その33 『なにかがおかしくて』
身体中を焼き付けるような熱さが走る。満足に息もできない。胃はムカムカとし、何か入ろうものならもどしてしまいそうだ。
――――あぁ、なんて苦しいのだろう。
意識は揺らぎ、身体は言うことをきかない。痛みに喘ぐ音が声として発せられずにヒューヒューと掠れた音に変わる。喉がからからで、水が恋しい。唇どころか身体中の皮膚が乾ききってしまって、何かに触れるだけで痛い。
けれど痛みは、生きているという証だった。鈍った感覚のなか、視界は闇に閉ざされて何もわからないでいると、死の世界にいるようにしか感じない。痛みがあるからこそ、悪夢は終わらないのだと自覚する。永遠に続く地獄に、涙などとうに枯れてしまった。
しかし、あるときを境にそれは唐突に終わりを告げる。
「立て」
扉を開ける音とともに響いたのは、男の声だ。くぐもっていることから、甲冑越しに命じているのだとはぼんやりと理解する。
立てる力など残っているはずもなくじっとしていると、続いて声が響いた。
「お前はごみ溜め行きだ」
腕を掴まれて強引に身体を引き上げられる。引き摺られていく身体が、痛みに悲鳴をあげる。遅れて、ヒューヒューと喉がなった。
鉛のような身体に何度も衝撃がやってくる。それらに慣れた頃、カビくさい灰色の床に叩きつけられた。冷たさを頬に、身体中に感じる。頭の中で整理できないでいる気持ち悪さに、目の奥がずっとチカチカしている。
痛みと気持ち悪さに勝ったのは、状況が変わったことによる期待だった。握りしめた手に力が入らず立ち上がることもままならなかったが、どうにか首だけは動かせた。様子を確認すべく目を細める。
鞭を手にした甲冑の兵士二人の影がある。一人が鞭で叩きつけようと振り仰ぐ。
全身に染み付いた恐怖に何よりも身体が反応した。思わず目を瞑ると、床を抉る音がじんじんと耳の中で響き渡る。
恐る恐る目を開けたときには、兵士たちの前に鉄格子の扉が現れていた。別の牢に入れられたのだと、状況を把握する。扉は閉まっているが鍵はまだだ。急げば兵士たちが鍵を掛ける前に無理に外に出ることもできたかもしれないが、そうした気力は全く起きなかった。そもそもそのような無茶が通用する異能があることも当時のイユは知らなかった。
鍵を掛ける音が鈍く響き、兵士たちは何も言わずに去っていく。
その姿をぼんやりと見やってから、何も確認することもなく目を閉じた。途端に闇の世界へと意識が吸われていった。
目が覚めたのは、すすり泣く声を拾ったからだ。視界に広がる鉄格子の先には通路があり、数歩進んだ先で灰色の壁が覗いている。その様子は、眠りにつく前と何も変わっていなかった。泣き声の正体は誰なのか、久しぶりに疑問を抱く。兵士や魔術師が泣いているとは思えない。そう判断できる思考は残っていた。
体は、多少回復していた。少なくとも動かせそうであることを確認し、のろのろと起き上がる。みしみしと身体らしからぬ音がすると同時に、ぐるぐると視界が回ったように感じた。じっとその場に留まって落ち着くのを待ってから、声のするほうへと視線を動かす。
そこで、目を丸くする。
見たことのないほど大勢の女たちが、そこにいたのだ。
同じ鉄格子のなかで、女たちは互いに身を寄せ合って暖をとっているように映った。
眠りにつく前は余裕がなかったから、人の気配など全く気づいていなかったのである。
そもそも、イユ以外の人間がいるなど、考えたこともなかった。灰色ばかりの地獄のような世界はずっとイユを苦しませるためだけにあって、それは孤独のなかでこそ行われるものだと思い込んでいたのだ。
だから、人がいたというその事実だけで、急に目の前が滲んだ。枯れたと思っていた涙が戻ってくると、もう我慢することはできなかった。咄嗟に彼女らのなかに飛び込もうとして、前に倒れ込んだ。少し寝ただけでは、体力は全く回復していない。仕方なく、這いずるように体を動かし始める。手を伸ばし、足を伸ばし……、何度か繰り返したところで疑問を抱いた。
