その323 『それから』
頬にかかる冷たい何かを無意識に拭き取って、レパードはぼんやりと薄目を開ける。ここはどこだろう。自分は一体何をしていたのか。見えているはずなのに、視界の情報を脳が受け付けない。すぐに分かったのは、体が重いことだった。何があったか思い出そうとする。
思い出したのは、雨の記憶だった。
降り注ぐ豪雨に撃たれたレパードの体は冷えきっていた。誰に助けられたかは覚えていない。気がついたとき、レパードの体はベッドにあって、その部屋ではレヴァスが薬を煎じていた。隣には、ミンドールとマレイヤがいて、反対側には航海室にいた重傷者が寝かされていた。
「意識が戻ったのか、全く大した男だな、君は」
レヴァスの感心の声に、はっとした。飛び起きようとした瞬間、激痛が走る。
レヴァスの冷たい視線が突き刺さった。あっと思ったときにはもう遅い。それから暫くは説教だった。曰く、「何故治ってもいないのに動こうとする?」と。
だが、おちおちと休んでいられる心情ではなかった。聞きたいことは山ほどあった。セーレは今どうなっているのか。ひょっとしてまだ追われているのか。そもそも、どこを飛んでいるのか。その前に、操縦できる者は残っているのか。
それに、ミンドールやマレイヤの傷の容態はどうなのか。そして、リュイスたちは無事なのか。
「全く、君という人間は。何故そこまでの疑問が浮かんで、ひとつも自分の体のことに対する質問がないんだ」
説教が終わった後、真っ先にした質問の山に、レヴァスはまず呆れたようにそう返した。
「とりあえず、君の左右で寝ている二人はまだ目を覚ます見込みはない。どちらも怪我がひどいが、男の方はこのまま安静にすれば目を覚ますだろう」
「『男の方は』?」
気になる言い方に、レヴァスは心底不愉快そうに頷く。
「あぁ。問題は女だ。血を失いすぎている。せめて、もう少しここに医療器具が揃っていれば可能性はあったんだが」
「助からないのか」
言葉にして、ぞっとした。ごくりと息を呑むレパードに、レヴァスは肩を竦める。
「正直、分からない」
傷が深いのは間違いない。むしろ、普通ならもう死んでいる怪我だと、そう語る。
「本人の驚異的な体力が、どこまで続くか次第だ」
そもそもレヴァスはミンドールとマレイヤの名前をレパードが話すまで知らなかった。機関室でライムの診ていたレヴァスが、物音に気づいて廊下に出たところ、男女が階段から転げ落ちてきたらしい。それが、甲板から逃れたミンドールとマレイヤだった。けれどそのときには二人とも意識がなく、慌てて機関室に運び込み応急処置を施したそうだ。
「ちなみに、この部屋は、船内の一室を借りて、使えるベッドを運び込ませて、医務室らしくした。尤も、ベッドの数が全く足りないからな。隣の部屋も使っている」
レヴァスは、レパードに淡々と事実を伝えた。下手な嘘はつかず、はっきりと事実だけを伝えようとする。ごまかしなどしているだけの余裕はないと判断しているようだ。
「君が心配している子供たちだが、隣の部屋を使っている」
レパードが口を開きかけたところを制して、先にレヴァスは答えた。
「皆、無事だ。身体はな」
気になる言い方だったが、幸いにも怪我はないようだ。つまり、倉庫は最後まで襲撃者に襲われることはなかったということだろう。
「リュイスは、あれから目を覚ましていない」
ラビリから子供たちの名前を一通り聞いているらしい。レヴァスは、その名前を告げた。怪我は治っているので、レヴァス曰く、あとは心の問題だろうとのことだ。
心と言えば、家族を失った少女だが、彼女、――リーサというらしい、もリュイスと同じように隣の部屋にいるらしい。
「目を覚ましてはいる。だが、起き上がらない」
「どういうことだ?」
「起き上がる気力がないのだ。心が外の光景を受け付けない」
まるで人形にでもなったように、反応が希薄になっていると。
改めて強く意識する。カルタータの事件は、子供たちの心に深い傷をつけたのだ。
「セーレは、どうだ?何か知っていることはあるか」
レヴァスは、わかる範囲で答えると請け負った。その代わり、一通り聞いたら休むようにと念押しすることも忘れない。
「セーレは、まだ襲撃の傷跡から立ち直っていない。だが、動けたこともある」
レパードが眠りについている間に、襲撃者が隠れていないか一通り確認はしたらしい。幸い襲撃者はいなかったが、代わりに生存者を何人か見つけることになった。船室に隠れていたそうだ。それでも、この時点でセーレの生き残りはレパードを入れて――、
「たったの、23人?」
その数字に目を丸くした。確かに会うたび会うたび、死体ばかり目にして来たが、セーレの目前には、カルタータの都の大多数の人間が集まっていたと記憶している。その新空式にあって、僅か23人だ。都の人数はレパードには分からないが、それが全体の一握りであることは容易に想像がつく。一夜で滅ぶという恐ろしさを数字でも思い知らされた。
「ちなみに、そのうち子供たちは、赤ん坊を入れて8人になる」
レヴァスが告げた言葉に、レパードは思わず沈黙した。つまり、セーレは子供ばかりをつれた船になってしまったということだ。子供だけでは、養ってはいけない。
「船は動かせるのか」
セーレはまだ飛んでいる。ただし、操縦できるかどうかは別の話だ。野放しになって漂った飛行船が、飛行岩にぶつかって墜落するという最悪のシナリオが浮かぶ。
「ラダという航海士が、操縦しているらしい。他は……」
レヴァスの視線の先には、レパードと同じようにベッドで寝込む重傷者たちがいた。
