その320 『分厚い雲に包まれて』
何かが甲板の床を駆け抜けてきて、レパードは慌てて横に飛んで避ける。それが風の魔法だと気づいたときには、頭上からナイフが降ってくる。魔弾で撃ち払ったところで、氷の塊が突っ込んできた。すかさず、雷撃で粉々にする。
粉塵が飛び散ったことで視界が奪われる。それを機会として、ミンドールを再び襲おうとしていた『龍族』の大男を魔弾で撃ち放つ。残念ながら、男は避けたのだろう。粉塵でよく見えなかったが、悲鳴は聞こえなかった。
ふいに、熱が頬に掛かる。その瞬間、粉々になっていた氷がジュッと音を立てる。白い煙のようなものが湧き上がった。視界が一気に悪くなる。
煙を突き抜けるようにして飛びかかってきたのは、さきほどの『龍族』の大男だ。ミンドールからレパードに、狙いを変えたらしい。
振り下ろされた剣が、煙を断つ。そして、その勢いを殺さず、レパードの元へと迫ってくる。男の振り回す剣は、鍛冶屋で打たれたばかりのように、赤い。まともに喰らおうものなら、レパードの体は焼け焦げることだろう。
後方に下がるが、剣との距離が埋まっていく。あと一歩、足りない。近づいたことで、はっきりとした熱を感じた。刃物が当たるその瞬間に、体を横によじった。レパードに向かって真っ直ぐに振り下ろされるはずだった剣が、腹部すれすれのところを通り逸れていく。縦に振り下ろされたそれが、床板を突き破る音を聞いた。
それで、安心はできなかった。男の背後からクナイが飛び掛かってきたのだ。
体をよじったことで体勢が崩れていたレパードには、避ける余裕はない。首だけはどうにか動かしたが、避けきれずに、頬に掠る。危うく、唯一見える片目も持っていかれるところだった。
更に、そこで背後から風を感じた。
危機感を感じたその瞬間、すぐ脇で剣を突き出す細身の男の姿が現れた。あと一歩横に動いていたら、頭部を貫かれている。相手の手元が狂ったことに感謝した。ぎゅっと心臓が握られる心地がする。けれど、その予感を感じきる暇もないまま、続けて大男の剣が目に入った。横なぎになぎ払おうとしている。
レパードは、体に無理を言わせて屈みきる。捻る感覚に痛みが走るが、このままでは頭と足がちぎれ飛ぶ。
その結果、剣を突き出した細身の男が、代わりに燃える剣の前に出る形になった。横っ腹を思いっきりぶつけられて、細身の男の体が吹き飛ぶ。焼け焦げる臭いが、鼻を掠めた。
それを見た大男の顔が、喜色に歪んだ。
(味方だぞ?)
信じられない思いで、レパードはその顔を見ていた。或いは、『龍族』たちには、仲間意識すらないのかもしれない。ただ、狩ることだけを楽しみにしている。まるで、魔物のようだった。
いつまでも、唖然としているわけにはいかない。大男が、再び剣を振り上げる。その間に、クナイを握りしめた別の男が駆け抜けてくる。レパードの背に突き立てようと真っ直ぐに駆けていくその姿が、突然霧のなかに沈んだ。
そう思ったや否や、あっという間に、周囲が真っ白に染まった。
はっとしたレパードは瞬間的に伏せた。じとっと湿った感触が、傷ついた頬に突き刺さる。深い霧、いやこれは空の上なのだから、雲と呼ぶべきだろう。
とうとう、雲の中に飛行船が入ったのだ。
これで、戦艦から身を隠せるようになる。セーレは、一つの関門を乗り越えた。
ただ、間違っても有利になったとは思えなかった。戦艦からは身を隠せたかもしれないが、この飛行船には既に大勢の『龍族』が乗っているのだ。こんなときに視界最悪の状況をつくったところで、レパードには何の恩恵もない。むしろ――、
誰かのうめき声が聞こえて、はっきりと悟る。
何も見えない状況での戦闘。この状態は、危険すぎる。
争いの形跡を感じながら、いつ背後から刺されるともしれない恐怖のなか、とにかくと身を落とすことに専念する。ここで闇雲に動く方が危ないとの判断だ。
それにしても、マレイヤとミンドールは無事だろうか。ちらりと思ったが、今はそれより自分の心配だった。目の前で、赤い何かが通りすぎる。目を凝らして気が付いた。血糊がついたナイフだ。はっとしたレパードは、慌てて避ける。頬に衝撃を感じて、歯を食いしばる。誰かがてきとうに振ったナイフが掠ったのだ。先ほどクナイに斬られた傷のうえに、ナイフの熱が走る。眼帯のせいで死角が取られやすいのもあった。特に今回は霧の中だったから、猶更見えにくい。
零れ落ちる血を手で拭いながら、徐々に霧が晴れていくのを見つめる。雲から抜けきったわけではない。ただ、濃い霧から薄い霧へと移動しただけだ。
大男の剣がクナイを持った男に突き刺さっているのを、シルエットとして見つける。あの霧の中で剣を振り回すあたり、やはり正常ではない。そのせいで、仲間を散々に斬りつける形になっていた。