イユぐらいの子供の頭でも、子供が泣きながら近づいてきたら心配して駆け寄ってくるものだという絶対の認識があった。その認識が通用しないのは、イユを無理やり連れて行き烙印を押す兵士たちや、体の自由を奪い人の記憶を盗み見る魔術師だけだと思っていた。
――――もしくは今、目の前にいる彼女らも兵士や魔術師の類なのだろうか。
びくりとして、彼女らを凝視する。そこで初めてはっとなった。
女たちは一様に死んだような目をしていたのだ。ある者はすすり泣き、ある者は目を閉じて眠っているようにみえる。
だが、それ以外の者はじっとあるはずもない宙をみていた。その顔は全員やせこけ、イユと同じ白色の衣装はぼろぼろになっている。寒さの厳しい地方なのにむき出しになった腕や足には、痣や傷を作っていた。そして全員、烙印を押されていた。
イクシウスの持ち物を示す国章に、個体識別番号。異能者に堕ちたものとして焼かれることとなった、その痛々しいまでの火傷の痕が、まるで彼女たちの精気を奪っているようだった。
動かそうとした手が止まる。女たちのもとへと進んでよいのかわからなくなったのだ。そこが本当の死への入り口のように感じられた。
次の日と言ってよいのだろうか。鉄格子の中は、窓が一つもないので昼夜が分からない。代わりに、照明が点灯する。
結局、女たちに近づけず、その場で丸くなって寝ていたイユはその明かりとざわめく人の様子に目を覚ました。幸い、体は昨日よりずっと楽だった。少なくとも、体を焼き付ける熱さはだいぶひいた。胃はムカムカするし体を十分に動かせるほどに体力は回復していないが、長い間ずっと一か所に閉じ込められていたことを思えば十分すぎる回復量だった。
今思えば異能の賜物だが、そのおかげで異能者施設にいることになったのだから複雑な心境だ。
急な衝撃が思考をかき乱す。思いっきり払いのけられたことに気付いて体を起こした。あれほど動こうとしていなかった女たちが鉄格子のもとへと殺到しているのが瞳に映った。
それは異様な光景に見えた。ぼろぼろの身体で、目だけは急に妖しい光を称え出した女たちが、必死に鉄格子の先へと手を伸ばす。彼女たちが生きながらえるために何かを切望しているのはわかった。
だが、その姿はどういうわけか同じ人とは思えなかった。
一体何をしているのだろう。
じっとみていると、鉄格子の向こう側から兵士たちの姿が目に映る。その兵士たちが荷車を引いているのを捉えた瞬間、女たちの手がそれらを覆い隠して見えなくしてしまった。
鉄格子の壁は思っていたよりも長い。
延々と続く廊下を走るように兵士たちが動いているのだろう。女たちの群がり方をみれば、それが推測できてしまう。
数人の女たちがイユの近くに転がり込んでくる。その手には、木の器を持っていた。その器に顔をくっつけるばかりにしている。
――――これは、『食事』だ。
唖然とした。このような食事は、今までみたことがなかった。木の器の中身がちらっと映る。何かの液体であることは見てとれた。それを女たちが手も使わずに仰ぐようにして飲んでいる。そうしなければ、助からないのだ。
だから、女たちは必死に食らいついている。
今までいた牢とも違う。とんでもない場所に連れて行かれてしまったと察した。
「ぼうっとしているんじゃないよ」
声にはっとなる。振り返ると、髪を短く切られた女がイユを見ていた。最もイユの髪もここにきたときにばっさり切られてしまっている。髪は女の命と聞いたことがあるが、異能者に女としての尊厳はない。ここにいる者たちは皆、同じだ。
「飲みな」
女の手には木の器がある。透明な液体に崩れきった野菜の欠片が浮かんでいる。
ぼうっと見上げているイユに見かねたのか、女はそれをイユの口へと近づける。
飲んでみて初めて分かった。水の割合が随分多いが、確かにスープだ。味はしないし、冷たくなっている。
けれど、久しぶりの食事は凍えきった身体には十分身に染みた。
「ここじゃ食べ物はこのスープと夜にでてくるパンだけだ。死にたくなかったらまずは食べな」
