その324 『来客』
「トントン」という再びのノック音が響く。レヴァスには思い付くあてがないしく、「誰かな?」と口にした。
「失礼します」
入ってきたのは、マーサだった。数人の船員を伴ってくる。騒がしくなりそうだと思ったのだろう。レヴァスの眦がつり上がった。
「何の用かな?仮とはいえ医務室では静かに願いたいのだが」
マーサは、レヴァスの言葉にやんわりと答えた。レヴァスの言葉の鋭さには気がついていない様子である。
「レパードさんが目を覚まされたと聞いたので」
早耳なことだ。レパードが目を覚ましたのは、先程である。
「早速で申し訳ないのですが、レパードさんにお願いがあります」
なんとなく、嫌な予感がした。
「助けてもらえないでしょうか」
マーサはそう切り出す。
「レパードさんに、セーレの船長になってもらいたいのです」
子供たちが船を支える一方で、どうやら大人たちは新しい船長を決めかねていたらしいと、苦々しく思った。マーサは、ライゼリークの妻だった。つまり、現セーレの所有者は彼女だ。だから、彼女自らがここに赴いたのだろう。
けれど、そこで目を剥いたのは、レパードだけではない。口々に反対意見を口にしたのは、彼女が引き連れてきたはずの船員だった。
「マーサさん!そんなお話は聞いていませんぜ!」
どうやら、マーサは今の今まで自分の思いを皆に黙っていたらしいことがわかった。
「昨日今日の付き合いのこいつなんて、信用なりません」
泡を食って捲し立てる緑髪の男に、レヴァスが眉を吊り上げる。騒がしさが気になったのだろう。
だが、レパードとしては、とても納得のできる意見である。船長というのは、船員たちの命を預かる立場にある。判断を誤れば、船はいとも簡単に墜ちるのだ。この人は信頼できると心から思える関係を築いた者でなければ、到底務まらない。
けれども、マーサはがんと譲らなかった。
「夫は、カルタータの外から来ました。レパードさん、あなたもそうですね?」
マーサはレパードを見つめて言う。カルタータの中でなら、船員たちの誰かが船長をやればよかった。しかし、外の世界で生きていかなければならない今、セーレを救えるのはレパードだけであると。それが、夫の望みのはずだと。
一理あった。確かに外の世界に詳しい者の方がこれからはよいだろう。
だが、それがレパードである必要はない。
「俺は、リュイスを助けたいだけだ。船長なんてごめんだ」
はっきりと断ると、マーサは寂しそうな顔を浮かべた。
「それでも、あなたしかいないのです。考え直してはもらえませんか」
レパードは首を横に振った。ぐったりとだるい疲労感があった。
その様子に気づいたのだろう、レヴァスが止めにはいる。
「悪いが、レパードは目を覚ましたばかりだ。長話でこれ以上の負担は掛けられないだろう」
マーサが、不安そうな顔をレヴァスに向ける。
「レパードさんの傷は酷いのでしょうか」
「背中には刺傷、身体中の至るところに火傷、そして矢で射られた傷。手足には斬り傷と、盛りだくさんだ。『龍族』でなければ、死んでいる」
想像以上の怪我だったのか、マーサの顔色が曇った。
「すみません。ですが、私には船を守る使命があります。けれど、私では何をしたらよいかわからないのです。また、お加減が良くなったときに伺います。絶対に、治して下さいね?」
発せられる言葉は、折れてはいない。むしろ、レパードを船長にすることは彼女のなかで絶対になっているのだと思うと、胃が痛くなった。
マーサたちが去った後、確かに負担になっていたらしい――、レパードは自分でも全く気付かないうちに眠りについていた。
再び目を開けると、視界が暗かった。夜だろうか。重傷者の誰かのうめき声が聞こえてくる。うなされているのかもしれない。起こしてやるかと思い立ったところで、急に声が静かになった。
起き上がりかけたレパードは、大人しくベッドで再び横になる。その際、腕に出来上がった水膨れに布団が当たって、思わず顔が引きつった。
