その331 『代償』
渡し板を下り終わったところで、ワイズがレパードを追い抜いて走っていく。それを見送ってから、視線を僅かに上げて、目に留まったものを見つめた。
琥珀色の何かが、砂のなかに埋もれていた。
それが、髪だと気づいた瞬間、何が起きているのかをようやく悟った。イユが、倒れているのだ。その事実に、すぅっと、血の気が引く。
今の今まで、イユを置いていったことにすら、頭から抜け落ちていた。それが、自分でも信じられなかった。最悪だ。イユは死にかけてから目を覚ましたばかりなのだ。無理をさせてここまで連れてきたからこそ、置き去りにするべきじゃなかったのに。今頃、後悔がレパードを蝕む。
「イユ!」
慌てて駆けつけると、先に脈を調べていたワイズが顔をあげた。
「生きてはいますが、体が熱い。このままでは危険な状態です」
喉がからからになったのは、決して暑いからではない。むしろこの暑さのなかにいて、気が狂ったように寒気が感じられた。
イユは、荒い息をついている。声をいくらかけても、意識がさ迷っているのか、返事がない。ただ、苦しそうにしているだけだ。レパードは額に手をあてたが、自分の手では熱すぎてあまり冷えている気もしなかった。
「助けられないか?」
ワイズはじっと考える仕草をする。それから鞄を探って水筒を取り出す。
「体は冷やしてやればいいでしょう。ただ、背中の傷が再び開きだしているのは……」
イユの服ごしに、べっとりと赤いものが滲み出ている。
「魔術で治したんじゃなかったのか?」
ワイズは、言葉に苛立ちを込めた。
「魔術があればどんな無茶でもできると思い上がっていませんか?傷は塞いでいましたが、死に掛けていたんですよ?そもそも砂漠を歩かせること自体が無謀なんです」
そこまで言われれば、レパードでもいかに無茶なことをしていたのか理解ができた。レパードの手をつなぎながらであっても、今までイユは歩みを止めなかった。顔色は悪くても、レパードについてきていた。それが、心理的外傷の異能者施設を思わせる場所であっても、過酷な砂漠の中であってもだ。レパードはリュイスを助けたいという我が儘に、イユを付き合わせてしまった。その事実を、痛感する。
本当は知っていたのだ。怪我だけではない。暗示にかかった影響もあったのに、都合よく無視していた。顔色の悪いイユは、いつものような強気な表情を浮かべる余裕もなかったのに、だ。
そう、レパードは、聞いていた。ブライトは確かに、三角館で言っていた。イユに聞かせるとそれこそ危険だと思ったのか、耳を閉じさせてから、こう言ったのだ。
「無理に暗示に抗うと、心が壊れちゃうよ?」と。
ましてや、イユの場合は、生きるという暗示にずっと支配されていたような状況だ。それを取り除いて代わりに空いた心の隙間に、ブライトを信じるという別の魔術を組み込んだ。だから、余計にたちが悪いと。
それなのに、巻き込んだ。心も体もぼろぼろになっていると分かっていて、子供を砂漠の中歩かせた。最悪な男だなと自嘲する。ワイズが責める口調になるのもよく分かった。
『魔術師』のことは、当然許せなかった。けれど、やはりそれ以上にレパードは自分が許せない。そもそも、ブライトがイユに暗示を掛けるその隙を与えたのは、レパードだ。暗示の怖さを、カルタータで身をもって知っていたから、イユを遠ざけようとしたのが原因だ。イユの事情などどうでもよくて、レパードの両手はいっぱいだと自分のことばかり考えていた。その自分勝手な考えで、殺そうとさえした。だから、イユは自分の暗示を解いてもらおうと考えてしまった。結局、イユはレパードの勝手な都合に巻き込まれただけだ。
助けなければならない。リュイスをさらわれ、セーレを失い、イユは傷だらけでここにいる。それならば、せめてイユだけでも助けないと、自分を許せない。
「頼む。魔術で助けてやってくれないか」
そう口にしながら、こんなところまで他人を頼るしかない自身に呆れ果てた。
ワイズはそれに考える仕草をする。難しい表情をしていた。
何を考えているのだろう。ワイズが頷いてくれるのを期待して、レパードは言葉を紡ぐ。
「お前を信用しないといいつつ、こういうときだけ助けてくれというんだ。勝手な言い草なのはわかっている。だが、それらを承知のうえで頼む。イユを、死なせたくない」
レパードの話を聞いたワイズの顔は、ますます嫌そうになった。
「誰も助けないとは言ってないのですが、鬱陶しいですね」
ワイズは、水筒でイユの口を拭ってやってから、レパードにその水筒を差し出した。
