その330 『セーレ炎上より』
その唄は元々、罪を背負った友への別れの歌だったという。『御魂』とは後から置き換えられたもので、元来は友を示していたと。また、この唄は当時から死者への弔いとして広がったのだという説もある。多くを失った若者が、死者への手向けとしてこの唄をうたったのだと。或いは、恋歌などという話もあった。女神の微笑みとは、本当は愛しき者を指しているのだと。
どれが正しいのかは分からない。その全てが、正しいのかもしれない。
ただ、唄の由来はともかく、今うたわれるこの唄には、死者の魂に安らかな海へと還ってほしいという願いが込められているのだとはぼんやりと思っていた。きっと、この唄をはじめにうたった者にとって、唄の送り先である相手は、大切な存在だったのだろうとも感じていた。
だから、この唄を口ずさむ度、どうしても切ない気持ちがした。大切な何かが、自分の手から零れてしまう、そんな感情が止まらない。
それは、十二年経った今でも、同じだ。
気づけば、セーレはレパードにとって、切っても切り離せないものになっていく。いつかはレパード自らが手を放し、彼らだけの意思で進んでもらおうとは思っていた。
だからこそ、それまでは、一緒にいたかったのに。
――まさか、その前にセーレがなくなってしまうなんて、考えたくもなかった。
燃えている。セーレが、炎に包まれていく。
かけがえのない居場所が、十二年前には血にまみれていたあの部屋が、何もかもが燃えていく。あの日、あのとき、火矢がマストに突き刺さったのを思い出したように、再びの悪夢がレパードを襲う。
全てを洗い流してくれた雨はもう、やってきてはくれなかった。
煙が、視界を覆っていく。まるで、ついこないだ訪れた風切り峡谷の霧のように、深かった。息が満足にできない。霞がかった視界のなかで、船員たちの顔が代わる代わる浮かんでは消えていく。
十二年前と同じだった。あの島で全てを失ったレパードは、今日この場所で全てを失った。リュイスがブライトと克望、サロウの三人の『魔術師』たちに、攫われた。イユは暗示を掛けられ、あの強気だった態度が影を潜めてしまった。ラビリは、クルトが燃えているセーレの中にいると知ったら、どう思うだろう。あれほどライゼリークを船長と慕っていたラダが、皆に凶行が及ばないよう自ら去ったというのに、こんな事態になったと知ったら、どれほどの絶望を抱えることだろう。
四人だけではない。
まだ妻子の見つからないままのミンドールは。弟を失いながらもずっとセーレで皆を診てきたレヴァスは。レパードを英雄だと慕ってくれるジェイクは。ようやくイユと一緒にいることで前を向いてくれるようになったリーサは。十二年前怪我を負いながらも一人で船を飛ばし続けたライムは。赤ん坊のころからずっとセーレにいるクルトは。ライムやクルト、ラビリのことをなんだかんだで優しく支えてくれていたレッサとヴァーナーは。料理人としてずっとセーレに残り続けたセンは。おっとりしているのに、セーレのために反対意見を押し退けてレパードを船長にしたマーサは。
カルタータの者たちだけではない。
マドンナの助けがあってから入ってきたクロヒゲに、キド、ベッタたちもいる。シェルも。アグルにレンドも。ミスタも。マレイユも。ジルも。
みんな、死んだのか?
その疑問を口にしたら、現実になってしまいそうで、声にならなかった。否、認めたくなかった。ここまで積み重ねてきた十二年間、それがたった一日で全て崩れ去ったのだと思いたくなかった。彼らの思いも、悩みも苦しみも喜びも、こんなに容易く消えてしまったのだと、認めたくなかった。
感情という名の豪雨が、レパードを叩きつける。
生きていてくれ。せめて、一人でも良い。誰か、生きていてくれ。いつもみたいに、船長と声をかけてくれ。なんで、燃えているんだ。燃やすな、俺たちの大切な居場所を燃やすな。セーレの皆が生きていた証をなかったことに、しないでくれ!