痛みで頭が冴えてしまったレパードは、今日、マーサに言われたことを考える。船長になるつもりは毛頭ない。レパードには、そんな資格はないと思っていた。だが、リュイスのことが思い浮かぶ。リュイスを連れて、今後どうすればよいのか。今まで全く考える余裕もなかったから、急にそんなことになっても思いつかなかった。
それでも、リュイスを助けると決めていた。ティルツとの約束はまだ、レパードの中で続いている。
(だが、リュイスを助けるためには、彼の仲間が必要だ)
レヴァスは、リュイスが目覚めない理由に心の傷を挙げた。わかっている。レパードだけでは、リュイスの命は救えても、心の支えにはなれない。本当であれば、家族が、せめて同じ道場にいた誰かが、或いは学校の友人が近くにいた方が、本人は安心できるだろう。
明け方、やってきたレヴァスと朝食を食しながら、昨日の件について話をした。
「そうだな。レパードの指摘の通り、23人もの人間を養えるほどの備蓄は少なく、飛行石もまた足りなくなるだろう」
食べているのは、チョコレートだ。甘みの一切ないビターチョコレート。甘ったるいのは苦手なので、正直助かる。とはいえ――、
「なんで、お菓子ばかりなんだ」
渋々ながら口に含む。本当はもっと肉っぽいものを食したいが、食べられるだけ贅沢だ。
「これは僕の予想だが、はじめのうちは試運転も兼ねて短時間の航行しか計画していなかったのだろう」
つまり、セーレはカルタータを周回する観光船で、それを加えても遠距離の航行を考えていなかったから、客にはお菓子ぐらいしか提供する予定がなかったということらしい。飛行石は腐らないから保管してあったのだろうか。試運転でいきなり長距離を走っているということには、今更ながら不安しかない。
「心配せずとも、チョコレートなら栄養価はある方だ。存分に食せば良い」
「存分は無理だが、分かったよ」
それにしても、カカオの実までカルタータにあったとは思いもよらなかった。それとも狩人によって、外部から持ち込まれたものだろうか。
狩人。浮かんだ単語に、ついつい隣で寝ているマレイヤに視線がいく。マレイヤであれば、カルタータにも詳しく外の世界にも精通している。狩人がカルタータ内で選ばれた数名しかいない存在ならば、セーレの船員たちもどこの馬の骨とも知らないレパードよりずっと安心できるだろう。
しかし、そのマレイヤは今、死に瀕している。
「話は戻すが、昨日聞いてきたところ、どこにいけばいいかも、ここがどこかもわかっていないらしい。とりあえず雲の分厚い場所を選んで突き進んでいるといったところだ。だが、おかげさまで今、自分たちがカルタータからどれほど離れてしまったかもわかっていないと言っていた」
レパードが考え事をしている間にも、レヴァスの言葉は続いていた。視線を感じたレパードが、顔をあげると、レヴァスのそれとぶつかる。
「君なら、この現状をどう打開する?」
策はないわけではない。答えが出ているからには答えるべきだろう。
「ギルドのマドンナを頼る」
都が一つ滅んだこれほどの事態に、あの女が関わろうとしないわけがない。そのための、あの名であろう。事情を話せば、人や物資は借りられるはずだ。
「マドンナという人物は、本当に力を貸してくれるのか」
それなら、医療品を充実させたいと、レヴァスが溢す。レヴァスの視線の先には、マレイヤが眠っている。今も、熱に浮かされて荒い息をついていた。
急げば、マレイヤは助かるかもしれない。そんな考えが、レパードの頭の中に宿った。今まで気づかなかったことに、愚かしさを感じた。まるで霧の中で迷子にでもなっていたかのような気分だった。
そうだ。マレイヤが助かりさえすれば、万事解決する。
彼女を助けるためにも、レパードは、力強く頷いた。
「お前たちなら、大丈夫だ」
しかし、マドンナはこのときから、既にギルドのマスターとして多忙な日々を送っている。
「ただ、橋渡しになれるのは」
自分で呟いて、ため息をつく。そうなのだ、外に出たことのあるマレイヤすらギルドのマドンナとは関わりを持たないだろう。今、その力を借りられるのは、レパードだけだ。
そこだけは、決断するしかなかった。