たった一人。その事実に、ただ息を呑む。たった一人の人間が、この船を操縦している。人間はどれほど頑張っても、一日と集中力は続かない。だから、普通は数時間置きに交代するのだ。それにどうしても、睡眠や食事といった休息の時間が必要になる。それなのに、代わりがいない。
まるで足を滑らせたら奈落に落ちる、細い橋の上を歩いている心地がした。
「どうにかなっているのは、子供たち自身の頑張りがあるからだ」
眠っているリュイスとリーサは別にして、残りの子供たちの頑張りは目を見張るものだという。
例えば、まだ幼いライムは、怪我をしているにも関わらず、殆ど不眠不休で機関室に篭っている。航海室を攻められたとき、飛行機関を扱える船員が全滅したらしく、彼女以外に頼れる人物がいなかったのだ。つまり、状況はラダと似ていた。
しかし幸いにも、マーサと一緒にいた子供たち二人が、ライムを手伝いにいっているらしい。
「おかしなものだが、子供たちの方が飛行機関に明るいらしくてな」
学校で教えられているからというのもあるのだろうが、三人が特別優秀なのだろう。これで少しでもライムの負担が減ることを祈るしかない。
ラビリも、赤ん坊を世話しながら、患者の面倒を見に来るという。特に、リュイスとリーサの面倒は熱心に見ているそうだ。髪をとかしたり、食事を運んだり、包帯を取り替えたりもするらしく、レヴァスもとても助かっているという。さらには、食堂を片付けて、どこからか見つけたらしい非常食を船内中に配っているらしい。
そんな話をしているとき、扉をノックする音が響いた。
「噂をすれば、ラビリか」
「失礼します」と礼儀正しい挨拶とともに、ラビリが入ってくる。その視線が、レパードを認めて大きく開かれた。
「目を覚ましたんですね!」
すぐに駆け寄ってくるあたり、いつの間にか懐かれているようだ。
「おかげさまでな」
ラビリの瞳は、揺れていた。心配をかけていたらしい。暫く宥める時間が必要だったほどだ。
「本当に無事でよかったです」
落ち着いたラビリからそう言って渡された非常食は、見るからに固そうなお菓子だった。
「ビスコッティです」
とラビリから説明が入る。答えられたところで、そうですかとしか思えない。食べ物にどうしてそんな洒落た名前がつくのか相変わらず理解不能だ。
「そのままだと固すぎるので、コックのセンさんが、こちらに浸けて食べるようにと」
渡されたのは、紅茶だった。水筒で運ばれてくるのがナンセンスだが、非常時だから文句は言えまい。
それより、センとは誰かと思いきや、レヴァスが助けた食堂にいた金髪の男だそうだ。彼は、厨房のコックだったらしい。騒ぎを聞いて廊下に出たところを襲われたのだという。
「僕としては休んでほしいところだが」
レヴァスの話では、センは怪我を負いつつも、料理の腕を振るい続けているらしい。おかげで、非常食とは思えないほどの美味に変わり、味にだけは困らないそうだ。
確かに、今レパードが口にいれたビスコッティとやらも、アフタヌーンティーにでも出てきそうな優雅な味がした。レパードとは相容れない味である。
「味がよくてついつい食べたくなっちゃいますけれど、逆に数は限られていますから……、美味しいのも考えものですよね」
そう語るラビリも、休憩のつもりか、自身の水筒にビスコッティを浸して食していた。食べ方がリスを連想させられる。
それはともかく、ラビリの話では、非常食は不足しているらしい。そもそも観光船にそんなに常備されていなかったのに加え、襲撃者たちに襲われて殆どダメになっているそうだ。
レパードはその話を聞いて、内心不安になった。食糧もそうだが、飛行石の備蓄が底をつきたら、船は墜ちる。大丈夫だろうか。
だが、ラビリたちはその情報を持ち合わせていなかった。分かる者に聞くしかないだろう。
「それにしても、お前が無事で良かった。倉庫が襲われていないか気が気でなかったんだ」
レパードの言葉に、ラビリは、にこりと微笑んだ。
「正直心細かったですけれど、この子がいてくれましたから」
背中におぶった赤ん坊は、今はすやすやと眠りについている。だから、レパードたちはずっと小声で話していた。
「赤ん坊の調子はどうだ」
レパードの問いに、ラビリの眦が少し下がる。
「今は見ての通り、大丈夫です」
「『今は』?」
言葉に含まれる引っ掛かりを口にすると、言いにくそうにラビリが続けた。
「母乳が手に入らないと思うので」
その不安にひどく納得が言ってしまった。確かにこの船に乗っている者は子供と男ばかりである。船内に都合よく母乳を提供できる女がいればよいが、そうは思えない。
「雲の隙間から、時々島が見え隠れするそうなんです」
ラビリはぽつりと答えた。甲板に出た船員がそう言っていたと。
「あの島に誰かいれば、助けてもらうことも可能なんでしょうか」
正直、どうだろう。カルタータは、国に襲われた。そうなると、下手に助けを求めると通報されて、捕まる可能性もあるのではないだろうか。それなら素性を隠して旅人の振りをするのがよいはずだ。幸い、セーレは外の世界の飛行船と遜色ない。飛行船が着陸するだけなら、きっと外の人間にはカルタータから来たかどうかなど見分けがつかない。
だが、船に乗っている人間はそうはいかない。言葉こそ通じるがよく聞くと訛っているし、使っている貨幣すら違う。貨幣が違えば、物の価値も分からない。そのうえ、無一文だ。加えれば、文化も違う。
ラビリが、不安そうな顔をこちらに向けている。その様子に、安易な判断を口にするのは憚れた。
少なくとも、彼らをいきなり外の世界に放り込むことはできないだろう。明らかに浮いてしまう。追っ手もいるかもしれない今、無闇に下りることだけはしたくない。