そんな感情に流されるままに、走って、走って、走り続ける。
こんな目に合わせた『魔術師』が、憎かった。十二年前といい、こんな仕打ちをするのは、あいつら以外にはいない。ただ、前とは異なり、今回は彼らのはっきりとした顔を思い浮かべることができる。だから、怒りの捌け口は、あった。十二年前には、それができなかった。そのせいで、『龍族』が、レパードたちが、疎まれた。だが、今回は違う。レパードこそが、『魔術師』を思い描ける。『魔術師』を恨めと、心のなかが叫んだ。
「いい加減にしてください!」
突然の叫び声に、レパードの意識が戻った。
目を開けたそのとき、視界に飛び込んできたのは、『魔術師』の少年、ワイズだった。少女かと見間違うほどの真っ白な顔が、何故か煤にまみれている。けれど、その顔をみてはっきりと思い出した。
そうだった。ブライトの弟を名乗るこの少年が、レパードとイユをシェイレスタの都から連れ出した。二人の傷を治し、イユの暗示を解き、セーレのある場所までレパードたちとともに歩いた。何故、この少年がそんなことをするのか、本人は罪滅ぼしのつもりのようだが、納得がいかずにいる。なにせ、この少年は『魔術師』だ。
「ようやく、お目覚めですか」
呆れたような言い方に、違和感を感じる。少しして気がついた。先ほどの「いい加減にしてください」という声は、ワイズのものだ。余裕がない、切羽詰まった言い方だった気もする。その声と今の声には、はっきりとした温度差があった。
「全く、何を考えているんですか?あんなふうに叫んだら、煙を吸うに決まっているでしょうに」
呆れ口調に、気が付かされた。レパードは、何かを叫んだらしい。無我夢中で、覚えてもいない。ただ、船内中を駆け回ったのは覚えている。問題は、レパードは走って、それでどうなったのか分からないということだ。まるで、永遠の時間を走り続けた気分だった。
けれど、時間は実際には、むしろ遡ったかのようだった。レパードが起き上がって周囲を見回すと、すぐ脇にマストが確認できた。それで、はっきりと悟らされる。ここはどうみても、甲板なのだ。廊下を走り続けたはずのレパードは、甲板に戻ってきてしまった。
理解が及ばないレパードは「皆は?」と声を発した。その声は思った以上に枯れている。
「いなかったんでしょう?」
淡々としたワイズの物言いに、心臓を突き刺された感じがした。たまらず、下唇を噛む。血の味が、苦い。
船内に入る扉が、視界に映っている。そこから覗いているのは、赤い炎だった。セーレはまだ燃えているのだ。レパードは時を遡ったわけではない。船内を喉を枯らして叫びながら走り回ったのも、血痕を見つけてしまったのも、全て本当の出来事だ。うっすらと認めざるを得ない現実が、すぐ目の前に浮かび上がってきている。心が否定したいと、叫んでいる。その声に耳を傾けてしまいたい。いっそ皆が幸せな幻覚でも見て、狂ってしまえたほうが気が楽だろう。
けれど、現実は、熱い炎とともに目の前に転がっている。
(なんでこんなことになっちまったんだ?)