スープなのが良かったのかもしれない。恐らく食べ物を受け付けない体になっていただろうからだ。大人しく頷いて更に飲もうとする。
ところがそこで木の器を取り上げられた。
不満そうな顔をしていたわけではないだろうが、女から弁明される。
「一口だけだよ。他の連中にもあげないといけないからさ」
そう言って、女は去ってしまう。あのときの女の眼だけは死んでいなかった。
そうした女がいる中で、他の女たちは木の器を巡って争いをしだしていた。兵士たちが去ってしまったのだろう。器を貰い損ねた女が、器を手に入れた女に襲い掛かる。木の器を抱えている女に、複数の女が束になって取り合う様子も見られた。激しい奪い合いに木の器から液体が零れ落ちる。まるで獲物を奪い合うケモノのようだと、幼いながらにぞっとした。
少しすると、今度は一斉に女たちが静かになった。
兵士の足音が聞こえてくる。
「さぁ、出ろ」
誘導する声に交じって、鞭で床を叩く音が響く。女たちが一人ずつ順番に牢を出て、どこかへ案内されていく。
すぐにイユもその中に加わった。足元がおぼつかなかったが、足を止めると鞭が飛んでくることは容易に想像できた。
女の列は一定数ずつに道を分かれて進んでいく。
イユが連れて行かれたのは、広々とした一室だ。縦に長いテーブルが用意されていて、そこに白と黒の布が並べられている。牢屋もそうだったが、どこまでもこの施設は冬のようだった。灰色、白、黒。そして時々床に流れた赤黒い色。生命らしい生き生きとした色合いがそこには欠けていた。
女たちはテーブルの前に順番に並ぶ。裁ちばさみ、針、糸……。そういったものがテーブルに並べられているのを見れば一体何を要求されているのかわかる。
だが、裁縫等今までしたことのなかったイユは呆然としているしかなかった。
指示をだされたわけでもないのに、女たちが黙々と作業に取り掛かる。彼女たちは何故かとても必死だった。おどおどしているイユには見向きもしない。
奥の方から鞭で人を打つ音が聞こえてくる。女の悲鳴に立て続けに鞭の打つ嫌な音。身体が反応し、強張った。
けれど、イユ以外の女たちは手を止めずに必死になって作業を続けている。
おかしい。この光景は異常だと、叫びたくなった。助けろとまでは言わない。
けれど、誰かが鞭で打たれていたら、少しぐらい驚いてそちらを見るものではないのだろうか。せめて同情の視線くらい向けるものだと思っていた。
しかし、ここでは皆が皆無関心だ。女たちの視線は手元の裁縫にのみ向けられている。少しでも多く繕おうと、手を動かし続けている。まるで、機械のようだった。
馴染めない。こんなおかしなところにいたくない。
頭に抱いた感情はしかし、近づいてくる兵士の足音によって一気に恐怖へと塗り替えられる。
がちがちと歯を鳴らしてから、周囲を改めて確認する。女たちは絶えず作業をしていた。その成果あって、出来上がった衣類がそれぞれの手元に置かれている。
けれど、イユの布は、縫い方がわからないせいで全く縫えていないのだ。これでは間違いなく、兵士の鞭の餌になる。
必死になって、布に針を通す。指ががちがちと震えている。寒さに怯えに、おまけに本調子でないのだ。一向に進んでいる気はしない。
足音が徐々に大きくなっていく。
慌てて何度も刺した箇所が不揃いでぐしゃぐしゃになっているのは間違いない。作り方を真似しようにも周囲の女たちの手は早く、作業の流れを追っている時間はない。たった数針しか縫ってないのに、指を何回か刺してしまう。そもそも縫い物が人生で初なのだ。初めからなっていない。
鞭の音が響いたのは、すぐのことだった。
痛みを感じるということは、まだ死の世界に踏み入っていないということだ。
灰色の床に崩れ落ちながら、イユは自分自身がまだ生きていることを不思議に思った。身体中が悲鳴をあげている。イユの白い皮膚は腫れ上がり、血が噴き出していた。どうやって鞭の痛みに耐え、どのように縫い物をこなし、そして再び鉄格子の中へと戻ってきたのか、既にイユには記憶がなかった。目を閉じた途端に、意識は闇の中へと攫われていく。




