかったが、水は貴重だ。使うわけにはいかない。そう戒めてから、指先が、かじかんでいることに気が付く。「くしゅん」と、たまらずくしゃみをし、ぶるりと体を震わせた。凍てつくような寒さが、そこにあった。
(何故、私はここに?)
頭が重くて、思考がはかどらない。ぼんやりとしていると、視界の先に蠍が歩いていくのが見えた。
月の光を浴びて黒光りする鋏を悠々と掲げながら、砂に足をとられることなく、蠍がゆっくりと進んでいく。テカった足が前へと踏み出す度、背中の尾を、敵を探すように僅かに左右に振っていた。砂漠の小山の頂上にたどり着くと、何を思ったのか、近くにあった砂地へと突っ込み、中へと潜っていく。
蠍が金砂に消えるのを観察してから、ようやくイユはここがセーレの前ではないことに気が付く。移動したらしい。
そう思っても、まだ頭は動かなかった。体中が気だるくて、頭の芯がぼうっとしていた。こうして寝転がっているのでさえ億劫だ。このまま気を失いたかった。今でさえ喉が渇ききっていて、体中が辛いのだ。そんなことをしたら死んでしまうかもしれないなと、まるで他人事のように思った。
それでももう、どうでもよかった。何より疲れてしまった。いろいろなことが立て続けに起きて、世の中のすべてに置いて行かれた心地がした。何かをすべきだとは分かっていた。けれど、どうすべきか考えるのさえ、嫌になった。セーレは燃え、リュイスは攫われてしまった。ブライトには裏切られ、レパードはセーレに駆け込んでいった。イユにはもう何も残っていない。唯一あるとしたら、それは自分の命だけだ。けれど、命があったとしてどうなるのだろう。体がボロボロな自覚はあった。どのみち、こんな砂漠にいたらあと少しの命だろう。もう少し生きてみようと思ったが、それもここまでだ。
砂にまみれて、この寒さの中死んでゆく自身を想像しても、何の感情も沸かなかった。ただ、変わらなかったなと他人事のように感想を抱く。雪原で死にかけたときも、待ち受けていたのは寒さだった。狼たちが腹を空かせて凍死したイユを喰らおうとする代わりに、ここでは蠍がイユの亡骸の上を通り過ぎていくだけだ。
それだったら、もっと早く死んでしまった方が良かった。その考えがそっと、イユの心をつついた。つつかれた心は波紋のように、次から次へとさざ波をたてる。
そうすれば、セーレは襲われずにすんだ。今頃、インセートの街でギルドの仕事をしながら、変わらない日々を過ごせていたはずだ。自分がいたことで、セーレが燃やされてしまった。皆を失ったという喪失感がぽっかりと胸のなかにある。
雪の村で助けてくれた子供たちを、置きざりにすることもなかった。ひょっとしたらまだ、村外れの空き家で三人仲良く毎日を生きていけていたかもしれない。そんな、後悔をひきずることもなかった。
雪道の途中で、飢餓のあまりに襲ってしまった『魔術師』を思い出した。あの中にいた子供も犠牲にならずにすんだことだろう。『魔術師』の家系だからどんな目に遭っても良いのだとは、同じ境遇のイユには、間違っても言えない。罪悪感で胸が潰れそうだった。
イユを施設のなかで助けた女もそうだ。イユに水を渡す分、生き長らえたかもしれない。そんな女の信念を踏みつけるような生き方しかできない自身に絶望した。それに――。
イユがいなければ、イユがいたせいで、イユのことを助けたから――。
全てが、推測だ。分かってはいる。イユがいようがいまいが、結末の変わらない人々もいただろう。それでも、巻き込んだかもしれない命の多さを思うと、胸が苦しくなった。
そのうえで込み上げるは、後悔、罪悪感、絶望だ。二度と味わいたくない感情が、イユの心に刻まれていく。それが――、生きることが、とても辛かった。
(何故、私に『生きろ』と願ったの?)