例えば、彼らが食糧を調達できずに餓死している可能性なら、認めたくないが頭の片隅にはあった。だが、それならまだ生き残りがいるはずだ。今回はそうではない。炎にまとめて焼かれてしまった。
「お前の姉さんは、この現状を分かっていると思うか?」
どうして、そんなことを聞いてしまったのかと聞かれたら、ブライトの顔がちらついて離れないからと答える。犯人は、あいつしかいないのだとそう思えてしまう。
「分かっているでしょうね。むしろ、主犯かもしれません」
ワイズからの視線を感じた。強い意思のようなものがそこにあった。姉のせいに違いないと、決めつけられるだけの根拠があるのだろうか。それは分からなかった。
だが、しっくりこないこともある。ブライトはセーレの場所を知らないはずだったのだ。レパードは当然、ブライトが船を去った後に何かしでかしてくる危険を考えていた。だから、ブライトと離れてからセーレを移動させたのだというのに、現実はこの通りだ。リュイスやイユの記憶を覗いたのだろうか。それとも、他に知り得る手段があったのだろうか。
口惜しさに、拳を握りしめる。血が滲む手に、気づいたようにワイズが呆れた顔に戻る。
「自傷行為ほど意味のない行為はありませんよ」
そんなことはわかっている。頭では分かっていても、自分でもどうもできない。
ふいに、ワイズがレパードの手を握った。半分体を起こした状態だったレパードは、意外な行動に目を瞬く。そのワイズの手から、光が溢れてレパードの手を包んだ。
今しがた傷つけた傷が、塞がっていく。
レパードは目を見張った。自身の手ではない。見たのは、ワイズの手だ。細くて折れそうな、小さな子供の手。その指先がはっきりと黒ずんでいる。
それで、レパードは何故自分が今甲板にいるかに思い当たった。他でもない、船内を走り回っていたレパードを、恐らく途中で気を失った自身を、甲板に運び込んだ者がいる。
「お前が、俺を?」
レパードの疑問の声に、ワイズの赤い瞳がレパードを見た。いや、ワイズは今までもレパードを見ていたはずだ。ただ、レパードがその視線を受けながら、逸らしていた。故に、今の今まで、気づかなかった。その瞳が、僅かに潤んでいることに。
今頃、気づかされた。ワイズは『魔術師』だが、年齢でいけば恐らく当時の、ライムぐらいの年だろうことに。こんな子供がレパードを運んだのだ。こんな見るからに病弱そうな子供に。それはきっと、重労働のはずだろうと察する。
「他に、誰が運べると言うんです?」
強気な口調は、虚勢を張っているようにしか見えなかった。誰かに似ている。そう思ってから、イユだと気づかされる。こうやって、無意味に強がって自身を大きくみせるところがそっくりだ。
「まぁ、いないわな」
複雑な気持ちに、軽口で返しながらも、疑問を口にする。
「お前の手は治さないのか」
ワイズは首を横に振った。
「治せるものなら治します。物事には限度があるんです」
「それはどういう……」
きっぱりとした物言いに、よくわからず問いただそうとしたところで、大きな音がした。
見上げたレパードは、慌てて立ち上がる。炎が、見張り台を燃やしている。そこから音が断続的に響く。
「もう起きて大丈夫なんですか?頑丈ですね」
音に気が付いていないわけではないだろうに、ワイズが淡々と言い放った。
頑丈とは、余計な一言が多い。こういうところに、いかにも反抗期の子供らしさを感じて、レパードが抱えていたぐつぐつとしたものが、急に冷えていく瞬間を感じていた。
結局のところ、最も許せないのは自分なのだ。一度その手を少年の血で染めた時点で、どうしても怒りの矛先を向けられない。それが赤の他人だと分かっていても、『魔術師』であっても、変わらないのだと思い知らされた。
「それだけが取り柄だからな」
そう返しながら、レパードの視線は出口へと向く。話したことで平静を取り戻せていることに、気が付かされた。我ながら、大した図太さだと感じる。失いたくないものを立て続けに失って、むしろ心が麻痺してしまったようだった。心の歯車に怒りの油すらもさされなくなって、とうとう動くこともできなくなった心地がした。
どうしてこの世界は、弱者にばかりきつく当たるのだろう。そんな風に、どこか第三者の視点で、疑問に思う。『異能者』に、『龍族』。カルタータの人々。皆が虐げられてきた。いつもそうだ。美味しい思いをごく一握りの者がしている。そんな一握りになりたかった。或いは、平和な街の住民になりたかった。そうすれば、断腸の思いを一生のうちで、何度もすることはない。
扉をただぼんやりと見ているレパードに気が付いたのか、ワイズがこちらを見上げてくる。
「もう、探さないんですか」
「あぁ」
どのみち、この船は終わりだ。もうたくさんだった。
レパードは渡し板の方へと体を向けた。そうして、ゆっくりと下りていく。
背後で燃えあがる見張り台が、崩れ落ちていく音がした。
(終わった)
はっきりと自覚した。今のレパード一人では、リュイスを探しに行く力はない。燃えているセーレに水をかけることもできない。憎いはずの『魔術師』の一人にすら、爪を立てる気力がわいてこない。
約束は潰え、レパードを動かすものはなくなった。
(ラヴェ、俺の死神はどこにいる?)
早くこの、のろまな黒豹の首をかっ切って、欲しかった。