けれど、一方でその大男の体は、凍りついている。間違いなく、氷の魔法だ。深い霧のなか、大男がしたように、無謀にも魔法を放った『龍族』がいるのであろう。
すぐ後ろで気配を感じて、体を反転させる。霧の向こう側から突き抜けてきたのは鈍色の刃物だ。右に躱したところで、刃物を突き付けた『龍族』の姿が現れる。黒髪の青年だった。
すかさず、魔弾を撃ち放つ。しかし、至近距離で撃ったそれは、刃物に擦っただけで終わる。迫ってくる青年に、心臓の毛が逆立った。避けきれない。恐怖に、身がすくむ。
次の瞬間、風が一気に駆け抜けた。青年が風に煽られて吹き飛ぶのを見たその後で、霧がぶわっとレパードに押し寄せてくる。たまらず、目を閉じた。
再び開けたとき、甲板から霧が掻き消えていた。先ほどの青年が、見当たらない。手すりの向こう側まで飛ばされたのかもしれない。代わりに、扉を背にしたマレイヤが、肩で息をしているのを見つけた。先ほどの風は、マレイヤの魔法だったのだろう。この乱戦下で、仲間の位置が特定できないのは辛い。英断だ。
『龍族』の数は、見渡す限り数人に減っていた。霧の中での乱戦で、同士討ちが多く発生していたようだ。代わりに、地面に倒れているミンドールの姿を見つける。頭から血が流れている。それを見て頭が真っ白になった。
「ミンドール!」
慌てて駆け寄ろうとした瞬間痛みが走った。先ほど無理に捻った痛みが、これ以上動くなと伝えてくる。それを無視して走り出したレパードの前に、今度は男が斧を掲げてレパードの行く手を阻んだ。
「邪魔だ!」
殆ど反射で雷撃を撃ち放っていた。男と、さらに駆け寄ろうとした別の男を弾き飛ばす。
そのうえで、地に伏せたミンドールに襲い掛かろうとした男へと、魔弾を放った。
「ミンドール、しっかりしろ!」
駆け付けたレパードは、すぐにミンドールの容態を確認した。後頭部を鈍器で殴られたような跡がある。出血が激しい。歯を食いしばり痛みに耐えているような表情をしているが、目は閉じられていた。けれど、何度か声を掛ければ、微かなうめき声が返る。意識がある。その事実に一つ救われた気がした。
しかし、止血しなければ命が危ない。
「レパード」
名を呼ばれて振り返る。風の矢が、いつの間にかレパードに襲い掛かろうとしていた『龍族』へと突き抜けた。そうして倒れた男の奥で、マレイヤの姿が目に入る。肩を手で抑えながら、たどたどしくこちらに向かって歩いてくる。三人とも入り口に陣取っているから僅かな距離だ。その距離を埋めるために歩くのにも、こんなに辛そうな顔になる。
「使ってくれ」
マレイヤが投げたのは白いハンカチだ。受け取ったレパードはすぐにミンドールの頭部へと当てる。あっという間に染まる赤に、血の気が引いた。
ミンドールとは、今日初めて出会った仲だ。だが、ここで死んでほしくはなかった。今は一人でも多く生かしたい。故に、判断した。
「マレイヤ!」
叫びながら、マレイヤの背後に迫っていた『龍族』を魔法で撃つ。
「ミンドールを頼む!機関室に、医者がいるはずだ」
霧が再びやってきて、徐々に甲板が白く染まっていく。その中で、驚愕に目を開くマレイヤの金色の瞳が光っていた。
「あんた正気かい?!この中を、たった一人で死守するつもりかい?」
「他に手はないだろ」
ミンドールをこのままにはできない。早く医者に診せる必要がある。それに、何も勝算がないわけではない。『龍族』の数は、最初に比べて大きく減っている。同士討ちの結果、怪我をしている者が大半なのだ。だから、レパードたちは今会話を交わす余裕を得た。
『龍族』の雷の魔法を魔法で相殺しながら、レパードは叫んだ。
「そんなに心配なら、ミンドールを預けてすぐに戻ってきてくれ!それまでは持ちこたえる」
一方で自分自身でも無茶なことを言っている自覚はある。ミンドールを離脱させるために、たったひとりで片目の男がここに残るなどとは、なんとも愚かしい。レパードがやられてしまったら、倉庫に隠れているリュイスたちが危ない。それを承知しているのかと、自身に問いかける。
だが、それでも助けたかった。マレイヤと二人で甲板の死闘を生き延びたミンドールに、救いが欲しいと思ってしまった。その思いを消すべきだとは分かっていたのに、どうしても拭い去れなかった。
奪った分だけ、助けたい。それがどれほど愚かで浅はかな考えであるかは自分自身が知っていた。それなのに、心は理性ではどうにもならない。だから、レパードは自身の発言を心の内でどれほど葛藤しようとも、決して取り消せなかった。