イユにその暗示をかけた者のことを想う。けれど、その姿すら今はまだ思い浮かばない。答えは、返ってこなかった。
代わりに拾ったのは、呻き声だ。
「うぅ」
後ろから聞こえてきたその声に、聞き覚えがあった。咄嗟に振り返った先に、見知った黒髪が見える。レパードが倒れている。その事実に、イユの瞳が、揺れた。
「レパード!」
そう声を張り上げようとして、喉から溢れたのはひゅっという音だけだった。駆け寄ろうとして、体が思ったように動かず、砂に飛びこんだ。
それでも、再び顔を上げて、足を無理矢理に立たせた。なんてこともない、さっきまでの倦怠感が嘘のように、体が動いた。頭の中にあった感情は全て吹き飛んだ。ただ、レパードのことだけで頭がいっぱいだった。そんな勢いのまま、レパードのもとまで歩く。一歩ずつ、一歩ずつ。砂に足をとられるのがもどかしい。それでも、どうにか近付けた。
レパードの背中には、ワイズが背負われていた。その赤い瞳が今は閉じられている。レパードもワイズも、気を失っているようだ。
触れたレパードの体は、冷えきっていた。ワイズとレパードをそれぞれ仰向けにし、顔に掛かった砂を取り除く。そうして顔に触れたが、彼らの頬は冷たい。温めたかったが、イユの冷たい手では余計に冷やしてしまう気がした。
(二人を、助けないと)
自分のことなど、頭から抜け落ちていた。ただ、失いたくないという思いに突き動かされて、水筒を取り出す。キャップをあけて、すぐにレパードの口に含ませる。
「うっ」
いきなりの水は、逆によくなかったのだろうか。レパードの顔が苦渋に歪む。悩みながらも、もう一口含ませると、その水に抗えないと言わんばかりにレパードの口が開いた。一口、二口。そして、最後の一口。その瞬間、飲みきれずに、口から溢れた水が、砂地に染み込む。そして、とうとうレパードの目が開いた。
「イユ。お前、目を覚ましたのか」
それは、イユの台詞である。言ってやりたかったが、あいにく声が出なかった。
肩を竦めるだけのイユに、レパードは異常に気が付いた顔をした。水筒を差し出したが、断られる。仕方なくワイズの方に向かおうとしたイユに、レパードの声が止めた。
「ワイズは気を失っているだけみたいだ。水は試したが受け付けなかった」
ワイズが気を失っているのはずっと前からのようだ。イユは大人しく水筒をしまった。
「それよりお前、まさか声が……」
別に隠すことでもないので、頷く。
「そうか」
レパードの顔が曇ったことに、ぐっと胸が締め付けられる感じがした。
「すまない、砂地に思いっきり飛ばしちまったな」
イユは首を横に振った。今までレパードがワイズとイユを背負い、担ぎながら進んできたことを、今の言葉で気づいてしまった。
何よりももう、これ以上、心配を掛けたくなかった。その思いだけで、イユは動ける。立ち上がろうとするイユに、一方でレパードは膝を曲げて座り込んだ。
「悪い。少しだけ、休ませてもらえるか」
レパードは自分の水筒を手に取ると、呷る。
目覚めたばかりだ。当然、すぐに動けるはずもない。冷静に考えて、レパードの行動はなにも間違っていなかった。それなのに、イユといえば頭のどこかで、今すぐ歩かなければいけないと思い込んでいた。相変わらず自分のことばっかりだと、反省する。
しゅんとしつつも、イユはかろうじて表情をしまいこみ、頷いた。落ち込んだ顔は余計な心配をかけるだけだ。了承の印に、レパードの隣へ座り込む。
「ワイズの話だと、あっちに街があるらしい」
レパードは、イユの様子を気にしていないようだった。話していなかったことを伝えようと、その指で新たな目的地を指し示す。ワイズの話したという、行き方を一通り聞いた。どうも、レパードはワイズの話を信じることにしたらしい。
「悪いな。セーレの前で、お前を一人にした」
イユは首を横に振った。気にしてない。口パクだけでどうにかそう伝える。
「そうか」
レパードは、ただそれだけを口にした。そのあとは、暫く何も話さなかった。
時間だけが、乾いた空の間に流れていく。空高い場所から、満天の星が見下ろしていた。
いつの間にかうつらうつらしていたイユは、レパードの立ち上がる音にはっとした。
「行くぞ」
レパードの顔はいつもとかわりない。だからこそ、何をするつもりか分かった。
慌てて立ち上がったイユは、真っ先にワイズの元へと駆け寄る。
「おい、まさか背負うつもりか?」
レパードの言葉に頷いた。ワイズの腕に自分の首を通して、背負いきる。痛みは意識を集中させればどうにでもなる。それが分かっていた。
「無理するな。お前、傷が開いて……」
その言葉には首を横に振った。無理はするに決まっている。無理をさせることができるのが、イユの異能なのだ。そうやってイユの体は無理に無理を貫いてきた。今更、やめられない。レパードこそ、気を失っていたのだから、もっと休むべきだ。
「いや、俺がやる」
首を横に振るが、レパードは聞かない。
「お前は、傷が開く可能性があるから駄目だ」
途端に背中の重みが消えた。
はっとして振り返ると、レパードがワイズを抱えて、先ほどのイユのように背負いはじめている。意地があったのか、少し前まで倒れていたのが嘘のような動きだった。
「本当はお前も抱えるべきだと思うんだが」
イユは盛大に首を横に振った。
それを見たレパードが苦笑する。きっと、レパードの頭は砂漠の砂にやられてどうにかなっている。
「おぶられるのは嫌か?」
こくんと頷いたイユは、ワイズを抱えようとレパードの背後に回る。
しかし、くるりと向きを変えられてしまった。
「おい、まさかまだ背負うつもりか?」
レパードの言葉に頷く。
呆れた顔に反抗したくなるが、目の前に差し出されたものを見て止まった。
「諦めろって」
何でも包めそうなほどに大きくて、ごつごつした手だ。砂漠の乾燥した空気にやられて、少し白っぽく見えた。
「ほら、おぶられるのは嫌なんだろ」
手ならまだいいだろ。と、言外に言われた。
まだ、握ろうとするのだと思った。セーレがあんなことになったのに、まだイユに手をさしのべるんだと。我ながら、弱いなと思った。どうしても、それを拒絶できそうにない。
その手を、そっと握りしめた。