理解に苦しみながらも、受け取るレパードに、ワイズは諦めたように言う。
「使ってください。僕には不要になります」
意味がわからず呆然としていると、ワイズは続けた。
「イユさんについては、どうにかなるとは思います」
喜色を顔に浮かべかけたレパードを制するように、ワイズは「ただし」と付け加えた。
「今から、マゾンダの街の位置を教えますから、絶対にたどり着いて下さい。その街に、イルレレという、老婆の営む宿屋があります。入り口を入ってすぐ右にありますから、できればそこを頼って下さい」
唐突に説明し出すワイズに、理解が及ばない。けれど、疑問を挟む余地はなかった。時間が惜しいとでもいうように、次から次へとワイズの説明が入る。
「マゾンダはここからあそこに見える山に向かって歩いた先にあります。わかりますか?行きに通った坑道のあった山です。マゾンダは地下街ゆえ、入り口が分かりにくいですから、今から言うことをきちんと覚えてください。山の麓に地下道とは別の、洞窟があります。洞窟の左手の道を歩き続けると、三番目の分岐で右に曲がります。その先に扉がありますから、そこがマゾンダです」
「それは分かったが、なんでそんな説明を急に」
ようやく割り込めたレパードは、ワイズの視線を受けて再び口をつぐんだ。
「本当に分かりましたか?」
その目は、間違いなく真剣だ。
「あ、あぁ」
レパードがワイズの言ったことをかいつまんで復唱する。それで、ようやく納得の顔をされた。
「それで、そのイルレレとかいう名の宿屋で、イユを助けてもらえということか?」
「まぁ、そういうことです。では、いきますよ」
止める間もなかった。ワイズが杖を取り出すと、イユに向かって振り下ろす。途端に、風がイユを中心に集っていく。服を着ているために傷がどんな状態かは見えなかったが、恐らく癒えていっているのだろう。イユの苦しそうな表情が、徐々に安らいでいく。
ほっとしたところに、苦しそうな声が別のところから返った。
「これで傷は、暫く、大丈夫なはず、です」
ワイズの体が、くらりと傾く。あっと思ったときには、その体が砂漠へと転がっていた。
「お、おい、ワイズ?」
慌てたレパードはワイズを起こそうとする。そのときにはもう、ワイズの意識がない。いくらゆすっても、起きる気配がなかった。
どういうことだ。焦ったレパードは、考える。明らかに、ワイズの顔色が悪い。もともと病人のような顔をしていたが、今はそれ以上だ。この炎天下のなかで、この顔色は、あり得ないだろうと言いたくなる。
「生きてはいるようだが……」
イユは安らかな寝息を立てている。ワイズは、脈こそあるが、気を失っていた。先ほど、ワイズが説明しだしたことを思い出す。
(ひょっとして、治癒の魔術とやらは負担がかかるのか?)
そういえば、イユの記憶を視たブライトも、どこか辛そうにしていた。魔術というのは、魔法のように万能ではないのかもしれない。
(それなら、こいつは、こうなるのが分かって魔術を使ったのか)
ワイズの言葉の真意を知って、レパードはやりきれなくなった。手を煤まみれにしてレパードを運んだことといい、この『魔術師』はどこか献身的だ。置いて行かれるとは思わなかったのだろうか。ましてや、レパードたちはブライトに、ワイズの姉に、恨みがある立場だ。ワイズの命など軽く扱うとは考えなかったのだろうか。
聡い少年だ。それぐらいはきっと、考えている気がした。それでも助けようとするのは何故だろう。本当に罪滅ぼしだけが目的なのだろうか。自分の命を懸けてまで姉に報いたい何かがあるのだろうか。それとも――、
レパードの記憶の中のブライトが、にこっと笑った。あの笑みで、イユをだましたのだと思うと、まだ信じきれない自分自身がいる。ワイズも、こうして献身的な姿勢を見せることで、レパードたちに取り入ろうとしているのではないかと。
それはしかし、『魔術師』にとって、あまりにも無謀な賭けだ。何故なら、レパードたちは二回目だからだ。そう簡単に騙されてはやれない。
どちらにしても、今気を失っているワイズを置いていきでもしたら、それこそ本当に死んでしまうのははっきりとしている。どんな思いがあったにしろ、そこまでの覚悟をワイズはしているということになる。
「餓鬼ばっかり、無茶しやがって」
レパードはその背にワイズを負ぶった。そうして、イユを両手で抱える。一人なら軽かったが、二人となると話は別だ。最低限の荷物だけを手にして、言われた山へと歩き出す。




